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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
4月24日(月)〜4月28日(金)今週のテーマは、「東京はじめて物語」
全国に先駆けて東京から始まった、あんなもの・こんなものをご紹介します。

4月24日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、変わらぬ人気の「お子様ランチ」をご紹介します。

上野の老舗デパートといえば、お馴染み上野松坂屋。
1931年(昭和6年)のある日、ここの大食堂に新しいメニューが登場しました。このデパートは、上野公園そして上野動物園帰りのお客さんが多く、「せっかくお子さん連れが多いんだから、お子さんにも喜んでもらえる料理を作ろうじゃない」というコックさんのアイデアから生まれたものなんです。当時は珍しかった、ひと皿にいろいろ盛り付けるアメリカンスタイルを採用。型で抜いたご飯、コロッケ、オムレツ、輪切りのミカンといった内容でした。お値段は30銭なり。ネーミングが素晴らしいですね。

当時のメニューを再現した写真を見ると、まだ国旗と、おまけのおもちゃはないんですが、日の丸の旗が立ち、おまけが付いたのは翌年のこと。現在まで続いている人気メニュー「お子様ランチ」が完成したんです。あのグリコのおまけがヒントになったんだそうです。その後も、コロッケがハンバーグになったり、お皿の形が丸から小判型になったり、
いろいろな工夫が取り入れられていきました。

お子様ランチが名実ともに主役になったのは、1960年代で、特に人気になった「おまけ」が、ウルトラマンでした。
日曜日になると、お子様ランチの注文が殺到。なんと、1日に1300食も出たそうです。オムレツを焼く作業が大変で、5人がかりで焼いても間に合わなかったそうです。
また、お子様ランチのお皿にも時代が反映されていて、動物園にパンダが登場すれば、パンダの絵柄、新幹線が開通すれば新幹線をかたどったお皿にしたそうです。欠かせない「おまけ」ですが、今では1ヶ月ほどで新しいものに変えていて、毎回、数種類を用意して喜んでいただいているそうです。

上野松坂屋のお子様ランチは、現在も南館の食堂の人気メニューです。現在のお値段、735円。 なお、本館のレストランでは、お子様ランチを大人向けにアレンジして「ライト・ランチ」としてメニューに加えています。いろいろ味わえて、ダイエット効果もある…と好評だそうです。こちらのお値段は、1050円です。
上野松坂屋駅の最寄り駅は、東京メトロ銀座線、上野広小路駅です。



4月25日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「ボウリング場」をご紹介します。

手軽に楽しめるレジャーとして親しまれているボウリング。
日本最初の民間のボウリング場は、1952年(昭和27年)、港区青山にオープンした、東京ボウリングセンターです。ご記憶の方も多いことでしょう。カマボコ型の大きな格納庫のような建物でしたが、実は、本当に格納庫だったんです。戦争中に茨城県霞ヶ浦の基地で使われていたものを、解体、運搬して組み立てたものだったんです。建物は再利用でしたが、その他のものは全部新品。レーンからピン、ボールから靴まで、全部輸入品でした。

それまで、アメリカ軍の基地などにしかなかったボウリング場が東京に出来たのは、画期的な出来事だったんです。最初は会員制で、入会金3万円、年会費3千円、1ゲームの料金150円!当時、都営バスの料金が15円でしたから、現在の価値に直すと、およそ2000円。ずいぶん高かったんですね。お客さんは、映画俳優や自由業、外国人などが中心で、本当にトレンディな場所でした。

このボウリング場は20レーンあり、すべて手動。ピンをセットする係のピンボーイという係がいて、ピンを並べるんです。初めの頃は冷房などなかったので、騒音と暑さの中、なかなかの重労働だったようです。ピンボーイのアルバイトをしながら、ボウリングの練習をしていた1人に、後に日本人初のパーフェクトを記録した岩上太郎さんもいた…と記録に残っています。

ボウリングと言えば、コーラ。コーラをはじめ、ハンバーガー、ホットドッグや、新しいファッションも、ここから広がっていったんです。この建物は、たびたび映画に登場していて、昭和30年代前半、日活や大映の「青春映画」には欠かせない場所でした。この頃になると、ボウリングの人気が次第に高まり、各地にボウリング場が増え、大きなブームになっていきました。

現在、全国のボウリング場の数は、およそ1030個所で、3万レーンあります。参加人口は、およそ3200万人と、安定した人気があるんです。これほど幅広い年齢層に楽しまれているスポーツもないでしょう。初の民間ボウリング場として完成した東京ボウリングセンターは、1987年(昭和62年)に閉鎖、取り壊されましたが、華やかな場内の様子を記憶している人は、まだまだ多いようです。



4月26日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「地下鉄」をご紹介します。

大正時代はじめ、都市の新しい交通手段として、地面の下を走る鉄道を東京にも作ろうと考えた人がいました。
現在「地下鉄の父」と呼ばれている早川徳次(はやかわ・のりつぐ)です。海外視察で、パリやロンドンの地下鉄が
重要な役割を果たしているのを見て、決意が固まっていきました。

地下鉄建設を目的とした会社を作ったのは、1920年(大正9年)でした。当時の東京の人口は、およそ220万人。
市民の足となっていたのは市電で、1日の利用者は72万人と、大変な混雑でした。「このままではいけない!」準備を進めるうちに、関東大震災が東京を襲いました。市電を始めとした交通網は大きな被害を受けました。いろいろな障害を乗り越えて、工事が始まりましたが、地盤の柔らかい下町の道路下を掘り進むのは大変な作業だったようです。

