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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
8月8日(月)〜8月12日(金)今週のテーマは「真夏にひんやり」
ゾーッと背筋も凍るような、都内各地のこわ〜い場所のこわ〜い話を特集します。


8月8日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、文化放送の地元・四谷、おなじみ「東海道四谷怪談」をご紹介します。

鶴屋南北作「東海道四谷怪談」から、
愛する夫・伊右衛門に裏切られ、毒薬で殺された
お岩さんの亡霊が語る有名なセリフですね。
「東海道四谷怪談」は、1825年(文政8年)初演。
忠臣蔵をモチーフに描かれた「裏・忠臣蔵」ともいえる内容で、
関係者一同が腰を抜かしてしまうほどの大当たり。
それから百八十年が過ぎた現在でも、その人気ぶりは変わらず。
歌舞伎の舞台はもちろん、映画、テレビなど、さまざまな
ジャンルで繰り返し取り上げられる古典となっています。
南北はこの戯曲を、当時、江戸の町で人々の口に上っていた
いろいろな怪談を元に書いたと言われています。
主人公・お岩さんにはモデルがいました。
ここ文化放送から歩いてほんの5分ほど、四谷左門町に住んでいた
同心・田宮又左衛門の娘である「お岩」さん。
このお岩さんが、仲人と夫にダマされて非業の最期を遂げ、
幽霊になって恨みを晴らそうとした…という伝説が元です。
ご存じの方も多いと思いますが、この田宮家は実際にある家で、
現在もその一画に「於岩稲荷田宮神社」という神社があります。
ここは芸能関係者が「四谷怪談」を上演するときに、たたりが
ないように…と必ずお参りをする神社として有名ですね。
私も本日の放送に先立ちまして、
先ほど参拝を済ませて参りました。

この神社の斜向かいには、もう一つのお岩稲荷、
「於岩稲荷陽運寺」というお寺もあり、
こちらにはお岩さんが実際に使ったという井戸が残っています。
お岩さんというと、どうしてもあの毒薬を飲まされ、
恐ろしく変わってしまった顔を思い出してしまいますが、
実際のお岩・伊右衛門は、人もうらやむ仲むつまじいカップル。
お岩さんは生活が苦しくなってくると奉公に出て必死に働き、
ついには田宮の家を再興し、「貞女の鑑」として、
庶民からもてはやされた立派な女性だったそうです。
そして、その立派なお岩さんの徳を讃えよう…として、
作られたのが、この「於岩稲荷」だ、といわれています。
また、ここ四谷にお岩さんゆかりのお寺や神社が登場したのは、
「四谷怪談」のヒット後だ…という説もあるそうです。
果たして、真相は、いかに?



8月9日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「平将門首塚」をご紹介します。

東京都千代田区大手町一丁目一番一号。
いってみれば日本のまん真ん中にそそり立っているのが、
平安時代、京都の朝廷に対して反乱を起こし、
戦に敗れ、非業の死を遂げた庶民のヒーロー、
平将門の「首塚」です。

今から千七十年前、935年(承平=しょうへい5年)のこと。
腐敗しきった京都の豪族たちは、自分たちの優雅な生活のため、
農民を痛めつけ、血も涙もない年貢の取り立てを行っていました。
これに対して反旗を翻したのが、平将門。
兵を起こすと、連戦連勝、政府軍を打ち破り、たちまちのうちに
関東8カ国を手中に収め、自ら「新しい皇帝」という意味の、
「平新皇(たいらのしんのう)」と名乗るまでになりました。
しかしその天下は長くは続かず、5年後の940年
(天慶=てんぎょう3年)、現在の茨城県、岩井市付近での
戦いで矢に射抜かれ、命を落とすことになりました。
敵の手に落ちた将門の遺体は八つ裂きにされ、首は都へと
送られ、晒し首に。ところが晒されてから三日後、首は突然、
白い光りを放つと空中に浮かび、東へと飛び立ちました。
そして胴体のある茨城県を目指して飛び続けましたが、
途中で力尽き、落ちた場所が現在の大手町。
村人たちが丁寧にこの首を葬った場所が、
現在の首塚のある場所である…と言われています。

