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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
10月3日(月)〜10月7日(金)今週のテーマは「ほかほか丼ものがたり」
江戸時代から明治にかけて、東京で誕生したおいし〜い丼モノのルーツを探る1週間です。


10月3日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、最も歴史の古い丼モノ「鰻丼」をご紹介します。

天丼、かつ丼、鰻丼、牛丼、そして親子丼…これを称して誰が呼んだか「日本五大丼(どんぶり)」。名前を呼ぶだけでもよだれがたれてきそうですが、この「五大丼」の中で、間違いなく一番歴史が古いのが、アツアツのご飯の上に、焼きたてのうなぎの蒲焼きを乗せ、おいしいタレをジュワ〜とたっぷりしみこませた鰻丼。鰻は江戸の昔から値段の張る食べ物なので、高級感を出すためお重に入れて出すところが多いのですが、本当は丼に入れて食べる方がずっとおいしいのです。
かの食通、山本益博先生も、著書「ひと皿の歳時記」の中で、「まず第一に、重箱ではかっこんで食べる快感が得られない。スピード感がなく、食事がスウィングしないのだ」と述べ、さらに、「第二に、丼と重箱ではご飯のかさが違うために、タレのからみ具合、しみ加減に差が生じる。鰻丼を食べて丼の底にタレが残っていることはほとんど皆無だが、鰻重の場合、重箱の底の塗りにじんわりとタレがにじんでいることが多い」と、お重ではなく、丼で食べる鰻の旨さを力説しています。

江戸で盛んに鰻が食べられるようになったのは、今から200年ほど前、19世紀の初め頃と言われています。そのころ「江戸前」といえば、鰻のことを指したものだそうで、当時すでに世界一の大都市だった江戸では、川に栄養たっぷりの生活排水が流れ込み、それを食べて育った鰻は脂も乗って実に美味だったのです。
鰻は、淡水魚ということで、魚河岸では取引されなかったため、魚屋さんも扱わず、独自の流通ルートが生まれました。明治になってから、そんな鰻の問屋さんが集まっていったのが、飯田橋から江戸川橋にかけての江戸川、現在の神田川沿いです。関東各地で水揚げされた鰻は、生きたまま問屋まで運ばれます。そして当時はまだ飲料水としても使われ、澄んだ美しい流れだった江戸川の生け簀に放され、泥を吐いた後に出荷されたのです。そして問屋の回りには、新鮮な鰻を食べさせる専門店が次々に誕生し、神田川は鰻の名所となったのです。
現在では問屋は姿を消しましたが、川に沿って何軒か、老舗の鰻屋さんが残っており、当時の賑わいを偲ぶことができます。注文を聞いてから鰻を裂き、そして焼くのが昔ながらのやり方。お漬物をつまみながら、冷やで一杯、二杯とやるうちに…何とも言えない香りが漂ってくる…



10月4日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、ごま油の香りがたまらない「天丼」をご紹介します。

「どんぶり」という言葉の起源にはいろいろな説がありますが、最近有力なのが、タイの首都バンコクの西側で、その昔王朝があった「トンブリ」という地域から来ているというものです。
ここは、色鮮やかな磁器、焼き物の産地で、日本の有田、中国の景徳鎮と共に、海外との交易で栄えました。このトンブリ特産の焼き物の一つに、日本の丼によく似た、色鮮やかな蓋つきの大ぶりな茶碗があります。焼き物は、その産地の名前で呼ばれることが多いですから、この大ぶりな茶碗が日本で「トンブリ」と呼ばれ、それが後に「どんぶり」に変化したのでは、と考えられています。丼といえば、日本古来の食器のように思ってしまいがちですが、実は以外なところにルーツがありそうです。

