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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
7月3日(月)〜7月7日(金)今週のテーマは、「東京 懐かしの乗り物たち」
既に消えてしまった、あるいは、僅かに残っている懐かしい乗り物をご紹介します。

7月3日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「渡し船」をご紹介します。

江戸時代。江戸の街は、防衛上の理由から、隅田川や多摩川にはごく少数の橋が架けられていただけでした。隅田川の場合ですと、江戸時代の末には、千住大橋・両国橋・永代橋・新大橋そして吾妻橋の5つの橋があっただけで、とても不便でした。そこで活躍していたのが、渡し船。江戸市中と近辺だけでも、50とも60とも言われる「渡し」があったそうです。旅人ばかりでなく、農作業をしたり、商いをする人たちには欠かせないものでした。

でも、明治時代になると、次第に橋が出来て、渡しは急に減っていきました。そして現在、営業を続けている渡し船は、ただ一つ。それは1982年(昭和57年)に大ヒットした曲や、映画「男はつらいよ」でお馴染みの、矢切の渡しです。ここは、江戸時代の初めに出来た歴史のある渡しでして、現在も朝の9時半から4時半まで、葛飾区柴又と対岸の千葉県松戸市を結んでいます。料金は、大人100円、お子さんは半額の50円。有名な観光スポット柴又の名所として、毎日たくさんのお客さんを集めているんです。

実は、都内には他にも渡し船があるんですよ。それは、世田谷区にある東急ゴルフパークたまがわ。ここは船がないと困るんです。なぜかと言うと、多摩川の河川敷を利用したゴルフ場で、クラブハウスは東京都に、ゴルフコースは神奈川県にあるからなんです。そこで、プレーをするお客さんのために、専用の渡し船が用意されているんです。大雨などで水量が増えると、船はストップ。ゴルフ場の車で大きく迂回してコースに向かうそうですから、大変です。他にも、荒川などには、通勤用の渡し船もありますが、一般の人は乗れません。あわただしい毎日を送っている私たちには、のんびりした渡し船は、ほっとしたひと時を与えてくれるように思えます。葛飾区の「矢切の渡し」の最寄り駅は、京成電鉄金町線の柴又駅です。



7月4日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「人力車」をご紹介します。

1870年(明治3年)、東京に新しい乗り物がお目見えしました。江戸時代からの乗り物、カゴは二人で一人の客を運んでいましたが、新しい乗り物・人力車は一人が一人、あるいは二人を運ぶことが出来ました。しかも、恐ろしいほどに速い。発明された翌年、明治4年には、東京だけで、なんと2万5千台。全国では4万台という驚くほどの普及ぶりでした。

全国に急速に広まったのには、ちょっとしたエピソードがございます。明治天皇が全国各地への行幸を盛んに行ったのが、明治10年代だったんだそうです。お供の方々が人力車を使うようになり、また、行幸によって各地の道路が整備されたことも人力車の普及に一役買った、というんですね。最初の頃の人力車、乗り心地が悪かったようですが、次第に改良されていきました。バネが使われ、泥よけが付けられ、明治の末にはゴムのタイヤも登場しました。国内の保有台数のピークは、明治29年。全国におよそ21万台ありました。輸出も盛んに行われ、ピークは、明治の末で、年間およそ1万4千台。横浜港では、積み込みを待つ人力車がズラリと並んでいる風景が見られました。

そんな人力車にも、衰退の時がきます。鉄道が開通し、大都市では路面電車も開通。タクシーやバスも大敵でした。1935年(昭和10年)には、全国でおよそ2万台と、全盛期の10分の1にまで減ってしまいました。戦争で減り、終戦後、またまた減りました。ほとんど見かけなくなった人力車ですが、最近では観光地で見かけるようになりました。でも、現在でも、人力車でなければダメというお客さんもいるんですね。

それは芸者さん。料亭などのお座敷に行くのは、やはり、人力車が便利なんだそうです。小回りがきいて、乗り心地も良いと伺いました。有名な料亭がある中央区銀座の一画には、珍しい交通標識があります。駐車禁止の標識ですが、但し書きが付いています。

 【 人力車を除く 】

この界隈では、まだまだ現役の乗り物なんです。



7月5日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「トロリーバス」をご紹介します。

東京の街からトロリーバスが消えて、早いもので間もなく30年になります。形はバスのようですが、電車のように架線から電気を取っていて、路面電車のようにも見え、不思議な乗り物でした。トロリーバスは、設置が簡単で騒音も少なく、日本でも既にいくつかの都市で取り入れられていました。東京都に開通したのは、1952年(昭和27年)で、数年のうちに4つの区間で営業が始まりました。

最盛期、昭和37年の運輸成績表を見ると、営業距離の合計はおよそ51キロ。1日当たりの乗客数は、およそ11万人。ところが、タイミングが悪かったんですね。モータリゼーションの時代が始まっていました。車が年々増えていき、道路の整備は追いつきません。道路渋滞はひどくなるばかりでした。昭和27年には時速16キロで走れたものが、10年後には14キロ台に、昭和40年には13キロ台に下がってしまいます。

