選考委員の宮部みゆきさんが『地図と拳』を評して、
「小説が持つすべての魅力が内包されている」
とおっしゃっていましたが、まさに言い得て妙だなと思いました。
小川さんの作品はどれを読んでも楽しめますが、
『ゲームの王国』も小説の魅力が詰まった作品なので、
ぜひ読んでみてください。
取っ掛かりとして、長編ではなくもっと薄い本から
読んでみたいという人には、『君のクイズ』がオススメです。
千早茜さんは時代小説初挑戦での受賞となりました。
既刊の作品も多いので、書店では千早茜祭りになりそうです。
小説もいいですが、『わるい食べもの』など
食べ物系のエッセイもオススメ。
一方、第168回芥川賞は、
井戸川射子さんの『この世の喜びよ』と、
佐藤厚志さんの『荒地の家族』が受賞しました。
『この世の喜びよ』は記憶について、
『荒地の家族』は時間について書かれた作品です。
興味を惹かれたのは、おふたりとも仕事を持っているところです。
井戸川さんは高校の国語の先生、佐藤さんは書店員です。
今はなかなか作家専業で食べていくことができませんし、
今後、こうした兼業の形が増えていくのかもしれません。
直木賞、芥川賞ともに二作同時受賞となりました(予想は半分だけ的中)。
皆さんおめでとうございます。
さて、最後に当欄ですが、今回をもって終わりにします。
直木賞予想はたぶん第133回からじゃないかと。
第133回といえば2005 年上半期。そう考えると長いですね。
本の紹介は別の場所でも続けていきますので、
興味を持った方は名前を検索してみてください。
長きにわたりご愛読くださりありがとうございました。
受賞作は、小川哲さんの『地図と拳(こぶし)』と予想します。
戦争とは何か、国家とは何か、人間とは何か。
そうした大きな問いに立ち向かった素晴らしい作品です。
この手のスケールの小説は、何年に一回くらいしか現れません。
選考委員にはぜひタイミングを逃すことなく、受賞させてほしいと願います。
また日本を取り巻く国際情勢からしても受賞は時宜にかなっています。
本作は、「新しい戦前」を思わせる今だからこそ読まれてほしい作品です。
もし二作同時受賞なら、
一穂ミチさんか千早茜さんかなとチラッと思ったりもしますが、
やはり『地図と拳』は群を抜いていますので、当欄では単独受賞を推します。
最後に芥川賞も予想しておきましょう。
こちらは井戸川射子さんの『この世の喜びよ』が受賞すると思います。
前作『ここはとても速い川』が抜群に素晴らしくて注目していました。
二作続けてクオリティの高い作品を出した力量は凄いです。
といっても、前作は候補になっていないので、選考では関係ないんですよね。
そう考えると、前回候補になった鈴木涼美さんも有力だし、
彗星のごとく現れた新人が受賞してスターになったケースも
これまであったことを考えると、安堂ホセさんだって可能性があります。
でもここはやはり作品そのものの個人的評価で、井戸川さんを推します。
芥川賞・直木賞いずれも1/19(木)に発表されます。
瀬戸内の島で暮らす高校生・暁美は、
家庭に問題を抱えています。父親が愛人のもとへ走り、
日に日に心を病んでいく母親と二人暮らしをしているのです。
ある日、京都からの転校生・櫂と親しくなります。
櫂もまた、家庭に問題を抱えていました。
スナックを営む母親は、かなり困ったレベルの恋愛体質で、
新しい男ができるたびに子どものことがそっちのけになってしまいます。
島にやってきたのも、京都で知り合った男を追いかけてのことでした。
物語は暁美と櫂との、不器用で純粋な恋愛を、長期間にわたり見つめます。
そこでは、極めて特殊な人間関係が描かれます。
いかに特殊かは要約ではなかなか伝わらないと思いますので、
これはもう読んでいただくしかありません。
(なにしろ冒頭の一文からして変わっています。
「月に一度、わたしの夫は恋人に会いにいく」)
この小説を、そのへんの恋愛小説と一緒にしてはいけません。
