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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
5月8日(月)〜5月12日(金)今週のテーマは、「東京名水紀行」
世界一の大都市だった江戸、そして東京で、人々の暮らしを支えてきた、「水」の歴史を探ります。

5月8日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、その名も高き「御茶ノ水」をご紹介します。

人間の体の60%は「水」から出来ています。私達は、水なしに、一日たりとも生きることはできません。
18世紀、江戸の人口は百万人と、ロンドンを抜いてすでに世界一の大都市でしたが、それだけの人口がいたという
ことは、また、それに見合うだけの、安全でおいしい「水」がこの町にはあった、という証明でもあります。

おなじみ「鉄腕アトム」は手塚治虫の代表作で、アトムのよき理解者として大活躍するのが、鼻の大きな「御茶ノ水博士」です。博士の名前のもとになったのが、「御茶ノ水」という地名。JR御茶ノ水の駅は、神田駿河台の岡をてっぺんまで上り詰めたところにあり、そこから階段を降りていくと、美しい神田川を眼下に望むプラットホームに出ます。このあたりから、神田川の水面近くを横切っていく地下鉄・丸ノ内線を眺めるのは、鉄道ファンならずとも、何とも心踊る瞬間ですが、さて、この「御茶ノ水」、考えてみると、ちょっと変わった地名ですが、なぜこんな名前になったのでしょう。

実は江戸の始め頃、このあたりに、それはおいしい水が汲み上げられる井戸があったのです。
御茶ノ水駅から神田川を渡り、現在の順天堂病院あたりに、かつて「高林寺」というお寺があり、その境内の井戸水は、当時から「名水」の誉れ高かった。二代将軍・秀忠公が鷹狩りの帰りわざわざこの寺に立ち寄り、この水で立てたお茶をお飲みになり、たいそう気に入られ、それ以来、この井戸で汲んだ水が将軍家御用として、江戸城に献上されることになった…というのが「御茶ノ水」の由来です。

さて、現在も鉄道の駅名として残り、さらに有名な漫画のキャラクターの名前としても使われるまでになった、この
「御茶ノ水」の井戸ですが、現在は影も形もありません。いったい、どうなってしまったのでしょうか?
ご多分に漏れず、高度成長期の乱開発で水が枯れたのかと思いきや、これが違うんです。
井戸がなくなったのは、江戸時代初期の1661年(寛文元年)。この年、神田川の拡張工事が行なわれ、その時、
名水を生み出したこの井戸が川底に沈んでしまいました。現在、JR御茶ノ水駅のある駿河台と、順天堂や医科歯科、そして神田明神へとつながる湯島の間には、神田川によって抉られた深い谷間がありますが、実はこの谷間は、この1661年の大規模な土木工事によって生まれたもの。それまでは駿河台と湯島は、「神田山」と呼ばれた、一続きの台地だったんです。今度、中央線に乗る機会がありましたら、ぜひそんな歴史を思い浮かべてみてください。
見慣れた御茶ノ水付近の景色が、また一味違って眺められると思います。



5月9日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、麻布七不思議の一つ「がま池」をご紹介します。

今から3年前、東京都は「東京の名湧水」…つまり、都内の「名高い湧き水」をリストアップして、57箇所を発表しました。そして、その他に4箇所を「公開に制限がある湧水」として、特別に紹介していますが、そのうちの1箇所が麻布の「がま池」。明治の頃、「がま池」は、敷地5千坪に及ぶ庭園の中にあり、池の面積だけでも500坪はあったという、それは雄大な池でしたが、時代の移り変わりと共に次第に埋め立てられ、現在ではごく一部を留めるのみ。また周囲にはマンションなどが立ち並んでしまったため、一般の人の目に触れる機会はほとんどありません。それでも貴重な
都心の湧き水には違いない、ということで、東京都もリストアップした、というわけです。