時は流れ、首塚は何度も撤去させられそうになりました。
ところが、その度に工事にトラブルが起き、関係者に不幸が。
1923年(大正十二年)の関東大震災のときは、
となりの大蔵省が焼け落ちたため、首塚のところに
仮庁舎が造られました。ところが、役人の病気やケガが続出、
ついには大蔵大臣が急に亡くなってしまうというトラブルが発生。
これはたたりだ…ということになり、塚は元に戻されました。
さらに戦後、進駐軍がこの場所を駐車場にしようとした時も、
ブルドーザーが横転して作業員が亡くなる事故が発生。
「これは千年前の大首長の墓である」とGHQに説明すると、
先方もそれ以上のトラブルを恐れて計画を撤回。
首塚は残されることになりました。

江戸の風物詩の一つ神田祭。実は神田明神の祭神の一人が、
平将門なんです。今年、関東大震災の時焼け落ちてしまった
「将門みこし」が82年ぶりに復活。首塚近辺の会社に勤める
サラリーマンらがみこしをかつぎ、祭を盛り上げました。

  

8月10日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日は、多摩川の河口にほど近い、東京都大田区矢口、
「新田神社」をご紹介します。

第二京浜、多摩川大橋近く。人々の憩いの場となっている
多摩川の河川敷きから少し北側へ入ると、そこだけ時間が
とまったかのような錯覚を抱かせる、歴史の古い神社、
新田神社があります。時は南北朝時代、今を去ること
六百四十七年の昔、1358年(正平十三年)の十月十日のこと。
南朝方の武将、新田義貞の二男である新田義興は、潜伏していた
新潟から、鎌倉を目指し兵を進め、ここ武蔵の国の多摩川に
差しかかっていました。ところが、実はこれは鎌倉方の謀略。
味方であったはずの江戸遠江守が用意した船に乗り、
矢口渡を渡ろうとしたところ、川の中程まで来たところで
船頭が突然櫓(ろ)を落とし、あらかじめ船に開けてあった
穴に詰めた栓を抜いて川に飛び込み、逃げ出しました。
義興一行が茫然としていると、川の両岸から敵の軍勢が現れ、
矢を射かけ、攻め込んでこようとしているのが見えます。
一行はダマされたことに気づきましたが、重い鎧甲に
身を固めている上に水中とあっては動きも取れません。
義興は凄まじい怒りの形相で憤懣やる方ない様子でしたが、
もはやこうなってはどうすることもできません。
「これから七回生まれ変わって貴様らにたたってやる!
怨みはらさでおくべきか」と怒鳴ると、自ら脇に刀を突き立て、
グググ…とあばらのあたりを左へ右へかき回すように切って絶命。
それから二週間後。鎌倉から恩賞を与えられることになった
裏切者、江戸遠江守が新たな領地へ向かおうとしたところ、
それまで快晴だった空が一転にわかにかき曇り、激しい雷鳴が…

突然の雷。恐怖にかられた江戸遠江守が振り向くと、そこには
血まみれの義興が憤怒の形相で馬に乗り矢をつがえています。
「助けてくれ、お許しを…」と必死に懇願しますが、義興は
ニヤり、と笑って矢を放ち、命中した遠江守は落馬。
家来たちには義興の亡霊は見えず、ただ雷鳴に驚いた馬に
振り落とされたようにしか見えませんでした。
遠江守はこの事故がもとでほどなく命を落とします。
後に、義興のたたりを恐れた人々が亡骸を手厚く葬り、
その場所に「新田神社」を建立。
境内にある「うなる狛犬」は、義興を陥れた人々の子孫が
近づくと、不気味なうなり声を上げるんだそうです。



8月11日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、おなじみの怪談「番町皿屋敷」をご紹介します。