ヤングケアラーやネグレクト、毒親の問題、
田舎の因習や、都会と田舎、あるいは男と女の格差の問題などが
実に巧みに物語の中に織り込まれています。
暁美と櫂はそれぞれ、ものを生み出す仕事に関わっていきますが、
小説を書く仕事に携わる作者の心情を投影するかのように、
そうした創作にまつわる熱い思いも作中で語られます。
恋愛小説は基本的に若い人のものだと思います。
年をとるにつれて恋愛が面倒になってくる。
好いた惚れたと大騒ぎするのがバカらしくなってきます。
ある程度年をとると、世の大半の恋愛小説は、
退屈で、ぬるくて、読めたものではなくなってしまいます。
でもこの作品はまったく違います。
世間一般の恋愛小説にはない「強度」があります。
強度とはなんでしょうか。この物語の根底には、
「人と人は基本わかりあえない」という諦念があります。
そしてわかりあえないからこそ、
暗闇の中でも手を繋げるような相手と出会うことが、
いかに奇跡かということを、作者は確信をもって描いています。
この揺るぎない確信が、作品に強さを与えていると思うのです。
絶望的な状況の中で、互いを理解しあえるような関係を
誰かと結べるというのは、なかなかないことです。
その一方で、次々に降りかかる人生の困難の前では、
そうした繊細な関係は実に脆いものでもあります。
それは、暗い夜空に開く花火のように儚いものかもしれませんが、
見る者の目には、忘れられない残像を残します。
小池真理子さんの『恋』や、山本文緒さんの『恋愛中毒』といった
傑作とも似た読後感があります。
退屈な恋愛小説が描きがちなロマンティックな男女の関係ではなく、
剥き出しの人間性がぶつかりあうヒリヒリした感じが心に刺さります。
強く印象に残る作品でした。
物語の舞台は世界遺産としても知られる石見銀山です。
そう、「しろがね」とは、銀(しろがね)のことです。
時は戦国末期。
ある事情で親と生き別れになったウメは、喜兵衛という男に拾われます。
喜兵衛は天才山師でした。山師は鉱脈を見つけ、発掘現場を指揮します。
ウメは男たちと一緒に、間歩(まぶ)と呼ばれる坑道に入って仕事をします。
夜目がきくウメにとって、真っ暗な間歩の中は、恐ろしくもあり、
どこか落ち着く場所でもありました。
ウメの成長とともに、女としての葛藤や、男たちとの関わりなどが描かれます。
粉塵によってやがて肺を病み、短命であることを宿命づけられた男たち。
その一方で、子を孕み、命を繋いでいく女たち。
「銀山の女性は三人の夫を持つ」という言葉が作中で語られます。
この男女の人生の対比が物語に深い陰影を与えています。
女性の人生を描き続けてきた作家らしく、
ウメ以外の登場人物も実に魅力的に描かれています。
いかにも銀山の女という感じのおとよ、遊女の夕鶴、
そして出雲阿国を思わせる旅芸人のおくに。
銀掘(かねほり)として生き、命短く死んでいくことに
1ミリも疑問を抱いていない男たちに比べ、
この小説に出てくる女たちは、それぞれが自分の人生を生きています。
だからといって女たちがみな幸せかといえばそうではないのですが、
少なくとも銀掘の男たちのモノトーンな人生よりは、
いくばくかの輝きを放っています。
時代小説マニアではないので、石見銀山を舞台にした小説は
他に澤田瞳子さんの作品くらいしか知りませんが、鉱山というのは、
実によく世の中の動きを映し出す舞台装置だと思いました。
かつては世界の銀の産出量の3分の1を占めたとされる鉱山が、
空前のシルバーラッシュを経て次第に枯れていくまで、
そんな時代の流れに山や人々が翻弄されるありさまも、
本書では丁寧に描かれています。
時代小説初挑戦とは思えないクオリティの作品だと思います。
東鎌倉で老舗の陶磁器店を営む貞夫と暁美は、
近所に住む息子一家と幸せに暮らしていました。
ところがある日、息子が殺されてしまいます。
犯人は息子の嫁・想代子の元交際相手でした。
別れた恋人に執着した男の単純な犯行と思われましたが、
