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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
2月6日(月)〜2月10日(金)今週のテーマは、「これぞ東京の味!」
東京名物数ある中でも、世界に胸を張って自慢できる東京のうまいモノをご紹介します。


2月6日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、東京生まれの高級ブランド豚肉「東京エックス」をご紹介します。

皆さんは「東京名物」といえば、何を思い浮かべますか?
徳川家康が江戸に幕府を定めてからおよそ400年、長い時間をかけ洗練されてきた伝統の味もあれば、近代科学の粋を集めて作り出されて来た新しい味もあります。

新しい味の代表格「東京エックス」という極上の霜降り豚肉が登場したのは1997年(平成9年)で、青梅にある東京都農林水産振興財団・青梅畜産センター、当時の東京都畜産試験場が開発した新しい品種です。もともと、畜産試験場の兵頭勲(ひょうどう・いさお)博士が、北京を訪れた際、現地で巡り合ったおいしい豚肉「北京黒豚」に注目したことからすべては始まりました。

北京黒豚の特徴は、脂肪の質がとてもよく、なめらかな舌ざわりが楽しめることで、これは豚肉としては、画期的な特徴でした。ただし、背中やお腹の脂肪が非常に厚く、ロース肉の部分も少ないため、このままでは日本の市場には向かない。なんとか品種改良に使うことはできないだろうか?…と考えた博士は関係者に働きかけ、この黒豚を輸入しました。これに、味のよいイギリス産のバークシャー種、さらに霜降りが出やすいアメリカ産のデュロック種を掛け合わせ、5世代に渡って肉質のよい豚を追求した結果、ようやく7年目に、「東京エックス」が誕生したというわけです。

以前は、すぐれた肉質の系統を残そうとした場合、いったん肉にしてみて、結果がよかった場合、その兄弟を残すということしかできませんでした。最近では医療の現場でも使われている超音波診断装置を用い、生きているうちから、肉質を判断できるようになったため、ある程度の手間は省けますが、それでも新しい品種になるまでには、長い長い時間がかかるのです。

東京エックスは、発売されるとすぐ評判となり、マスコミでも大きく取り上げられましたから、ご記憶の方も多いことでしょう。この肉にいち早く注目し、早くからハム、ソーセージの材料として利用してきたのがハムメーカーの「大多摩(おおたま)ハム」です。



2月7日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、東京のおいしい野菜、酒のつまみに最高の「東京うど」をご紹介します。

「うど」を漢字で書くとどういう字かご存じでしょうか?
独身の「独」、そして活動するの「活」、「独活」と書いて「うど」と読むのですが、うどの幹がとても柔らかく、風がなくてもひとりでに動いているように見えるところから、この漢字が当てられたようです。たいがいの野菜は、外国から日本に渡ってきたものですが、この「うど」は、日本原産で、純国産の珍しい野菜です。

山で自生するうどは、成長すると3mもの高さになりますが、こうなってしまうと、食べるには堅すぎます。一方、材木にするには、柔らかすぎます。どうにもこうにも、使い道がない…というところから、「うどの大木」という言葉が生まれたのだそうです。そんな「うど」ですが、実は東京はうど栽培で有名なのです。

「東京うど」を作っているのは、地中深く掘られたトンネルの中で、大切に、大切に、育てられています。地上に生える「山うど」と違って、ホワイトアスパラガスなどと同様、太陽に当てないで育てるため、白くて柔らかく、何よりおいしいのが特徴です。武蔵野台地の下には、柔らかい赤土の「関東ローム層」が広がっています。昔から、東京近郊の農家では、この関東ローム層の部分に横長のトンネルを掘って、農作物などの貯蔵に利用してきましたが、うども、このスペースを使って栽培しているというわけです。また、鮮度が大切な野菜なので、消費地に近いという利点もあったのです。

こうしたうど栽培が始まったのは、今から150年ほど前、場所は現在の武蔵野市、吉祥寺周辺だったそうです。戦後、このうど栽培は多摩地区各地に広まって、1970年(昭和45年)にはピークを迎え、年間3300トンが出荷されました。その後は、宅地化や後継者不足などで、生産量は減りましたが、現在でもそのきめ細かなおいしさが、料亭などで珍重されています。さっと水にさらし、あく抜きをしたら、生のままでサラダやあえ物、定番の「ぬた」で召し上がってください。また、剥いた皮できんぴらをこしらえても、これまた絶品。新鮮な「東京うど」をお店で見かけたら、ぜひ手に取ってみてください。今が、旬です。



2月8日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、体を芯から、ジンワ〜リと温めてくれる「甘酒」をご紹介します。

甘酒といえば、冬、体を温めてくれるもの…と、現代に生きる私達は、なんとなくそんなイメージを持ってしまいがちですが、実は甘酒は、俳句では夏の季語になっているのです。いったいなぜか、といいますと、甘酒は江戸っ子たちの夏バテ防止の妙薬として親しまれていたからなのです。

「甘酒」は、酒とはいうものの、アルコール分は含まれていません。成分は、およそ2割がブドウ糖で、そのほか、ビタミンB1、B2、B6などのビタミン類、また必須アミノ酸がたっぷりと入っています。これを化学的に分析してみますと、病院で栄養補給のため行う「点滴」の成分にとてもよく似ているのだそうで、なるほど、江戸っ子たちが夏のスタミナ源として愛用したというのも、うなずける話です。もちろん、アツアツにするのではなく、冷やして飲むのが粋な江戸好み。とはいうものの、やっぱり寒い季節に、アツアツの甘酒を啜るのがうれしいものです。