日本独特のものかと思ったら、実は海外生まれ…というのは、食べ物でもよくある話で、「天ぷら」などはその典型です。こちらは戦国時代に日本にやってきた宣教師たちが持ち込んだ南蛮料理が、いつのまにか和風にアレンジされたもので、肉を用いない精進料理の一種だったことから、寺を意味するポルトガル語の「テンプロ」が語源では?…と考えられています。
この天ぷらが江戸でヒットしたのは、いまから220年ほど前の天明年間のこと。江戸前の新鮮な魚の揚げたてを食べさせる屋台店が大ブームとなり、ポピュラーな料理となりました。当時、食用油や小麦粉、またつゆに使う醤油やみりんがふんだんに出回るようになったことも、背景にあるようです。当時好まれたのは穴子、芝海老、コハダ、貝柱、といったネタで、これを、水で緩く溶いた小麦粉につけて揚げました。当時はこうした魚介類のみが「天ぷら」で、野菜を揚げたものは単に「揚げ物」と呼ばれていたようです。屋台ではネタを串に刺して揚げ、大皿に並べて、客はそれを見て好みのものを選び、丼の中のつゆにつけて食べていた、というわけです。どっぷりとつゆに浸した天ぷらを、丼に持ったご飯の上に乗せて食べるようになったのも、ごく自然の成り行きだったのでしょう。

さて、天丼には、大ぶりの海老天だけが並んだタイプと、いろいろな魚介類や野菜などが並んだタイプの2種類があります。海老天を並べたものは主にお蕎麦屋さんが出す天丼、いろいろな種類が乗るのは天麩羅屋さんの天丼に多いんです。これはどうしてかといいますと、もともとお蕎麦屋さんは、魚をおろす技術を持っていなかったため、簡単に料理できて見栄えもいい海老が中心になったからなのです。天丼のおいしい店が集まる街、浅草でも、お蕎麦屋さん系、天麩羅屋さん系、両方の天丼がひしめきあって、天丼ファンの心を千々に乱れさせています。
さて、あなたは海老派ですか? それとも、いろいろ派?



10月5日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、鶏肉と玉子の絶妙なハーモニー「親子丼」をご紹介します。

天丼、かつ丼、鰻丼、牛丼、そして親子丼…「日本五大丼(どんぶり)」のうち、鰻と天麩羅は江戸時代からポピュラーだった食べ物ですが、残りの3つは明治維新以降、文明開化の時代に生まれてきたニューフェイスです。
そんな比較的歴史の浅い食べ物であるとはいえ、「うちが本家だ」「発明者は私だ」…と、いろんな説が飛び交うのも面白いところです。ランチタイムの親子丼を求めてお客さんが大行列を作る、人形町の老舗、鳥すきの「玉ひで」さんもその一つ。親子丼を考案したのは、玉ひで五代目・秀吉さんの奥さん、おとくさん。お客様が鶏鍋の残りの割下に、卵を溶き入れ、卵とじにして食べていたのをヒントにしたのだそうですが、当時、丼飯や汁かけご飯は下品だとされていたので、長い間、出前専門メニューで、店で食べられるようになったのは、1979年(昭和54年)以降のことだそうですから、以外に歴史は浅いのです。

一方、「親子丼の発明者は、私の父親だ」と断言するのが、映画監督の山本嘉次郎さん。黒澤明監督のお師匠さんで、食道楽で有名でした。煙草の製造販売を手掛けていた裕福なお父さんもまた、大変な食道楽だったそうで、時は「玉ひで」と同じく明治の中頃。仲間たちと作った料理研究会の集まりで、「忙しいときは立ったままで食え、美味で滋養に富んだものを」と考えたのが、親子丼の始まりだ…というのが、山本説。山本監督は親子丼をこんな風に定義づけております。「親子どんぶりを構成するものは、鶏肉、鶏卵、のり、三つ葉、米、そして醤油、味醂、砂糖である」「はさみで細く切った陰毛のごとき海苔を憎む」「玉ねぎなんてカツどん以外に使うべきでない」「三つ葉と海苔の香りがなければ親子の値打ちはない」

親子丼には、山本監督流の三つ葉と海苔が載ったタイプと、鶏肉と卵だけを使った純粋親子タイプの二つがあるようです。皆さんのお好みは、どちらでしょうか…?
江戸時代まで、肉食はタブーとされていましたが、中でも鶏は、時を告げてくれる神聖な存在だったため、「食べるなど滅相もない」と誰もが考えていたのだそうです。たっぷりダシのきいた、ほっかほかの親子丼を食べることのできる私たちは、とても幸福な時代に生きているのかもしれません。