男は裁判で「想代子から『夫殺し』を依頼されてやった」と主張します。
暁美の胸に黒い染みのような疑念が生まれます。
やがて想代子に対する疑いは闇のように暁美を侵食していき…•というストーリー。
特にトリックなどはないので、ミステリーというよりは心理サスペンスですね。
映像化作品が多いだけあって、本作もすぐにでも映画やドラマにできそうです。
想代子の言動やふるまいは、すべてが疑わしい。
この「疑わしい」という一点で物語を引っ張って行く手腕は、さすがベテラン作家です。
英語では、嘘泣きのことを「ワニの涙」というそうです。
ワニは獲物を捕食した時に涙を流すことからきたそう。
シェイクスピアなどにも出てきますから、
欧米では古くから偽善者の涙の意味で使われてきた言葉のようです。
すべてが疑わしく見えていた人物像が、ある時、反転します。
私たちの他人を見る目がいかに頼りないか、見えているようでいかに見えていないかを、
この小説は教えてくれます。
誰もが楽しめる佳品ですが、それにしても、なぜこの作品で候補に選ばれたのか。
劇場型犯罪を描いた傑作『犯人に告ぐ』とかならまだしも……。
実績あるベテラン作家に対して直木賞ではたまにこういうことがあります。
「なぜ今?」「なぜこの作品で?」ということですね。
雫井さんをご存知の選考委員もいらっしゃるでしょうし、困惑するのではないでしょうか。
日露戦争前夜の1899年に始まり、太平洋戦争が終わるまでの物語です。
中国東北部に築かれた架空の都市の興亡を通じて、
国家と戦争の関係を描いたスケールの大きな作品です。
SF作家として高い評価を受ける著者らしく、
架空都市「李家鎮」のディテールの細かさはさすがだし、
孫悟空が登用するなどキャラクターもユニークです。
李家鎮の誕生から滅亡までを描くことを通じて、
著者は「満州国」とは何だったのかを描こうとしています。
その先には、なぜ日本は戦争に突入したのかという問いがある。
その問いに、作者はひとつの回答を与えることに成功しています。
タイトルにある「地図と拳」とはなんでしょうか。
この言葉は、作中では、ある登場人物が行う講演の中で語られます。
地図とは国家のことです。国境線を画定することで、国家は自らが国家であることを証明する。
一方、拳とは戦争のことです。国家が立ち上がれば、そこに争いが生まれる。
白紙の上に線を引いて地図を描くことも、拳を振るおうとすることも、
どちらも欲望に基づいた行為です。
つまり「地図と拳」とは、人間の欲望の別名でもあるのです。
ひとつ心配な点は、直木賞の選考委員が伝統的にSF作家に冷たいということでしょうか。
でもSF的な設定は、いまや純文学の世界でもポピュラーです。
翻訳家の鴻巣友季子さんは、近著『文学は予言する』の中で、
最近の文学に「ディストピアもの」が多く見られること、
その多くが行き過ぎた生殖医療などSF的な設定を用いていることを書いています。
あるいは、新作『惑う星』が評判のリチャード・パワーズ(アメリカ文学の最先端を行く
作家です)なども、最近はSF的なテーマに接近しています。
いまSFが求められているのはおそらく、あまりに複雑になり過ぎた現実を描くための
ツールが求められているからではないでしょうか。
話が逸れました。とはいえ、本作はバリバリのSFというわけではありません。
歴史を描くのに空想の都市を設定したというだけです。
選考委員の中には、戦争を題材に作品を書いている人もいるので、
なんやかやと文句をつけられてしまう可能性もありますが、
構想力といい、膨大な知識を物語に落とし込む手際の良さといい、
作者は相当な実力の持ち主だと思います。これは傑作です。
小学2年生の結珠(ゆず)はある日、母親にこっそり団地に連れて行かれます。
結珠の父親は医師で、裕福な暮らしをしており、団地に足を運ぶのは初めてでした。
母親は知らない男の人のもとを訪ね、しばらく外で遊んでいるように言います。
