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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
11月21日(月)〜11月25日(金)今週の土日は、競馬の祭典、ジャパンカップ・ウィークエンド。
府中、東京競馬場に世界中から名馬が集まる2日間です。都内各地の馬にまつわるスポットをご紹介します。


11月21日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「元競馬場前」というバス停をご紹介します。

11月21日は「二の酉」。今年は、十二年に一度の「酉年の酉の市」にあたり、なんでも普段の年よりもいっそう縁起がよいのだそうで、先日の「一の酉」のときも、各地の寺社は大層な人出で大にぎわい。朝から、威勢のいい売り声が境内にこだましています。
酉の市…といってすぐに思い浮かべるのは、浅草、あるいは新宿・花園神社あたりでしょうか。文化放送のすぐ裏、四谷の須賀神社でも賑やかに市が立っていますが、賑やかさではひけをとらないのが、目黒の大鳥神社です。目黒駅から西に向かって坂を下り、山手通りを越えると、もう目の前。早朝から深夜まで、善男善女でごった返します。

目黒からバスで西へ向かうと、最初の停留所が「権之助坂」、次が「大鳥神社」。
そしてその次が、「元競馬場前」。奇妙な停留所の名前だと思いませんか?
実は、このあたりには、1933年(昭和8年)まで、立派な競馬場があったのです。1932年(昭和七年)、そして翌年、第一回と第二回の日本ダービーも目黒競馬場で行われました。これを記念して、バス停の前には「目黒競馬場跡」の記念碑が建てられています。
台座の上には第一回のワカタカ、第八回のクモハタなど、初期のダービー馬六頭を輩出した名種牡馬、トウルヌソル号の美しい銅像が鎮座ましましています。競馬場の跡地には住宅が立て込んでいますが、このあたりから目黒通りを西に向かって左に曲がると、第一コーナーから第二コーナーにかけてのカーブがそのまま一般道路になって残っており、当時の様子を偲ぶことが出来ます。

目黒に競馬場が作られたのは、1907年(明治四十年)のことで、当時はまだまだこのあたりは郊外で、土地はいくらでもありました。ここに白羽の矢が立ったのは、目黒不動が近く、人が集まりやすいという単純な理由だったようですが、目論見は大当たり。春と秋の競馬シーズンには、権之助坂まで人が詰めかける騒ぎで、大変な賑わいぶりを見せたそうです。しかし昭和に入ると、次第に都市化が進み、施設がどんどん手狭になってきたことから、1933年(昭和八年)、府中への移転が決定し、四半世紀あまりの歴史に幕を閉じることになりましたが、「目黒」の地名は、東京競馬場の重賞レース「目黒記念」に、その名を留めています。



11月22日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、世田谷「馬事公苑」をご紹介します。

東京の「競馬」のメッカが府中・東京競馬場なら、「馬術」のメッカは世田谷・馬事公苑ということになりましょう。世田谷区のほぼ中央部、東京ドーム4個分という広大な敷地に、2,300人を収容できるインドア・アリーナや、東京オリンピックの馬術競技会場となったグラス・アリーナなど、数多くの馬に関連する施設が集められています。

馬事公苑がオープンしたのは、1940年(昭和十五年)で、そのころの日本では、農業のためにも、また軍事のためにも、馬はなくてはならない人間の大切なパートナーでした。ところが、馬の品種改良や馬術の訓練、騎手や技術者の養成、さらに馬に関するイベントの開催などは、それぞれが別の場所で独立して行われていたため、何かと不便でした。この際、馬に関することは何でもこの一ヶ所で間に合う、そんなナショナル・センターを作ろうという機運が高まり、馬事公苑の建設が決まったのです。

当時の玉川村、用賀地区の5万坪の土地は、すでに6年前、皇太子殿下、現在の天皇陛下がお生まれになった記念事業として既に買い入れてありましたが、東北地方の大凶作の影響で、建設が延び延びになっていました。
ところが、1940年(昭和15年)の東京オリンピック開催が決まると、馬術のための施設がどうしても必要ということになり、棚ざらしになっていた玉川村の土地が再び表舞台に。馬術競技の会場にも決まり、本格的な整備が行われました。残念ながら戦争が激しくなってしまったために、昭和15年のオリンピックは開催が返上されてしまいましたが、24年後、1964年(昭和39年)に、本当に東京でオリンピックが行われたときは、馬事公苑で馬術競技が行われました。

去年のアテネ五輪で日本の馬術競技の最高順位は19位でしたが、かつて戦前には金メダルを獲得したこともありました。1932年(昭和七年)、ロサンゼルス五輪でのことで、ウラヌス号に乗った西竹一選手…旧華族、男爵の称号を持っていたため「バロン西」と呼ばれていましたが、この西選手が、大障害飛越競技で見事に優勝したのです。
後に西選手は中佐として太平洋戦争に従軍し、激戦地硫黄島へ。アメリカ軍は立て籠もる西中佐に向けて、「バロン西、出てきたまえ。貴方はロサンゼルスで限りない名誉を受けた。我々は貴方を尊敬を持って迎えるだろう」と降伏を呼びかけましたが、中佐は応じず、勇敢に戦って戦死。そしてそれから程なく、馬事公苑で余生を過ごしていた名馬ウラヌス号も、主のあとを追うように、老衰のため亡くなりました。西中佐は、最後まで、ウラヌスのたてがみを身につけていたそうです。