10月6日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、ボリューム満点「カツ丼」をご紹介します。

サクサクに揚げたカツを、玉ねぎと一緒に卵でとじて、アツアツのご飯に乗せてハフハフとほおばる…ご存知、カツ丼です。ご多分に漏れず、カツ丼にもそのルーツを巡っていくつかの説が飛び交っておりますが、その起源が大正時代の早稲田界隈にある、ということは、どうやら確かなようです。
自ら元祖を名乗るのは、早稲田大学創立者の大隈重信公も愛したといわれるお蕎麦屋さん「三朝庵」。ここの常連だった学生さんが、柳川鍋をヒントに思いつき、試しに作ってみたところこれがとんでもなくウマい。とにかく腹が減って仕方がない年頃の学生さんたちにとって、ぴったりの料理だったことから、瞬く間に早稲田近辺の食堂の定番メニューになった、と言われています。

さて、カツ丼の誕生には、もう一つの有力な説があります。こちらは明治の末、ヨーロッパで料理修業をしてきた高畠増太郎(たかばたけ・ますたろう)さんという方が、1913年(大正2年)ドイツ仕込みのウスターソースの風味を日本でも普及させようと工夫したもの。カラリと揚げたロースカツをウスターソースをベースにした特製のタレにつけ、さらにタレをまぶしたアツアツのご飯にのせる…現在でいうところの「ソースカツ丼」です。その後、高畠さんは早稲田鶴巻町に洋食店を開き、ソースカツ丼も学生さんたちに愛されましたが、1923年(大正12年)の関東大震災に遭ったことをきっかけに、故郷の福井に帰り、そこで開いたお店が「ヨーロッパ軒」。福井市の中心部にあるこのお店では、現在もその大正創業当時のソースカツ丼を楽しむことができます。

五大丼の中でも、もっともバリエーションが多いのがカツ丼ではないでしょうか。
もっともポピュラーなのは卵とじタイプですが、元祖・ヨーロッパ軒風のソースカツ丼あり、また、信州・駒ヶ根には、ご飯の上にキャベツをのせ、その上にソース漬けカツをのせたソースカツ丼がありますし、さらにドミグラスソースをかけた岡山風ソースカツ丼、そしておなじみ名古屋風味噌カツ丼…などなど。
皆さんの故郷には、どんなカツ丼がありますか?



10月7日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「牛丼」をご紹介します。

牛丼、またの名、牛めし。
薄切りにした牛肉を、タマネギと一緒に煮たものを、丼に盛ったご飯にかけたおなじみの料理です。豚や鶏と同様、牛肉もまた、江戸時代には禁じられていましたが、明治維新、文明開化の世の中になると、新しモノ好きな東京っ子たちはこの新しい味の虜となり、あちこちに「牛鍋」の専門店が誕生しました。
東京の牛鍋は、牛肉と長ネギだけを煮込むもので、これに野菜などほかの具が入ると関西風の「スキヤキ」になります。牛鍋やスキヤキは、どちらかといえば高級料理ですが、牛丼の直接のルーツは明治半ば、牛の内蔵やタンなどを細かく切って、醤油に味噌を混ぜた汁で煮込んだ、当時のスラム街風の料理です。後に内蔵がスジ肉に代わり、これを丼飯にかけたものが、大正から昭和の初め頃、浅草の屋台でヒット商品となりました。これが発展して、現在のファストフード系牛丼になったというわけです。

安くて栄養価が高く、また時間をかけずに食べられる牛丼は、昔から市場で働く人たちに愛されてきました。牛丼チェーンのさきがけ「吉野家」も、もとはといえば、1899年(明治32年)に当時日本橋にあった魚河岸に誕生したもので、後に市場の築地移転に伴って引っ越し、現在は築地市場の一角に立派な「一号店」を構えています。アメリカ産牛肉の輸入停止措置に伴い、国内各地の吉野家では牛丼がメニューから消えていますが、ここ築地の一号店では「牛丼文化を守り抜く」ために、和牛を使った牛丼を食べることができます。

その昔、牛丼は「かめちゃぶ」と呼ばれていました。「かめ」とは、西洋イヌのこと。西洋人が犬を呼ぶときに、「COME! COME!」と叫んでいて、それを聞いた当時の日本人が「西洋では、犬のことを、カメっていうんだな」と誤解したわけです。
ちゃぶ、は「ちゃぶ台」のちゃぶ、即ち「食事」。つまり「かめちゃぶ」とは「犬のご飯」という意味だったんです。でも「犬のご飯」というと、マイナスイメージがありますが、「かめちゃぶ」と言われると、なんとなくエキゾチックな響きで、おいしそうな食べ物に思えてくるから、不思議なものです。



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