ここで結珠は同じ年の果遠(かのん)という少女と出会います。
果遠はシングルマザーの母親とこの団地で暮らしていました。
裕福な結珠と貧しい果遠。ふたりは対照的な世界で暮らしていますが、
互いに母親との関係に問題を抱えています。子供ながらにふたりは惹かれ合い、
結珠が母親に連れられて団地にやってくるたびに、一緒に遊ぶようになります。
ところが、ある日突然、別れが訪れます。
物語はその後、進学先の高校や、アラサーとなり互いに家庭を持ったタイミングでの
奇跡のような再会を通じて、ふたりの関係を描いてきます。
近年、女性作家による作品のひとつの流れに、「シスターフッドもの」があります。
シスターフッド、つまり女性同士の友情を描いたものです。
一見、この『光のとこにいてね』もそうした流れの中に位置付けられそうな気がしますが、
この小説の中で描かれている関係は、シスターフッドとは違うものです。
シスターフッドが女性同士で同じ方向を向いている関係だとすると、
この小説の中で描かれるのは、向き合って互いを見つめ合っているような関係です。
友情というよりも、性的なニュアンスが少し入っているというか。
かといって同性愛ともまた違って、性的なニュアンスといってもほのかに入っている感じです。
このように、なんとも言葉にするのが難しい女性同士の関係を、
この小説ではなんとか言葉にしようとしています。
刊行直後から女性読者を中心に絶賛の声があがっていたのは、既存の作品ではあまり
描かれることのなかった女性同士の関係の繊細なニュアンスを、
この作品ではうまく掬いあげているのかもしれません。
ただ、ひっかかる点もあります。小学生で出会ったふたりが、その後、
二度にわたって再会するのですが、この再会の仕方が、
偶然と呼ぶにはあまりに無理があるような気がするのです。
もちろんそれぞれの再会について、作者はそれなりの理由を用意しています。
用意しているんですが、ちょっと弱いかなと思いました。
物語の作者はいわば神の立場にいるので、登場人物を好きに動かせるわけですが、
その動かし方に乗れる読者と乗れない読者が出てきます。
この小説にハマるかハマらないかの分かれ道は、
「奇跡のような再会」という設定に乗れるかどうかだと思います。
「なんて運命的!」と感動できる人の目には、この作品は傑作に映るのかもしれません。
これまで他の作家があまり描かなかった女性同士の関係を描いた野心的な作品でありながら、
その描き方、作劇上のテクニカルな部分に関して、選考委員からも指摘が出そうな気がします。
今回は人気作家の共演という感じですね。
次回から一作ずつ見ていきましょう。
直木賞は窪美澄さんの『夜に星を放つ』、
芥川賞は高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』が
それぞれ選ばれました。
窪さんの短編集『夜に星を放つ』は、
すべての作品で大切な人との別れが描かれています。
詳しくは各選考委員の選評を見てみないとわかりませんが、
もしかするとコロナ禍の世相も少なからず選考に影響したのかもしれません。
一方、高瀬隼子さんの『おいしいご飯が食べられますように』は、
ほんわかしたタイトルからはおよそ予想できないダークな小説です。
手間をかけておいしいご飯をつくること。
それはとても正しいことのように感じられます。
でも本当にそうでしょうか。
この小説は、「おいしいご飯を食べること」の背後に潜んだ
抑圧や人間の悪意を巧みに描いています。
ごく普通の職場を舞台に、
そして根っからの悪人が出てくるわけでもないのに、
読み心地はえらく不穏なのです。
そのあたりの上手さが評価されたのかもしれません。
どちらの作品も、誰が読んでも楽しめます。
そういうオーソドックスな作品だからこそ、
むしろ受賞はないと予想したのですが、
今回は見事に裏目に出てしまいました。
ともあれ、窪美澄さん、高瀬隼子さんにはお祝い申し上げます。
おめでとうございます!
