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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
9月26日(月)〜9月30日(金)今週のテーマは「ネコ街ろまん」
都内各地の、ネコと関わりの深いスポットをご紹介します。


9月26日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「世田谷・豪徳寺」をご紹介します。

時は17世紀、江戸時代始めごろのこと。近江国(おうみのくに)、現在の滋賀県、彦根藩の二代目藩主、井伊直孝(いい・なおたか)公が、鷹狩りの帰りに世田谷、豪徳寺の前を通りかかりました。すると、そこにいたネコが、直孝公に向かって、おいで、おいで…と手招きをするのです。いったい何事かと、そのネコに吸い寄せられるように、山門をくぐっていくと、それまで晴れていた空が、一転、にわかにかき曇り、大粒の雨が振り始めたのです。そして次の瞬間には、すさまじい音に今来たあたりを振り返ると、さっきまでいた場所のすぐ近くにあった大木に雷が落ち、青々としていた木は一瞬にして真っ黒焦げ。直孝公はネコのおかげで危うく命拾いをしたのです。
実はこのネコ、名前を「タマ」と申しまして、ここ豪徳寺の飼い猫。ふだんからお世話になっている和尚さんが、「最近、景気が悪くてなぁ…タマ、なんとかならんかのぉ」とボヤいていたのを聞き、日頃の恩義に報いようと、直孝公を招き寄せたのです。このときのタマちゃんの格好をかたどったのが、おなじみの縁起物「招き猫」の始まり…と言われています。
というわけで、現在も、ここ豪徳寺近辺は招き猫のメッカ。案内板や標識にも招き猫のデザインがあしらわれ、街のそこかしこで、あのひょうきんな笑顔に出会います。豪徳寺の門前で、長年招き猫を販売している、山崎商店でお話をうかがいました。

危ないところをタマちゃんのお陰で助かった直孝公は、ここ豪徳寺を井伊家の菩提寺として定めます。そして、どちらかといえば荒れ寺に近かった豪徳寺も、しだいに大名家の菩提寺としてふさわしい、風格を備えた立派なお寺へと成長していきました。後に「桜田門外の変」で暗殺された第15代藩主、大老・井伊直弼公のお墓も、ここ豪徳寺にあります。



9月27日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、日本文学史上、最も有名な「猫」の足跡をご紹介します。

吾輩(わがはい)は猫である。 名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。
何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

…夏目漱石「我輩は猫である」冒頭の一節です。1903年(明治36年)、留学先のロンドンから帰国した漱石は、本郷区駒込千駄木町五十七番地に家を借り、一高、そして東大の英語教師として暮らし始めました。
そして一年後、その千駄木の家に一匹の黒猫が迷い込みます。ところが、漱石夫人が大変な猫嫌いだったため、この黒猫は何度も何度もつまみ出されますが、なぜか居心地がよかったようで、その度に舞い戻ります。やがて漱石が、「置いてやったらいいじゃないか」と一言。黒猫は、ようやく枕を高くして眠れるようになりました。
漱石は、この猫の視点で人間社会を描いてみることを思い立ち、1905年(明治38年)1月発行の文芸雑誌「ホトトギス」に「吾輩は猫である」を発表しました。今年はそれから数えて百年という節目の年にあたるわけです。最初は短編のつもりでしたが、これが大変な評判を呼んだため、翌年の8月まで断続的に書き継がれ、上中下巻の単行本も当時のベストセラーとなりました。英語教師、本名・夏目金之助は、流行作家・夏目漱石として、一躍注目を浴びることになったのです。

「吾輩は猫である」が執筆された千駄木の家は、実は、漱石が暮らす十数年前、森鴎外が住んだこともあるという文学史的にも重要なスポットです。現在建物は、愛知県犬山市の「明治村」に保存されています。ところが、漱石ご本人は、この千駄木が大嫌い。友人への手紙で、「死んでいヽ奴は千駄木にゴロヾして居るのに思う様にならんな」と、悪態の限りを尽くしています。そんな土地に長く暮らせるわけもなく、漱石はやがて本郷西片(にしかた)、そして早稲田へと引っ越しました。
主人についてきた黒猫は、1908年(明治41年)、早稲田で亡くなります。現在、漱石が暮らした家の跡は、新宿区立漱石公園となっており、その一角には猫の十三回忌にあたる1920年(大正9年)に建てられた「猫塚」があります。新宿区では、現在、この公園に、漱石の書斎や応接間を復元する計画を進めているとのこと。漱石ファンにとっては、楽しみな話です。



9月28日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、西落合の「猫地蔵」をご紹介します。

地下鉄、都営大江戸線の「落合南長崎」駅からほど近い新青梅街道沿い。小判を抱えた極彩色の招き猫が、台座の上で、ちょこんと小首をかしげて通行人に微笑みかけています。ここが通称「猫地蔵」といわれる真言宗のお寺、「自性院(じしょういん)」です。
おなじみの落語「道潅」は、江戸城を作ったことで有名な武将、太田道潅のエピソードをモチーフにしたお話ですが、実はこの「猫地蔵」も、太田道潅と深い関わりがあります。1477年(文明9年)4月、道潅は江古田が原で、練馬の武将・豊島佐ヱ門尉(さえもんのじょう)と対戦。日本大学の芸術学部があるあたりでチャンチャンバラバラやっていたわけです。戦いは日が暮れるまで続き、道潅は道に迷ってしまいました。途方にくれた道潅の前に現れたのが、一匹の黒猫。この猫が、道潅に、おいで、おいでをしたわけです。藁にもすがる思いで、後をついていったところ、猫はこの寺へと道潅を導きました。そして、ここで無事一夜を過ごした道潅は、難を逃れ、結果的に合戦で大勝利を収めます。道潅はその後長く猫を大切に養い、亡くなった後はこの自性院に手厚く葬り、さらに「猫地蔵」を奉納したのです。

