第44回かもめ亭レポート

文化放送主催第44回『浜松町かもめ亭』公演が2月28日(月)、文化放送12階の「メディアプラスホール」で開かれました。
今回の番組は「円熟のベテランと新鋭二ツ目競演企画」の第一弾!
「喜多八・一之輔の会」

そして番組は
『ひと目上り』      立川こはる
『短命』          春風亭一之輔
『長短』          柳家喜多八
仲入り
『明烏』         春風亭一之輔
『うどん屋』       柳家喜多八
といった内容でした。

立川こはる
<立川こはるさん>
東風吹かば こはる日和 遠からじ

今回の開口一番は前回の公演をインフルエンザで休演した『かもめ亭』のアイドル、立川談春師匠門下の前座・こはるさんが復帰登場。最近、ひとり会も始めるなど、愈々、高座に熱の入ってきたこはるさん。落語会の公演評で某新聞に「女性落語の可能性を期待させる」と書かれた地力を懸命に磨いている最中。ここの所は、立川流の必修科目である講釈の修羅場『三方が原軍記』の習得に懸命なこはるさんです。

本日はサラッと挨拶をすると直ぐ本題の“彼女の二ツ目上りはいつなんだ落語”『ひと目上り』へ。お馴染み隠居さんと八五郎の頓珍漢な会話から始まりますが、今夜のこはるさんは隠居も八五郎も、談春師匠譲りと申しましょうか、兎に角無闇矢鱈と威勢がよく、会話がポンポンと弾みます。とはいうものの、細部は丁寧で、特に八五郎が隠居から教えられた掛け軸の「讃」の褒め方を一人合点して、町内をウロウロするスットコドッコイなキャラクターの表現が秀逸。見物していた某新聞記者が「巧くなったなァ」と感心しておりました。

「八公、八公」「犬だな、そりゃ」という遣り取りも可笑しかったけれど、「讃」を褒めに大家の家へ行ったら掛け軸が「詩」で、「詩」を褒めに医者の先生の家へ行ったら掛け軸が「悟」で、何が何だか分からなくなった八五郎が「町内巡り廻って、罠にかかってんじゃないだろうな?」と一人ごちる件の混乱ぶりは確かに秀逸。最後に向かった熊の家に入った途端も「来たな、分からずや!」と呼ばれるのも仕方ない八五郎が、無理に頭を使って、七福神の絵を「中国の昔のマンガか?」と益々混乱している様子が実に愉しい。見事に高座を温めてくれました。

春風亭一之輔
<春風亭一之輔さん>
吉宗が 美人を無視した 真の意味

続いての登場は、円熟真打との競演第一号に選ばれた春風亭一朝師匠門下の精鋭、春風亭一之輔さんが登場。昨年後半は受賞ラッシュでしたが、それも当然と言わぬばかりの急成長で、二ツ目の馬群から抜け出しております。
「喜多八師匠と仕事帰りのお客さん、草臥れている者同士の睨みあいの間で、あたしはどうすれば?」とボヤくのがマクラの始まり。そこからスッと「(前の『ひと目上り』と)ネタがつきますが」と断っておいて、敢えて、これまた隠居と八五郎の会話から始まる“伊勢屋主人三回過失致死事件落語”『短命』へ。つい先日、池袋演芸場でも伺いましたが、かなり独特の雰囲気です。

隠居の家へ伊勢屋の旦那の弔いで述べる「悔み」を教わりに来た八五郎。
そこから、伊勢屋の婿旦那が短期間に三人、謎の死を告げた話を始め、隠居に理由を問いかけます。最初に来た二枚目の婿旦那が早死にしたので、「二番目は頑丈なのを」と婿に入った婿旦那を評して「顔なんか岩みたい(顔真似をして)・・察して下さい」と言ったかと思うと、「(その岩みたいな無味とも仲がいい)、何でもいいんだね、あの女(伊勢屋の家付美人娘)は!」と怒ったり、一之輔版『短命』では、この八五郎のキャラクターの変さ加減、気弱さ加減が実は一番可笑しい。隠居が憶測して、「代々の婿旦那の早死には腎虚(閨房過多)だ」という事をさりげなく教えようとしますが、八五郎 先生は物凄く鈍くて分からない。「一寸、なんか見下してるでしょ」と隠居に反抗したりするので、ついに隠居が切れて「帰ってくんないか。やる事があるんだ、隠居とはいえ!」と怒り出すのも無理はありません。
勿論、ギャグも独特で、八五月郎が「あの娘が(婿)さんに毒を盛った!」⇒隠居「何で夫婦仲が良いのに毒を盛るんだ!」⇒八五郎「倒錯した愛(冷静に)」⇒隠居「帰れ!」⇒八五郎「います(冷静に)」という辺り、大笑いしながら、「隠居と八五郎は仲が良くなきゃいけねェ」という、五代目小さん師匠の教えも吹っ飛びそうな「不条理な人間関係」を感じましたね。なんか、昔のアントニオーニ監督の映画みたい(そう思うと、一之輔さんには不条理映画によく主演していたイタリアの故マルチェロ・マストロヤンニみたいに醒めた部分があるなァ)。