心を鷲掴みにされるインパクトでは河﨑さん。
創作に携わる人々の情熱に胸を熱くさせられるのは深緑さん。
どちらが受賞してもおかしくありません。
正直、物語の凄みみたいなところでは河﨑さんが一頭地を抜いています。
ただ、河﨑さんは初エントリー。初エントリーで受賞したケースも
過去にはありますが、やっぱり数は少ないです。
河﨑さんについては「次作も見てみたい」という判断に
落ち着くような気がしてなりません。
そんなわけで今回は深緑野分さんの『スタッフロール』を推すことにします。
芥川賞にも触れておきましょう。
今回は候補者がすべて女性ということで話題になりました。
ベテランの物語巧者が揃った直木賞に比べ、
芥川賞には新しい才能に出会える楽しみがあるのですが、
その中でも特に驚かされたのは年森瑛さんの『N/A』です。
主人公は高校2年の女の子。中高一貫の女子校に通っているのですが、
学校では王子様扱いされ、同性の憧れの的になっています。
彼女は体重が40キロほどしかなく、
母親や保健室の先生から拒食症ではないかと心配されています。
でも実は摂食障害などではなく、彼女は生理がくるのが嫌で
やせているのです。ところが周囲は拒食症ではないかと気遣い、
優しい言葉をかけてくる。本人の認識とは著しくギャップがあります。
主人公にしてみればやせているのは個人的な意志によるもの。
これに対して周囲は拒食症にカテゴライズしてくる。
この落差、ギャップが本作を貫くテーマになっています。
主人公には付き合って間もない「うみちゃん」という恋人がいます。
うみちゃんは女性です。これもはたから見ればLGBTQですが、
主人公は「かけがえのない他人」を探し求めているだけで、
相手の性別はどうでもいいのです。ここにもギャップがあります。
マイノリティを前にした時、私たちは相手を気遣い、
やさしく接しようとします。でも、この態度って正しいのでしょうか?
目の前の相手は世間一般からすれば「マイノリティ」という
カテゴリーにあてはまるのかもしれません。
でも「マジョリティ/マイノリティ」という区別をせず、
相手をただの「個人」として接することはできないのでしょうか。
社会的少数者というカテゴライズの是非や、
価値観が異なる相手とどう接していくかというのは、
社会のこれからを考える上で、最先端のテーマです。
優れたクリエイターは、
無意識に現代の最先端のテーマとシンクロするものです。
『N/A』はまさにそうした作品です。
著者が原稿用紙100枚以上の作品を書いたのはこの作品が初めてだとか。
おそるべき才能の登場というほかありません。
芥川賞はこの『N/A』が受賞すると予想します。
まず前半は、旧世代のお話。
戦後すぐに生まれたマチルダ・セジウィックは、
幼い頃から映画に魅せられ、やがて特殊造形の世界へと飛び込みます。
特殊メイクをしたりクリーチャーを作ったりする仕事ですね。
マチルダは子供の頃に、父の友人の脚本家ロニーにみせられた
犬の影絵が心に焼き付いています(お馴染みの両手で犬をつくるやつです)。
幼いマチルダにはその影絵は怪物にみえたのです。
このエピソードは本作を貫く鍵となります。
マチルダは同僚と独立し、小さな会社をつくります。
1968年の『2001年宇宙の旅』、1977年の『スター・ウォーズ』、
1979年の『エイリアン』を経て、80年代は特殊造形や特殊効果の
黄金時代となりました。
ところが、時代はCGの時代へと向かっていきます。
ショックを受けたマチルダは、ある注文仕事のクリーチャーを、
自分の心のなかにあった怪物を投影したものにつくりかえ、
そのまま姿を消してしまうのです。
時代はここから2017年へと飛びます。
新世代の主人公は、1987年生まれのヴィヴィアン・メリル。
彼女はロンドンにあるVFXやCGを制作する会社で
アニメーターをしています。
彼女の会社にある日、大きな仕事が舞い込みます。
往年の子供向け映画『レジェンド・オブ・ストレンジャー』を
リメイクするという仕事です。
『レジェンド・オブ・ストレンジャー』には
「X」という名前の怪物が登場するのですが、
これが特殊造形のクリーチャーの傑作とされていて、