六本木ヒルズを間近に見上げる「がま池」は、江戸時代は、山崎主税助(ちからのすけ)という旗本のお屋敷の中にありました。当然のごとく、ガマガエルが住んでいたわけですが、500坪もの池に住むガマですから、そこらのガマとはガマが違う。当然のことながら、モノノケのたぐいです。江戸時代、このガマのモノノケが、夜回りに出た山崎家の家来を食い殺しちゃった。さあ大変、家来の敵討ち…と、お殿さまはモノノケ退治を決意されたのですが、その夜、白髪の老人が、お殿さまの夢枕に立ちました。

 「わしは、この池に住むガマでございます。昨夜は、大変申しわけないことをいたしました。
 もう二度と、人は食べません。お許しくださいませ。お詫びの印に、どんな大火事になろうとも、このお屋敷は
 私が守ります」

こう言って消えました。
さても、不思議なことがあるものよ…と、山崎のお殿さまは、ガマ爺さんの言葉を信じて、成敗をやめました。後に、
1821年(文政4年)7月、麻布・古川から燃え広がった大火事が、山崎家に燃え移ろうとしたその瞬間。池から巨大なガマが飛び出しまして、口から水を吹きかけて屋敷を救い、さらに火事も消し止めてしまった。これが麻布七不思議の一つ「がま池」の顛末です。

後に山崎家では、この故事にちなみ、家に貼れば火除けとなり、火傷を撫でればたちまち快癒するという、がま池の水で溶いた墨で書いた「上の字様(じょうのじさま)」というお札を売り出して大ヒット。現在もこのお札の流れを引く、「蛙のお守り」を、大江戸線・麻布十番駅脇にある十番稲荷神社で求めることができます。大きなカエルの石像が、
目印です。



5月10日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、二十三区最後の秘境「等々力渓谷」をご紹介します。

高級住宅街として名高い、世田谷区・等々力。
一説によれば、「等々力渓谷」の真ん中へんにある「不動の滝」の音が、あたり一面に「とどろいて」いたことから、
この名前がついたのだそうです。

東急大井町線・等々力駅を降りてすぐ。「ゴルフ橋」と名づけられた、奇妙な橋の脇に作られた、鉄の螺旋階段を降りていくと、あっと言う間に景色は深山幽谷。鬱蒼とした木々に取り囲まれ、真下にはきれいな水の流れ。駅前の雑踏がウソのような、シーンとした自然の風景が目の前に広がります。
しばらく歩いていくと、見えてくるのが横穴式の古墳。1300年ほど昔、このあたりの人々はまだ家を建てず、自然の恵み豊かな等々力の崖に、穴を掘って暮らしていました。この古墳からは当時の焼き物である「須恵器(すえき)」、
ガラス玉などと共に人骨も見つかっています。

せせらぎに沿って歩いていくと、見えてくるのが「不動の滝」。おそらく、横穴に人々が暮らしていた時代、そのずっと以前から変わりなく水は湧き、そして滝となって落ち続けていたことでしょう。
この不動の滝につながるのが、「等々力不動尊」。今から900年ほど昔、興教大師(こうぎょうだいし)という偉いお坊さん、この人物は高野山にいらっしゃったのですが、ある夜、「武蔵の国に行き、お寺を開きなさい」という夢のお告げを受けます。そこでお不動様を背中にしょって、エッチラオッチラと東海道を東へと向かいました。そして多摩川を渡り、たどり着いたのがここ等々力渓谷。美しい谷川の流れ、そして清らかな湧き水。夢に見たのと寸分違わぬ風景が拡がっており、「夢のお告げの場所はここじゃ」と、お不動様を安置したのが等々力不動尊の始まりです。
「不動の滝」は修験道、つまり山伏が、その修験道を始めた「役の行者(えんのぎょうじゃ)」が水に打たれて修業した場所としても知られています。そんなことから、現在でも、時折、滝に打たれて修業する修験者の姿を、見かけることがあります。



5月11日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、東京の名水中の名水「お鷹の道・真姿池湧水群」をご紹介します。

1985年(昭和60年)、当時の環境庁が、各地の湧き水や川の中から、とりわけ素晴らしいものを選び、「日本の名水百選」を選んで発表しました。その中で、青梅市の御嶽渓流(みたけけいりゅう)と並び、東京から選ばれたのが、国分寺の「お鷹の道・真姿の池湧水群」。JR西国分寺駅を降り、南へおよそ10分ほど歩いたところです。