それでも、「(目の前に、茶碗に飯をよそって渡してくれる美人の家付娘がいると)思いなさい!」と体を伏して、自らを八五郎の視線から消してまで、伊勢屋の婿旦那代々の視線に何が映っていて、なぜ腎虚に至ったかを説明してくれた、条理に生きる隠居さんの苦闘のお陰で、やっと「代打の婿旦那が短命の理由」を八五郎は理解します。
この八五郎が自分のうちに帰ると、かみさんに凄い勢いで怒鳴られますが、その声に対して「いつも乍ら、気持ちのいい声だ」と感心する辺り、八五郎 は真性のMかしらん。
その挙句、おっかないかみさんと琴瑟相和している八五郎は、「(美人の家付娘と同じように飯をも った茶碗を手渡して)」と頼んで、かみさんに「金取るよ!」と言われても、決して真性Mを崩さず、「払うから!」と懇願した挙句、人生のどういう真理を知って愕然としたかという、妙に共感出来るオチに至るのであります。立川談笑師匠のように、『短命』をホモセクシュアルのセックス噺にした方はいますが、Mの真理到達噺にしたのは一之輔さんが初めてでしょうね。深いような、浅いような(笑)

柳家喜多八
<柳家喜多八師匠>
病弱と 答えて みんな納得し

仲入り前は『かもめ亭』お馴染みの柳家喜多八師匠が登場。
実は、一寸体調を崩されていて、この日が四週間ぶりくらいの復帰高座でありました。「“疲れが取れない”は本当だったんだ」と、みんなが驚いてました。 御当人は「御期待に添えるかどうか、どっちかてぇとあたしは素直じゃないもんで」とボヤキ乍ら、“合縁奇縁は男女不問落語”『長短』へ。

気の長い長さんが、友達で極く気の短い短七の家を訪ねて、短七をイライラさせるだけの15分間という、五代目小さん師匠以来の柳家のお家芸ですが、病上がりでフワフワした感じの喜多八師匠は、長さんも短七も何故か喋り方が師である小三治師匠ソックリ。
この数年、小三治師匠から完全に離れて独立した芸を築いた!と感心していた喜多八師匠ですが、不思議なものですねェ。尤も、談志師匠も小三治師匠も『かぼちゃ屋』を演ると、五代目小さん師匠ソックリになっちゃいますから、それが噺家の師弟関係の混本なんでしょう。

長さんが前夜の話をトロトロする件で「(夜中に小便に起きた際)、“近頃は小便が近くなったなぁ”と思い乍ら、“(小便の後)手くれェは洗わなきゃな”と」とポツポツ喋る辺りの可笑しさは独特です。
喜多八師匠の『長短』では、この長さんが短七に感じている友情がことのほか結構。菓子を急いで食べて噎せかかる短七に「大丈夫かい、お茶でも淹れた方が」と語りかける言葉など、五代目小さん師匠とはまた違う、知的な品の良さを伴う好人物ぶりが現れます。
結果的に、短七の袂に入って燃えだした煙草の吸殻を手っとり早く教えられなかったために短七は怒りだしちゃうのですが、それでも長さんは逆ギレしたりしないのが分かる。柳家のお家芸の精神は伝承されていると、妙に嬉しくなった高座でありました。

<春風亭一之輔さん>
源兵衛と 太助は馬鹿だ なぁ花魁

仲入り後はマー再び一之輔さん。マクラは余りふらず、“二枚目と出かけると割を食って分かってるじゃないの落語”『明烏』へ。これは『正蔵・馬石・一之輔の会』で伺って、その面白さにリクエストした演目ですが、「(予め演目を出してあると)落語について初心の方は『明烏』について調べてきたりしまして、“バッチリ予習して来ました”“マッサラで来い!”」と、注目される若手ならではのボヤキみたいな話を経て本題へ。