たくさんのファンがいました。ヴィヴィアンも子どもの頃に夢中になり、
Xのぬいぐるみを持っているほど。
実はこのXこそが、マチルダが姿を消す直前に手がけた最後の作品だったのです。
マチルダの名前はスタッフロールにものったことがありませんが、
オタクたちが彼女の名前を発掘し、「伝説の造形師」として世に知らしめたのです。
『レジェンド・オブ・ストレンジャー』に関わったのをきっかけに、
ヴィヴィアンは思いもよらないトラブルに巻き込まれます。
そして時を超えて、伝説の造形師マチルダとつながるのでした……。
マチルダとヴィヴィアンは、世代こそ違いますが、とても似ています。
自己評価が低く、職人気質。
自分の作るものに満足できず、いつも自信がない一方、飽くなき向上心を持っています。
読んでいると、この作品はまず、
「技術」についての物語であることがわかります。
ここでいう技術とはテクニックのこと。
映画でも小説でも、想像力をかたちにするためには、技術が必要です。
この「技術を高める」ことの難しさや大切さがしっかり描かれています。
一方で、技術にはテクノロジーの側面もあります。
アナログからデジタルへ。この数十年で世界は大きく転換しました。
本作においてマチルダはアナログを、ヴィヴィアンはデジタルを
代表した存在として描かれます。このふたつは対立するものなのか、
それとも……というのも読みどころのひとつ。
もうひとつ、この小説は、ものを創る人々の連帯も描いています。
情熱をもって創作すること。
その一点で、人は世代を超えて連帯することができる。
マチルダとヴィヴィアンの物語を通じて、
小説家である著者のそんな熱い想いが伝わってきます。
「ものを創ること」をめぐる素晴らしい人間賛歌です。
ひとつ気になったのは、マチルダのパートが
やや駆け足に感じられたことでしょうか。
マッカーシズムやベトナム戦争、各時代を彩った名作映画の数々。
そんなトピックスにあわせて、マチルダのエピソードが
描かれるせいかもしれません。歴史や映画史の知識がある人からすれば、
「ずいぶん時代が飛んだな」と思えるところがあるかもしれませんね。
長い時代を描いているという点では、『絞め殺しの樹』も同様ですが、
あちらは主人公の人生をそれほど歴史的トピックスと結びつけていないので、
時の経過があまり気になりません。
このあたりを選考委員がどうみるか気になります。
「仏は眼が入って初めて仏となるのです。男たちが戦で彫り上げた
国の形に、玉眼を入れるのは、女人であろうと私は思うのですよ」
東大寺の大仏を前に語るのは、天台座主の慈円。
話に耳を傾けているのは、源頼朝と北条政子、その娘の大姫。
そして、物語の主人公・周子です。周子は京の六条殿に仕える女房です。
慈円はここで、国造りの仕上げをするのは、女性ではないかと言っています。
物語の冒頭に置かれたこの慈円の言葉通り、
本作は政(まつりごと)に関わる女たちの物語です。
六条殿の主人は、亡き後白河法皇の皇女の宣陽門院。
その母親である丹後局は、政から宮中の人事に至るまで大きな影響力を持っています。
この丹後局から周子にミッションが下されます。
頼朝と政子の娘・大姫を入内させるという命を受け、鎌倉に下るのです。
入内というのは宮中に入るということ。
そこで帝に見初められ、男児を産めば、
丹後局はますます力を得ることができます。
ただし、そこには当然、カウンター勢力もいて、
帝の乳人を務めてきた卿局は、娘の重子を帝に近づけようとしています。
物語はこうした女性の権力闘争の趣で幕を開けます。
ところが周子が鎌倉に下ってからの話は、雰囲気ががらりと変わります。
大姫は明らかに心を病んでおり、コミュニケーションもままならない。
そもそも入内できるような状態ではなかったのです。にもかかわらず、
入内は大姫のためと信じて疑わない母親の政子は前のめりに事を進めます。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を観ている人はご存知だと思いますが、
大姫にはかつて想いを寄せた人がいました。木曽義仲の息子・義高です。