 「交通渋滞の原因だ!」
 「なんとかしろ!」

非難の声が高まり、営業成績は、慢性的な赤字になってしまいます。止むを得ず廃止が決まり、昭和42年と43年の2年間で、相次いで姿を消していきました。あのユニークな姿が見られたのは、僅か16年間でした。最初に申しました、バスのようでもあり、電車のようでもある、という点なんですが、実は電車なんです。トロリーバスは、日本語では、無軌条(きじょう)電車といいます。線路の上を走る電車とは違いますが、電気エネルギーを使ってモーターで走る…まさに電車なんですね。残念ながら短期間で消えてしまったトロリーバスですが、実は、今でも活躍している場所があるんです。それは、黒四ダムで知られる、立山・黒部アルペンルート。2つの区間で、観光客の足として使われています。排気ガスを出さない乗り物の長所をいかした使われ方なんです。
効率の良い電気自動車が出来る前に実用化されていた「クリーンな」乗り物、それがトロリーバスでした。電気自動車が進歩した現在、都会にトロリーバスが復活することはなさそうですが、あの姿を覚えている人は、まだまだ多いようです。



7月6日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「蒸気機関車」をご紹介します。

SL、蒸気機関車は、1872年(明治5年)に開業してから、1976年(昭和51年)、北海道で最後の運転を終えるまで、100年以上にわたって活躍しました。これほど重要な役割を果たした乗り物はないでしょう。新橋・横浜間を走った汽車はイギリス製でした。早い時期にSLを国産化しよう! というのが念願でしたが、これがなかなか実現できなかったんですね。イギリスをはじめ、アメリカやドイツなどから機関車を輸入しては、技術の向上が進められていきました。

念願がかなったのは、1910年代、大正時代のはじめでした。昭和10年代にかけて、個性的なSLが次々に登場しました。貴婦人と呼ばれたC57、戦後に復活した特急「つばめ」を引いた栄光のSL C62、そしてお馴染みのデゴイチあるいはデコイチの愛称で親しまれた庶民派D51などなど、スターが多かったんです。それぞれにファンがいまして、「俺はデコイチ」「いやいや、俺はC57」と大変でした。

華々しい活躍を見せたSLにも、世代交代の時が訪れます。1960年代になると、電化とディーゼル化が着々と進み、SLは次々とローカル線に移されていったんです。首都圏からSLが消えたのは1970年のことでした。この頃になって、全国的にSLブームが起きました。ポスターが売れ、レコードが売れ、カメラを持ったSLファンが大きな駅や格好の撮影スポットに見られたものです。

旧国鉄時代に在籍したSLはおよそ8500両。残念ながら、その多くは解体されてしまいましたが、今も全国各地の公園や施設に保存されている幸運なSLも多いんですね。その数、およそ400といわれ、定期運転されたり、運転できる状態に整備されているものもあるんです。



7月7日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「一銭蒸汽」をご紹介します。

江戸は水の都だった、とよく言われます。実際、ヴェニスや大阪にも負けないほど、川や運河が多かったんですね。江戸が東京となった後に登場した乗り物が、一銭蒸汽です。隅田川に蒸気船を上り下りさせたら、便利に違いないぞ…こう考えた人が開業を申請、認められたんです。明治18年のことでした。新大橋から吾妻橋までの営業から始まり、すぐに永代橋まで伸び、次第に路線が増えていったんですね。

現在の地下鉄のように区間が分かれていまして、最初の一区間が一銭だったことから、一銭蒸汽と呼ばれました。ポンポン蒸汽、川蒸汽などの別名もあり、料金が2銭、5銭と値上げされても、愛称の「一銭蒸気」はそのままでした。一銭蒸気は人気があり、最盛期の1920年(大正9年)の年間の利用者は、およそ430万人! 便利な交通機関として利用されていただけでなく、花見をはじめとした観光の利用も多かったようで、船の中では、家族連れを目当てに、絵本やおもちゃが売られていたんです。

使われていたのは、3トンから10トンどまりの小さな船でした。岸壁や浮き桟橋に横付けされた船に乗り降りするんですが、タイミングが悪いと川に落ちてしまうことも。船員に救い上げてもらうんですが、当時の隅田川は水がキレイだったので、少しくらい水を飲んでも大丈夫だったそうです。これは、文豪・幸田露伴の娘の幸田文(あや)が、自分が吾妻橋の発着所から川に転落した経験を記した随筆の中に面白おかしく書かれています。

昭和に入ると、電車やバスといった地上交通の発達によって、利用者が減ってしまいました。競争が激しくなってきた昭和7年当時の料金は、2区間分で5銭、5分間隔で運転されていたそうです。戦争、そして終戦。一銭蒸汽は、壊滅的な被害を受けていました。戦後、隅田川は汚れが目立つようになり、やがて悪臭が強くなりました。しかし、東京オリンピックが開かれた1960年代中ごろから、少しずつ改善されていったんですね。現在、観光客に人気のある水上バスは、昔の一銭蒸汽の伝統を受け継いでいます。四季おりおりに楽しめる隅田川の船遊びは、江戸や明治の名残りでもあるんです。



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