東京の「武蔵野」と呼ばれる地域では、地面の下に水を通しやすい地層が走っています。国分寺、そして小金井にかけての「ハケ」と呼ばれる地域は、ガケの部分から、この水を通しやすい地層が露出していて、そのため湧き水が多くなっているのです。
「お鷹の道」といいますのは、江戸時代、このあたりが、尾張徳川家の鷹狩りスポットに指定されていたことにちなんで名づけられたもの。ガケ下の湧き水を集めて流れる清流沿いの小道が「お鷹の道」というわけです。現在では遊歩道として整備されており、地元の人々にとっては、なくてはならない憩いの場となっています。二百年ほど昔には、
馬に乗った徳川のお殿さまが、獲物を追ってひたすら駆けていた道だったのでしょう。

お鷹の道のすぐ脇にあるのが、「真姿(ますがた)の池湧水群」。今から千二百年ほと前、玉造小町(たまつくりこまち)という絶世の美女が重い病いを患い、見るも無残な顔になってしまったといいます。なんとか病気を治したい、
元どおりの顔になりたい…。藁にもすがる思いで、小町が国分寺の薬師様に祈ったところ、どこからか不思議な子供が出現し、彼女の手を引いて「こっちへおいで」とどこかへ誘います。これは薬師様の化身か…と、小町がついて行くと、到着したのが、この池でした。

 「ここで顔を洗ってごらん、姉ちゃん」

そう言って子供は、ふっ…と姿を消してしまったのです。半信半疑で小町が顔を洗ったところ、あら不思議、たちまちにして病は癒え、元どおりの美しい顔になった、それほどの美しい水だということなんです。小町が真実の姿に戻ったことから、それ以来、この池は、「真姿の池」と呼ばれるようになったというわけです。
こちらのお水は本当においしいということで、今も各地からペットボトルを持って汲みに来る方が後を絶ちません。
五月の晴れた休日、国分寺、お鷹の道を散歩してみるのも、なかなか楽しそうですね。



5月12日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、小金井の「貫井神社」をご紹介します。

国分寺から、やや都心寄りに移動してくると、小金井市に入ります。このあたりは、ガケのあちこちから湧き水が出てくる、とても水に恵まれた土地柄で、しかもその水がとてもおいしい、素晴らしい、品質のいい水ですから、このあたりに暮らす、人間を含む、すべての生き物にとって、とてもありがたい環境です。地名になっている「小金井」も、もともとは「黄金(こがね)」=即ち、黄金(おうごん)の井戸…という意味、つまり、どんなに水が出ても枯れることのない、ありがたい井戸というわけ。本当に、水に恵まれている土地だということがわかります。

武蔵小金井の駅から、南へのんびり歩いて15分ほど、見えてくるのが「貫井(ぬくい)神社」。ぬくい、即ち、温かい水の出る井戸ということ。この神社は1590年(天正18年)に、水の神様=水神を祀った「貫井弁財天」がその始まりといいますから、300年以上の歴史を誇る、由緒正しい神社。境内のそこかしこから、澄んだ水が絶えることなく湧き出し、清らかな流れを作り出しています。

この貫井神社のすぐ近くには「滄浪泉園(そうろうせんえん)」という見事な庭園があり、ここも湧き水の名所として
名高いところ。こちらのお庭は、5・15事件で凶弾に倒れた、犬養毅(いぬかい・つよし)元・首相が名付け親で、「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵(ぞくじん)に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」という意味なんだそうで、確かにここの水も、ハッと息を飲むほどの美しさ。庭園の一画に設けられた水琴窟に耳を傾けると、
浮世の出来事など、もうどうでもよくなってきます。

2003年の調査では、都内の湧き水は707箇所と、5年前と比べて、10箇所ほど減っています。土木工事によって、湧き水そのものが消えてしまったり、路面舗装が進むことで雨水が染み込まなくなったり、理由はいろいろですが、
水を守ることは、すなわち、生き物の命を守ることにつながります。東京の美しい水を、これからも大切に残していきたいものですね。



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