でも義高は人質の身。義仲を討ち取った後、頼朝は義高も殺してしまいます。
では大姫の病は、この想い人を殺されたショックによるものなのでしょうか。
読んでいくと、大姫の病の理由はそれだけではないことがわかってきます。
母親・政子との関係が大きく影を落としていることが見えてくるのです。
当初、女の権力闘争の物語かと思われたものが後景へと退き、
かわって母と娘の関係の物語が前面に出てきます。
政子は情が濃く、思い込みが強く、すべては娘のためと信じて疑いません。
でもそれは娘の大姫にとってはとてつもない負担なのです。
政子は今の言葉で言えば「毒親」かもしれません。
周子はいつしか自分のミッションも忘れたかのように、
大姫に寄り添うようになるのでした……。
大姫の入内は、「鎌倉幕府最大の失策」とも言われています。
この謎の多い事件を、著者は「わかりあえない母と娘」の物語として描きました。
候補作の中では唯一の時代小説。
独創的な視点で描かれた物語ですが、少し起伏に乏しい印象もあります。
些細な傷害事件で、ある酔っ払いが野方署に連れられてきます。
酔っ払いは、坊主頭で小太りの中年男。腰が低く、卑屈な笑みを浮かべています。
男は自らを「スズキ タゴサク」だと名乗ります。
いかにも偽名ですが、男は本名だと言い張ります。
見た目も冴えないし、たかが酔っ払いの戯言と見くびる警察ですが、
男は取調べの中で「十時に秋葉原で爆発がある」と言います。
直後に秋葉原で本当に爆発が起こります。
男は「次は一時間後に爆発します」と予告します。
警察は男を止めることができるのか。そもそも男は何者なのか。
限られた時間の中、男と警察との頭脳戦が始まります……。
本作の「スズキ タゴサク」なる人物は、
ミステリーにおける悪役キャラの歴史の中でも
「不気味さ」という点で際立っています。
ニコニコと愛想よくしゃべりながら、目の奥は笑っていない、みたいな。
それでいて、いつの間にか相手をとりこんでいる。実に恐ろしい人物です。
まずこの「スズキ タゴサク」という
類稀なる悪役キャラをつくりあげた点が評価できます。
「動機が不明」というのは、いかにも現代的なテーマでしょう。
ミステリーの歴史の中で、画期的な悪役といえば、
トマス・ハリス『羊たちの沈黙』のレクター博士でしょう。
でも、いかにもおそろしげなレクター博士と比べても、
にこやかに爆弾を起爆させる「スズキ タゴサク」のほうが
よっぽど恐ろしい。
また日本のミステリーで稀代の悪役と言えば、
貴志祐介さんの『悪の教典』の主人公、蓮見聖司が思い浮かびます。
有能な教師の仮面をかぶった大量殺人鬼です。
ただ、蓮見は共感性が欠如しているために
簡単に人を殺せるのだということが、作中でも明かされています。
理由がわかっていると、それほど怖さは感じません。
これと比べると、「スズキ タゴサク」の正体のわからなさは実に不気味。
ミステリー小説なので多くは明かせませんが、
事件について、ある程度読者が納得できる種明かしをしつつ、
しかも不気味さを引っ張るという本作の終わり方も見事だと思います。
選考委員の中でもし議論になるとすれば、
「スズキ タゴサク」の扱いを巡ってではないでしょうか。
ネタバラシを避けるためにもってまわった言い方しかできず
申し訳ないのですが、物語の中心にいた「スズキ タゴサク」が、
ある時点からそうではなくなるところがあります。
それまでの何とも言えない気味の悪さがちょっと薄まるんですね。
このあたりは本作の評価を巡って議論になるのではないでしょうか。
星をモチーフにしているということは、そこに作者の意図があるはず。
では、その意図はなんでしょうか。
星は一見、光輝いて見えますが、
私たちから見えない側は暗かったりします。
明るい面と暗い面。まるでそれは人間の二面性のようでもあります。
あるいは大気の状態によっては、星がまたたいて見える時があります。
その光の強弱や一瞬のきらめきを、人生になぞらえているのでしょうか。
また、夜空に輝く星は、時に希望にもたとえられます。
傷ついた心に灯る希望の象徴として、星を選んだのでしょうか。
読んでみると、これらはすべて当てはまっていました。
たとえば「真夜中のアボカド」。主人公は30代の独身女性です。