わが国初の地下鉄は、1927年〔昭和2年〕12月に開通しました。開業当時の営業距離は、およそ2.2kmで、繁華街、上野と浅草を結びました。運賃は10銭。当時の市電の運賃は7銭でした。1両だけの車両が3分間隔で運転され、車両は最初から自動扉で、安全運転には欠かせないATS(自動列車停止装置)などの最新の装置が取り付けられていました。運転は1両でも、将来の発展に備えて、ホームの長さは6両編成の営業が可能なように作られていたんです。

開業当時、こんなキャッチフレーズがありました。

 「東洋唯一の地下鉄道」
 「冬暖かく 夏涼しい地下鉄」

これが話題にならないわけがない。
開業初日の乗客数、5万人。乗車まで1時間待ち…という状態もあったようです。その後も工事は進められ、神田、
三越前などの駅が次々に開業し、1934年〔昭和9年〕6月、予定されていた浅草・新橋間が全線開通しました。所要時間16分、都心のデパートのお客さんが急増するきっかけになったそうです。

開業からおよそ80年、地下鉄はめざましい成長をとげました。現在の営業距離は、292kmで、1日の利用者は、およそ772万人です。最初の地下鉄線は、その後渋谷まで延長され、現在は東京メトロ銀座線になっているのはご存知の通りです。地下鉄の父・早川徳次は、1942年(昭和17年)に亡くなりましたが、功労を称えて、彫刻界の第一人者・朝倉文夫が作った胸像が、東京メトロ銀座駅のコンコースに立っています。



4月27日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「公衆電話」をご紹介します。

どの家庭にも電話があり、携帯電話も普及している現代では考えられないのですが、電話がなかった時代は、どんなに不便だったことでしょう。電話が開設されはじめたのは、1890年(明治23年)のことで、やがて、表からも電話がかけられるようにして欲しい…という声が高くなり、人通りが多く、目立つ場所に電話が置かれるようになったんです。1900年(明治33年)、上野駅と新橋駅に、初の公衆電話が登場しました。なぜ、東京駅じゃなかったのか?
東京駅は、まだ影も形もなかったんです。

さてこの公衆電話がどんな状態で置かれていたかといいますと、当時の代表的な新聞「国民新聞」に上野駅の公衆電話の記事が出ています。

 『電話機を、戸棚のごとき箱に装置したるまま、機械は露出しあり。停車場のごとき、常に雑踏喧騒する場所柄
 として自然通話に困難を及ぼすの欠点ある…』

騒々しい場所だったようです。この電話は、当時「自働電話」と呼ばれていました。これは、英語の「オートマチック・
テレホン」を直訳したもので、決して自動ではなく、こんな使い方でした。交換手に相手の電話番号を告げたあと、
料金投入口に料金を入れます。料金は5分間で15銭でした。投入口は2個所あり、左に10銭硬貨、右に5銭硬貨を入れるようになっています。硬貨は落ちていく途中、10銭硬貨と5銭硬貨で音が区別されていて、交換手は、この2種類の音がしたことを確かめてから、相手につないだんだそうです。

上野駅と新橋駅は、確かに人通りは多かったんですが、当初は利用する人は少なかったようです。最初の年、1900年の1日あたりの通話回数は、平均7.5回だったそうです。もっとも、それも当然かも知れません。当時の東京市の電話の加入台数が全部で7600台しかなかったんですから。
その年の秋には、初めての電話ボックスが登場したんですが、これは、先ほどの新聞記事の「うるさい場所に置いてある」という批評に答えて静かな場所を作ったのかも知れませんね。



4月28日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「超高層ビル」をご紹介します。

地震大国といわれるわが国は、昔からたびたび大きな地震の被害を受けてきたため、20世紀に入ってからも、高い建物を作ることには制限がありました。1919年(大正8年)に定められた法律では、高さおよそ31m以上の建物は、原則として建てられないことになっていました。しかし、技術の発達や、材料の品質向上などによって、1964年(昭和39年)に、高さ制限が取り払われ、それまでの常識では考えられないような、超高層ビルを建てることが可能になりました。

完成したのは、1968年(昭和43年)。高さ147m、地上36階と、本当に高いビルでした。そばに行って、首が痛くなるまで見上げていた経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。展望台は人気の的、高速のエレベーターや、広々としたロビー空間など、それまでにはなかったものでした。

霞ヶ関ビルが出来て変わったものがあります。それは家賃。
それまでは、下の階のほうが高かったんですが、こちらは上にいくほど家賃が高くなったんです。眺めの素晴らしさと、採光の良さでそう決められたようです。「超高層のあけぼの」という映画が作られ、主人公がこのビルにオフィスを構えている設定のテレビ映画も人気になり、完成後、しばらくの間、東京の絵葉書の人気bPは、東京タワーと霞ヶ関ビルが一緒に写ったものだったそうです。

1960年代から70年代にかけては、日本が大きく成長した時期で、外資系の企業が続々と進出していた時代でした。霞ヶ関ビルは外資系のオフィスがとても多く、英語やフランス語が飛び交う、当時としては珍しい、国際色豊かな、華やかな場所でした。
当然、マスコミでも大きく取り上げられました。毎年夏になると、ビールの消費量が話題になりますが、それまでは、「今年のビールの消費量は、丸ビル何杯分」といわれていたのが、霞ヶ関ビル何杯分…に変わりましたよね。完成から数年のうちに、浜松町の世界貿易センタービル、新宿の京王プラザホテルなど、超高層ビルの建築ラッシュが続きました。そして、ほぼ40年…たくさんの超高層ビルが完成しました。
霞ヶ関ビルは、再来年、完成40周年を迎えます。既に、耐震工事をはじめとした大掛かりなリニューアル工事は終了していて、最新の機能を持ったビルに生まれ変わっているんです。



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