東京名物の甘酒といえば、神田明神の天野屋さんにお話をうかがいました。
甘酒は、米にコウジカビを繁殖させた「米こうじ」と、ご飯を混ぜたものにお湯を入れ、数時間保温して作ります。砂糖が貴重だった江戸時代には、手軽に味わえる甘味として、老若男女を問わず親しまれていましたが、中でも名高いのが、神田明神前の「明神甘酒」こと、天野屋さんの甘酒です。160年前の創業以来、地下6mのムロでじっくり熟成される麹の風味は天下一品。皆さんも、神田明神に参拝される機会がありましたら、ぜひ鳥居脇の天野屋さんで、甘酒を味わってみてください。体の芯から、あったまります。



2月9日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、元祖、江戸の味「佃煮」をご紹介します。

ハゼ、シラス、アサリ、シジミ、小エビ…炊き立ての温かいご飯に、佃煮を載せてかっ込む。想像するだけでも、たまらないものがあります。佃煮が生まれたのは、江戸時代のことで、もともとは、摂津の国、現在の大阪市西淀川区の佃村に住んでいた漁民たちが作り出した素朴な料理です。

ではなぜ大阪の漁民の料理が、東京名物になったのか?
佃村の漁民は、もともと徳川家康と関わりが深く、家康が神社に参詣するとき船を仕立てたり、また大阪の陣の時に家康を助けたこともありました。そんな関係から、佃の漁民たちには、全国どこで魚をとっても無税という、大変な特権が与えられていたのです。漁民たちも、その家康の恩義に深く感謝し、江戸に幕府が開かれた後も、毎年魚を献上していました。ところが、やはり、江戸は遠く、新鮮な魚を献上したくても、どだい無理な話でした。

そこで漁民たちは考え、家康様に新鮮な魚を献上するには、自分たちが江戸に引っ越せばいいのでは?江戸に移りたい、というお気に入りの佃の漁民たちの願いを、家康はたいそう喜びました。そこで与えられたのが、隅田川河口に近い小島で、漁民たちは、この島に故郷「佃」の名前をつけ、江戸前の新鮮な魚を取っては江戸城へと納めました。そして、お城や大名に納めるほどではない小魚、雑魚(ざこ)は、醤油で煮詰めて自家用の惣菜としていましたが、やがてこの惣菜そのものを、地元で名産品として売り出すようになりました。佃島でできた煮物、すなわち、これが「佃煮」のおこりです。濃い味で煮詰めてありますから保存もききますし、もともとが雑魚ですから値段も安い。参勤交代のお侍さんたちが、土産として国元へ持ち帰るようになり、しだいに江戸名産としてその名を上げていった…というわけです。

佃島といえば、名高いのが3年に一度の住吉神社の大祭、通称「佃祭」です。落語「佃祭」は、祭見物に出かけた小間物屋の次郎兵衛さんが、しまい船に乗ろうとしたところ、若い女性に呼び止められ、船に乗り損なってしまいます。ところがその船が転覆、乗客乗員全員死亡という大惨事が起きる…というストーリー。実話を元にしたお話なのだそうですが、祭で有名なこの住吉神社も、漁民たちが大阪・住吉の住吉大社をお招きして、佃島に建てたという由緒正しい神社です。


2月10日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、江戸前のごちそう「天ぷら」をご紹介します。

エビ、ハゼ、ギンポ、メゴチ…江戸前の新鮮な魚介類に、さっと衣をつけて、油の中にするりと滑り込ませます。するとたちまち油が泡だって、パチパチパチ…という爽やかな音と共に、香ばしい香りがあたり一面に漂っていく…。天ぷらの揚がっていく様子は、いつも私達を幸せにしてくれます。

江戸時代の戯作者(げさくしゃ)、岩瀬京山(いわせ・きょうざん)は、「天ぷら」の名付け親は、実の兄である、やはり名高い戯作者の「山東京伝」(さんとう・きょうでん)である…と、著書の中に書き残しています。
当時、天ぷらは「つけ揚げ」という名前が一般的でした。天明年間といいますから、1780年代のことで、大阪から駆け落ちしてきた利助(りすけ)という男が、古い知人の京伝に「つけ揚げ屋をやってみたい」と相談を持ちかけました。すると京伝は、「天竺(てんじく)浪人が」…天竺浪人というのは、その当時、住所不定の人のことをこういう風に呼んだのだそうですが、その天竺浪人が、江戸にふらりとやってきてこしらえる。天竺ふらり、略しててんふら、てんぷらと名付けて売るのはどうだ…と、利助に知恵を授けたとのこと。

なかなか粋な話ではありますが、これより70年ほど前の近松門左衛門作「国性爺合戦(こくせんやがっせん)」の中に、「てんぷら」という言葉が登場することから、どうやらこれは京山の作り話のようです。

さて、さらに時代が下り、江戸末期になると、「きんぷら」という「てんぷら」の親戚も生まれました。これは、衣に蕎麦粉を使い、椿油で揚げる特製の天ぷらで、後には卵黄、卵の黄身を衣に使ったものを「きんぷら」と呼び、これに対して卵白、卵の白身を使ったものを「ぎんぷら」と、呼んでいた時代もあるのだそうです。伝統の技が生きる江戸前の天ぷらについて、浅草の名店「葵丸新(あおいまるしん)」さんにお話をうかがってきました。天ぷらの名店数ある中でも、食いしん坊の間でこの店ありと名高い浅草・葵丸進。あのごま油の香りを思い出すだけでも、たまりません。



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