彼女は一卵性双生児の妹を亡くしていて、
妹のかつての同棲相手と月命日ごとに会い、弔いがわりに食事をともにしています。
一方、婚活アプリで出会った男性との微妙な関係に悩んでもいます。
主人公の心の揺れがとても繊細に描かれたこの作品は、
人間の光と影を描いているといえるでしょう。
「真珠星スピカ」は、交通事故で母親を亡くした女子中学生が主人公。
彼女は学校でキツいいじめにあっています。彼女には秘密があります。
亡くなった母親の幽霊がみえるのです。母親の幽霊との奇妙な同居生活は
意外な結末を迎えますが、胸がじんわり温かくなるようなエンディングです。
ここでは星は希望の象徴です。
どの作品も読みやすく、読んでいるとはっとするような言葉に出会ったりもします。
さすがだなぁと思う一方で、直木賞候補作にしては、
いささかこじんまりとし過ぎのようにも感じます。
さて、このあたりを選考委員はどうみるでしょうか。
河﨑さんは今回初ノミネートながら、デビュー以来、着実に力をつけてきた作家です。
もともと北海道のご実家が酪農を営んでいて、河﨑さんご自身もニュージーランドで
緬羊の飼育を学び、実家で羊飼いをしながら小説を書いていました(現在は執筆に専念)。
『颶風の王』で三浦綾子文学賞ほかを受賞し、
『肉弾』で大藪春彦賞、
『土に贖う』で新田次郎文学賞を受賞しています。
作品を発表するたびに大きな文学賞を受賞しています。
なぜ河﨑さんがこれほど評価されるのかといえば、
それは彼女にしか書けない物語を書いているからに他なりません。
では、河﨑さんにしか書けないものとは何か。
一言でいえば、「北の厳しい自然と向き合って生きる人々の物語」です。
今回の『絞め殺しの樹』も、舞台は北海道の根室です。
主人公のミサエは、両親の顔を知らず、根室の元屯田兵の吉岡家に引き取られ、
下働きとして奴隷のようにコキ使われます。昭和10年のお話でミサエは10歳。
現在なら児童労働は大問題になりますが、
この時代にはこうしたことは珍しくなかったのかもしれません。
このミサエが徹底的に苦しい目にあいます。それはもう、これでもかというくらい。
年配の読者の中には、ドラマ『おしん』を思い浮かべる人もいるかもしれません。
そう、まさにあれです。
やがてミサエは、吉岡家に出入りしていた富山の薬売りに助けられ、
札幌の薬問屋で奉公しながら看護を学んだのち、保健婦として根室に戻ることになります。
ようやく人生が明るい方向に開けたかと思いきや、
ミサエの身にまたとてつもない悲劇が降りかかります。ここまでが第一部。
第二部は、時代も現在に近くなり、ミサエの息子の視点で物語が進みます。
ある事情で息子はミサエのことを知りません。ですが、息子の目を通して、
ミサエという人物の本質が浮かび上がって来る仕掛けです。
とても読み応えのある大河小説です。
タイトルを見て「絞め殺しの樹」ってなんだろう、と思った人も多いはず。
実はこれ、シナノキのこと。菩提樹といったほうが日本では一般的かもしれません。
蔓性の植物というのは、なにか他の木に巻きつかないと生きていけません。
他の木にからみついて、養分を吸い、やがてその木を枯れさせてしまいます。
だから別名がシメゴロシノキ。
私たちがイメージする菩提樹には空洞がありますよね。
あれは、巻きつかれた木が枯れてしまったためです。
ミサエはいわばツルに巻きつかれる木でした。
いろんな人がミサエを利用し、騙し、痛めつけます。
でも見方を変えれば、巻きつかれる側の木は、真っ直ぐで強く伸びるからこそ、
ツルも巻きつくことができるわけです。
作中、ある人物がミサエに、
「あなたは、哀れでも可哀想でもないんですよ」と語りかける場面が出てきます。
またお釈迦様が悟りをひらいたのが菩提樹の前だったということも
象徴的なエピソードとして出てきます。人生について深く考えさせられる作品です。
唯一気になったのは、ある時点まで非常に重要な役どころとして出てきた
富山の薬売りの男性が、途中からまったく影が薄くなって、
あるところで亡くなったと説明されるところ。このあたりは、
やや登場人物が物語の駒っぽく扱われていると感じました。