日本橋田所町日向屋の一人息子・時次郎は滅茶苦茶に人間が真面目。店子の祝い事に出かけ、子供の挑戦に受けて立ったり、出された赤飯を十三杯も食べる色気の無さに、親旦那をして「余り良い格好じゃないな」とボヤかせます。この親旦那当人はかなり遊び人で、廓道楽もかなり経験してきた、という設定ですが、それでいて、時次郎の事をちゃんと心配している、という条理の親子関係が一之輔さんの良いところでありマス。

このチェリーボーイ・時次郎が、親旦那の了解のもと、「町内の札付き」にして「悪の権化」と称される源兵衛・太助に騙されて、「お稲荷さんのお籠り」という名目で、吉原へ向かう訳ですが、源兵衛・太助は一之輔さんのニンにピッタリで、その可笑しいこと。ウブというよりは些か無礼に近い時次郎に「町内の札付き、悪の権化」と面と向かって言われても平気の平左。
「いいですね」「面と向かっていわないように」と受けた挙句、時次郎を金主に吉原に向かうについて「ヨロシクお願いシマ〜ス」と平然と言えるのんきさが「落語の小悪党」らしくてステキ。小悪党ぶりが適役なだけでなく、ドサに間抜けな小悪党でなく、十分にすっとこどっこいなんだけれど、何処かいなせな江戸っ子を感じさせるのが妙でありますゾ。時次郎も時次郎で、吉原への道すがら、源兵衛太助から与太な知識を告げられても、「勉強になります!」と感心している「勤勉与太郎」の見本みたいなのが嬉しい。
源兵衛太助のために「巫女さんの寄宿舎」(寄宿舎というギャグはこの噺で初めて聞いたかな)となったお茶屋の女将が「私が当寄宿舎の御巫女頭で」と挨拶するのも愉しい。今の桂南喬師匠の女将がテレて、店の女子衆に「お前たちも早く祝詞の御稽古をしないかい!」言ったのと双璧の可笑しさです。

お茶屋から大店の貸座敷、いわゆる女郎屋につれて行かれた時次郎、花魁の姿を目にして、やっとここが廓だと気がつきますが、そこで「“青少年吉原入門”の36ページで読みました」と言うギャグには大笑い。そんな本があったら是非復刻して、全国の高校の図書館に配布したいもんです。
そこからメソメソしだした時次郎をみて、源兵衛太助が「二十歳の男が泣いてんの、初めてみた」と感心したり、「悪の権化だぞ、オレは少し傷ついてんだ!」と怒ったりするのがまた愉しい。
そこに、怪物みたいな遣手婆が登場しますが、これはさん喬師匠の『徳ちゃん』に登場する田舎出の化け物じみた女郎と双璧の「廓の悪夢むみたいなおばさんで、時次郎「(あなたは吉原で働いていて)恥ずかしくないんですか?」⇒遣手「恥ずかしくないですよ、オバサンだから」という遣り取りが絶妙。確かに遣手は男だと恥ずかしくて出来ないかもしりませんねェ。 困り果てた時次郎が「ナイチンゲールという人はクリミア戦争で3000人の負傷兵を助けた」(この辺りを聞いてると、明治時代みたいな雰囲気ですね)といっても、「吉原にも女の子が3000人いるんですよ」と平然としてるオバサンは凄い!と唸っちゃう。

結局、時次郎はお職の花魁・浦里の部屋に泊まる羽目になりますが、翌朝の源兵衛太助の会話で「最初のうちは花魁に“正しく生きるには”と説教をした」というのがまた抜群に可笑しい。しかも、時次郎は見事にモテて、花魁の蒲団の中でモゾモゾしてるのに、源兵衛太助が振られちゃって、「清い体で帰れる。明日から良いお職人さんになろう」と反省したりする間抜けさが矢張り、この噺の白眉でありましょう(この二人は馴染みの女郎がいた筈なんですが、それに振られるというのが、この噺でイマイチ、大半の噺家さんが整理の出来てない点かな)。反省しながら、モゾモゾしている時次郎を見てキレ、「今の姿をナイチンゲールが見たら」と怒鳴る件が、“人間は煩悩の器だなァ”と可愛らしく感じるのですね。「いずれ、立派なトリネタになる可能性大」と信じて、一之輔さんの一日も早い真打昇進を祈願するために、私もお稲荷さんにお籠りしようと思った高座でありんした。