11月23日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。

11月24日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「都内各地にあった競馬場」をご紹介します。

現在、都内にある競馬場といえば、府中の東京競馬場、そして地方競馬の大井競馬場、この2ヶ所です。
ところが、明治から昭和の始めごろにかけては、「目黒競馬場」のほか、都内のいろいろな場所で競馬が開かれていたんです。畑の貴重な労働力として、通信や輸送の手段として、あるいは武士のたしなみとして、日本人に親しまれていた動物=馬は、幕末に長い鎖国を解いた後、来日した外国人が西洋式の競馬を持ち込むと、もともと馬好きな国民性に火がついたのか、あちこちで競馬が行われるようになりました。

1867年(慶応3年)には、横浜・根岸で日本で初めての西洋式競馬場が作られましたが、東京で最初の競馬場は、1870年(明治3年)、現在の靖国神社である九段の「招魂社(しょうこんしゃ)」に作られたものでした。
参道を中心に、現在は見事な桜並木となっているあたりに、楕円形のコースが作られました。靖国神社は、奥行きはかなりありますが、やはり幅には限りがあります。コーナーの角度があまりにもキツく、落馬するジョッキーが後を絶たなかった、と伝えられています。
1879年(明治12年)には、陸軍戸山学校…新宿区の中心部、現在、戸山ハイツや戸山公園のある場所ですが、この戸山学校の中に西洋式の競馬場が作られました。これは、この年に来日したアメリカのグラント元大統領の歓迎記念行事用に設けられたもので、ここから、負担重量やスタートの合図、距離などが定められた、近代的な競馬が始まりました。

戸山公園は、現在でも毎年流鏑馬が行われるほど、だだっ広くて気持ちのいい場所ですが、当時としては交通の便が悪く、人が集まりにくいという欠点がありました。そこで、もっと賑やかな場所に引っ越そうということになり、次に選ばれたのがなんと上野不忍池。1884年(明治17年)からしばらくの間、あの不忍池の回りに周回コースが作られ、馬たちが賑やかに駆け抜けていったのです。
しかし、この時期に作られた競馬場の中で最も興味深いのは、皇居西の丸、吹上御苑にあったという一周738mのコース。明治天皇は馬にとても関心が深くいらしたようで、軍人や貴族に馬術をさかんにお勧めになりました。1880年(明治13年)から5年間は皇居内に紳士淑女を招き、春と秋、このコースで「競馬会」が開かれていたそうです。



11月25日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「東京競馬場」をご紹介します。

世界的にも格の高いレースとしてすっかり定着した国際G1、ジャパンカップは今年で25年目を迎えました。
ジャパンカップは、ジャパンカップ・ダートと共に、秋の東京競馬の最後のビッグレースとして、世界中の競馬ファンに親しまれています。会場となる東京競馬場のオープンは、1933年(昭和8年)。手狭となった目黒から、ここ府中に移転してきました。数多い候補地の中から府中が選ばれたのは、もちろん広大な土地が用意できたことがいちばん大きな理由でしたが、決め手の一つとなったのは、水はけがよかったことでした。確かに、ちょっとやそっとの雨で地面がグシャグシャになってしまうようでは、競馬場には不向きです。

もともと府中は、甲州街道の宿場があり往来も激しく、馬に縁の深かった土地です。競馬場にほど近い大国魂神社では、その昔、馬による競走が行われていたという記録も残っています。実は大国魂神社では、現在でも競馬が開催されています。それは5月の有名な「くらやみ祭り」の行事の一環として行われる「駒くらべ」で、残念ながら馬券を買うことはできませんが、府中の有名なケヤキ並木を、烏帽子直垂姿の騎手が馬に乗って駆け抜ける「古式競馬」が繰り広げられるのです。

府中といえば「ケヤキ」ですが、東京競馬場でも第3コーナーに大きなケヤキの木があり、その下を馬たちが駆け抜けていく姿は、競馬ファンにはすっかりおなじみの光景です。
それにしても、なぜあんなところに大木があるのか。レースを見ていて、ジャマだな…と思ったことはありませんか?
実は、あの木の根元には、お墓があります。お墓の主は、戦国時代、小田原の北条氏に仕えていた武将、井田是政。是政は北条氏が滅ぼされたあと、この府中に移ってきて村を開き、その名前は西武多摩川線の駅の名前にも残っています。
本当なら移転させたいところだったんでしょうが、競馬場を開く条件として、ここに井田家のお墓を残すという取り決めがあり、開設から70年以上の月日を経た現在でも、競馬開催のたびに供養が行われているそうです。その井田是政の祟りを恐れ、あの木はずっと切られないでいる、というわけなのです。ちなみに、あの木は実はケヤキではなく、エノキなんだそうです。
ジャパンカップダート、そしてジャパンカップで、世界中から選りすぐりの名馬たちが、お墓の脇を駆け抜けていく。何よりも馬を大切にした戦国武将、井田是政にとっては、何よりの供養ではないでしょうか。



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