この自性院には、道潅の「猫地蔵」のほかに、もう一体の御本尊「猫面地蔵」があります。こちらは道潅からおよそ300年後の江戸時代、1767年(明和4年)ごろ、牛込・神楽坂のお寿司屋さん、弥平さんという方が、当時貞女の鑑(かがみ)といわれた金坂八郎治(かねさかはちろうじ)の妻、守(もり)さんという方の徳を後世に伝えようと寄贈したものです。世にも珍しいこのネコの顔をしたお地蔵様は、家内安全、商売繁盛の霊験あらたかとあって、顔を撫でる人が絶えず、そのため現在では顔がツルツル。今では道潅の猫地蔵と共に、年に一度、2月3日の節分の日だけご開帳されます。



9月29日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、裏原宿「キャットストリート」をご紹介します。

若者たちが集まる渋谷、原宿界隈でも、いま最も人気のショップが集まる通称「裏原宿」キャットストリート。明治通りの渋谷・宮下公園東から、表参道のシェーキーズ横に出る曲がりくねった道です。
いまから30年ほど昔、このあたりに民家を改造したお洒落な店が登場し始め、女子高生が集まるようになりました。彼女たちの目に付いたのが、あたりの家々で飼われていた、たくさんの猫たち。「ねえ、今日、あそこらへん行こうよ!」「あそこらへんって…どこ?」「あの…ほら…猫がたくさんいる…猫通り!」こんな風に、自然発生的に、この道は「猫通り」と呼ばれるようになり、それがいつしか横文字の「キャットストリート」へと変わっていったのです。そして今も、この界隈にはたくさんの猫たちが暮らしています。

実はこのキャットストリートは、かつて「渋谷川」という川が流れていた場所なんです。この渋谷川は、新宿御苑から流れ出し、外苑西通りに沿って千駄ヶ谷から国立競技場の脇を通り、そこから神宮前、原宿方面へと流れていました。そして現在の宮下公園の下を通って、渋谷駅前へつながり、そこから先は現在も地上を流れているので、ご存じの方も多いことと思います。
ちなみに、東急百貨店東横店の東館は、この渋谷川にフタをした上に建てられているので、地下一階がとても狭くなっています。
渋谷のデパートといえば、もう一つ、西武百貨店がありますが、渋谷駅から公園通り方面に向かって、A館とB館に分かれていて、ここはいつも横断歩道が青になるのを待ってわたらなければなりません。不便だな、地下がつながっていればいいのに…と、思ったことはありませんか?
実はこの西武百貨店のA館とB館を隔てる道路の下にも、実は「宇田川」という川が流れていて、そのため、地下を掘ることがとても難しくなっているのです。かつて縦横無尽に川が流れていた東京の街。意外なところに、その面影は残されているのです。



9月30日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「浅草・今戸神社」をご紹介します。

八代目・三笑亭可楽師匠の十八番「今戸焼」というのは、江戸時代半ば18世紀頃から、浅草の今戸あたりで盛んに作られた陶器です。陶器とはいっても、鑑賞に耐えるような高級品ではなく、瓦や七厘、火鉢など、江戸で暮らす庶民の生活に密着した、日用品・必需品が中心でした。隅田川からほど近い今戸神社には「今戸焼発祥の地」の石碑が立っていますが、実はこの今戸神社も豪徳寺と同様、「招き猫発祥の地」を名乗っています。
伝えられるところによれば、江戸時代の終わり頃、このあたりにとても猫を大切にしたおばあさんがいました。ところが、だんだん年老いてきて、生活も苦しくなり、猫を手放さざるを得なくなってしまいました。そして、涙、涙で別れたその夜のこと。なんとその猫がおばあさんの夢枕に立ったのです。「長い間、大切に飼っていただいて、ありがとうございました。なんとかご恩返しをしたいと思います。おばあさん、私の姿を焼き物でこしらえて、それを売ってください。必ず福が授かるはずです…」おばあさんは、その言葉を信じて、地元の今戸焼業者に依頼しました。愛猫の姿に似せた焼き物を作ったところ、これが大ヒットした…というのが現在につながる「招き猫」の始まり…というお話。
陶器の産地に伝わる話だけに、なんとなくリアリティがあります。今戸神社では、現在でも「今戸焼」の招き猫を手に入れることができます。雌猫と牡猫が一体になったもので、とても可愛いです。

この今戸神社には、もう一つ有名な石碑があります。それは「沖田総司 終焉の地」というもの。 新撰組一の剣の使い手、沖田総司は、鳥羽伏見の戦いの後京都を逃れ、なんとか江戸まで辿り着きましたが、持病の労咳が悪化して、ここ今戸神社で亡くなりました。「終焉の地」の石碑は、寄席文字の第一人者、橘右近さんの筆になるもので、浅草の粋な雰囲気にぴったりはまっています。



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