何とも色気のない幽霊で申しわけありません。
JR市谷駅から靖国通りを靖国神社方面に進むと、
ほどなく右側に坂道が見えてきます。
囲碁の総本山、日本棋院に続くこの坂道は「帯坂」。
主人の皿を割り、手討ちにされそうになった奉公人の
お菊さんが、髪を振り乱し、解かれそうになった帯を
引きずりながら逃げたところから、この名が付いた…
と言われておりますが、真偽の程はわかりません。
美しい奉公人の女性が、勤め先の旗本に言い寄られるものの、
それを拒絶。怒った旗本は、女性が皿を割ったのを口実に折檻。
女性は世をはかなみ、井戸に身を投げて自ら命を絶ち、
後に怨霊となって夜な夜な現れ、皿の数を数える…。
この種の伝説は、江戸時代、各地にあったようですが、
次第にお屋敷は番町、女性の名はお菊さん…という、
有名な「皿屋敷」の怪談へとまとまっていったようです。
それをメジャーにしたのが、1916年(大正5年)に発表された、
岡本綺堂の戯曲「番町皿屋敷」でした。
この戯曲では、旗本とお菊さんは恋仲。ところがお菊さんが、
恋仲の旗本の心を試すためにわざと皿を一枚割ってしまいます。
最初は過ちだからと快く許していた旗本が、
実は自分の気持ちを試すためだったと知り、
「そんなに自分が信じられないのか…」と彼女を切り捨てる…
という、悲しいストーリーとなっております。
一方、落語の方でもこの「皿屋敷」は有名なネタ。
物見高い江戸っ子たちが、皿を数える幽霊の話を聞きつけ
見物に出かけます。九枚まで数えるのを聞いてしまうと、
呪いがかかってしまうので、みんな八枚まで数えたところで
逃げ出すのですが、あいにくその日は大変な人出。
みんなが一斉に逃げ出そうとするので、押すな押すなの大混雑、
とうとうお菊さんは九枚目を数えてしまいました。

現在でも番町付近は、古くからのお屋敷が多く、
幽霊が出てもちっとも不思議じゃない雰囲気のある町。
夕涼みがてら、ちょっと散歩されてみてはいかがでしょうか?


8月12日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「鈴ケ森刑場跡」をご紹介します。

品川区南大井、大型トラックが行き交う第一京浜国道と
旧東海道が分かれる三角地帯に、
「東京都史跡 鈴ヶ森刑場遺跡」と墨痕鮮やかに記された、
大きな柱が立っています。
この鈴ヶ森刑場は、1651年(慶安4年)に作られ、
1871年(明治4年)に廃止されるまで、220年の間に、
およそ十万人の処刑が行われたという、恐ろしい場所。
往来の激しい街道筋に作られたのは、
人々への見せしめとするためでした。
当時は取り調べも現在とは違って非科学的なものだったため、
冤罪で処刑されたケースも数多かったといわれます。
現在、この刑場の跡地は大経寺(だいきょうじ)というお寺。
境内には、磔の柱を立てたり、火あぶりの柱を立てた石や、
切り落とした罪人の首を洗った井戸などが残されています。
そんなリアルな品々を眺めていると、そのあたりに
無実の罪で殺された人たちの怨みが漂っているように思えてきます。

火事とケンカは江戸の花、といわれますが、
わざと火をつけられてはたまったものではありません。
当時、放火は死罪が決まりでした。
この鈴ケ森では、数多くの有名な罪人が処刑されていますが、
その中でも、いちばん有名なのが「八百屋お七」でしょう。
火事で焼け出され、避難した先のお寺で、そこで修業していた
若い僧侶と恋仲になった美少女・お七。
家に戻ったあとも、彼のことが忘れられず、
「火事になれば、またあの人に会える」という一心から、
自宅に放火してしまいます。取り調べの奉行は、まだ若く美しい
お七の命を惜しみ、「そなたは十五歳か?」と尋ねます。
当時も現在で言う「少年法」のような決まりがあって、
十五歳以下は死罪を免れることになっていたのです。
そこで「はい」と答えれば助かったお七。
私ならすぐ「はい」と答えますが、潔癖な少女である彼女は
ウソをつくということができません。
「いいえ、私は十六歳です」死を覚悟してきっぱり答えます。
奉行はやむなく彼女に死罪を申し渡し、
お七は江戸市中を引き回された末、鈴ケ森の刑場で
火あぶりにされ、若い命を散らすことになったのでした。

鈴ケ森刑場の跡は、人気のスポット、しながわ水族館や
大井競馬場のすぐ近くです。恐い場所が苦手な人は、
うっかり迷い込まないよう、ご用心くださいませ。

 
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