<柳家喜多八師匠>
うどん屋の 吐息溜息 寒の息

本日のトリは再び柳家喜多八師匠。前の『明烏』を受けて、「寄席も最近は女の子の前座がいて、着替え用の茣蓙を丸めて持っていると夜鷹みたいで」と笑わせてから、「飲みだすと肴に手が出ないタチで」という酒飲み話から、さらに、「かき揚げ天ぷらそばに、かき揚げを追加してぬね焼けを堪能する」という立ち食いそばの蘊蓄を経て、“ある夜の出来事・夜商い篇落語”『うどん屋』へ。これは三代目小さん師匠以来の柳家のお家芸であります。喜多八師匠は勿論、小三治師匠、柳亭小燕枝師匠、柳家さん喬師匠、喜多八師匠から御稽古を受けた柳家喬太郎師匠たちからも、よく伺う演目であります。

「なっべ焼ァきィうっど〜ん」という売り声と共に夜泣き鍋焼きうどん屋が商売に出ます。五代目小さん師匠の売り声は「江戸っ子はうどんなんて間抜けなものは好まなかった」というマクラそのまんまに如何にも間抜けな野太い調子でしたが、喜多八師匠は何処か哀切な、細い調子です。
そこへ現れた酔っ払い。うどん屋を捕まえて、昔、隣に住んでいて、子供時代に可愛がった仕立て屋の娘が今晩婿を取った、という話をくどくどと何度も繰り返します。演者によって、人物造形は違いますけれど、喜多八師匠の酔っ払いはさみしさよりも嬉しさの勝つ、といった雰囲気。勘所で調子を張る陽気さと、飽くまでも嬉しさ中心な点が良くて、桂枝雀師匠の酔っ払いを思わせる言葉の意味不明さがまた可笑しうございました。うどん屋がまた、夜商人らしい愛想をするのが結構。その柔らかな物腰、丁寧な言葉遣いに、如何にも、初老のうどん屋の雰囲気が漂います。それでいて、余っ払いの「うどん屋、お前ェ如才ねェな」に、一寸陰の差す陰陽の味付けが感じられるのが妙味というべきでしょうか。この辺り、私は小三治師匠の『うどん屋』より、喜多八師匠の方が好きです。何課、酒飲みの孤独があるんですね。

 
酔っ払いの話を聞かされた挙句、うどんを食べて貰えなかったうどん屋は「女房の言う通り、今夜は休みゃ良かった」とボヤキ乍ら、商売を続けますが、「子供が寝たばかりだから静かにして」と長屋のおかみさんからケンツクをくったりと、どうも厄日っぽい。それでも、深刻な体験には聞こえないのが、落語って芸の「程の良さ」を表現してます。

終盤、大店のくぐり戸を開けて出てきた客に小声で呼ばれたうどん屋は、「店の若い者が主人には内緒で、寒さしのぎにみんなでうどんを食べようってのか。これだから、商売は怠けられない」と再び商売に精を出しますが、アテが外れてオチがつく訳ですが、この客がうどんを食べながら、ふいに横を向いてしまう件は、「この人は試しに食べて、美味かったら戸から次の客がでてくるのかな?」と、ジッとみつめているうどん屋の姿と共に、「物を食べている所を人に見られるのを恥ずかしがる、都会人らしい恥じらい」が感じられる結構な演出。街の夜更けの色が漂う高座でありました。

という訳で、第44回『浜松町かもめ亭』。八五郎が「我腎虚ならず」という、一寸切ない人生の真理を知る『短命』に始まり、長さんのセリフに友情の真理がホッコリと描かれた『長短』、仲入りを挟んで、「二枚目に同行してモテようと思うな!」という非二枚目の哀しい真理を描いた『明烏』から、「たまにはこんな夜もあるさ。決して明けない夜はない」と、シェイクスピアもどきに小商いの真理を描いた『うとん屋』というラインナップで、お客様に御堪能を戴けた次第・・・・・次回のかもめ亭も、何卒御多数ご来場あらん事を。


高座講釈:石井徹也(放送作家)




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