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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
7月24日(月)〜7月28日(金)今週のテーマは、「ハロー!浜松町」
文化放送新社屋のある、浜松町周辺をご紹介します。

7月24日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、浜松町の空を駆け巡る「東京モノレール」をご紹介します。

文化放送新社屋9階、第一スタジオから外を眺めますと、そこに見えますのは江戸の名残を伝える庭園、芝離宮、その脇を駆け抜けていく東海道新幹線。しかし何よりも印象的なのが、それらすべてを眼下に見ながら、JRの線路をグイグイと横切って海へと向かっていく、東京モノレールの姿です。日本で二番目に古い超高層ビル、世界貿易センターの中から突如、姿を現すように見えるこのモノレール。利用されたことがある皆さんならご存じの通り、線路をまたぐと、運河の上を通って、羽田空港へと向かいます。水の上を走るのは、なかなか快適なものですが、しかし、よく考えてみると、水中に柱を立てるのは、けっこう難しい工事のはず。安全を確保するのも大変ですよね。まさか、眺め優先で工事を進めた訳でもないでしょう。

では、いったい、どうして、こんなルートを通ることになったのか…と申しますと、モノレールが運河の上を通ることになったのは、東京オリンピックと大きな関わりがあるのです。モノレールはもともと、オリンピックに備えて、外国から羽田にやってくる選手や関係者、また観光客たちの輸送を主な目的として建設されました。開業したのは、1964年(昭和39年)9月17日。わずか40日後の10月10日には、オリンピックが開会式を迎えたわけですから、まさに滑り込みセーフ。こんなギリギリになってしまったのは、なんといっても準備期間の短さが最大の理由でしょう。
東京でオリンピックが開かれることに決まったのは、1959年(昭和34年)の5月のこと。いくらノンビリした時代とはいえ、わずか5年で、競技場の用地準備、建設、そして東海道新幹線や首都高速道路などのインフラを整える…というのは大変な事。もちろん、用地買収などが簡単に進むわけがありません。というわけで、買収の必要がない運河の上などが、モノレール、そして首都高のルートとして選ばれたというわけです。

しかし、昼夜兼行の突貫工事や、運河の上といった特殊な場所での工事は、当然のことながら費用がかかります。そうしたいきさつは料金にも反映され、当時、国電の初乗りが10円だった時代に、モノレールの料金は250円!当初は浜松町と羽田空港の間に駅は一つもありませんでしたが、なんとか利用してもらおうと、ギャンブラー目当てに大井競馬場駅が建設されるなど、次々に駅が増えていきました。
誕生から今年で満42年を迎える東京モノレールですが、現在、浜松町駅にはホームが1本しかないのがネック。浜松町駅東側の再開発に伴って、将来は2本のホームを持てるように、駅の東側への移転が計画されています。スタジオの窓から、JRの線路をダイナミックに横切る姿を見られるのも、あと何年かということになりそうです。



7月25日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「芝浜、増上寺」をご紹介します。

 「芝で生まれて 神田で育ち…」

粋な江戸っ子の条件として挙げられているのが、芝、即ち、文化放送新社屋の近辺で生まれていること。もし、妊娠中の文化放送の女子社員が社内で産気づいてもう間に合わない、ここで産んじゃえ!…となれば、その子はまさに「江戸っ子」になる資格十分というわけです。このあたりを舞台にした落語もいろいろありますが、いちばん有名なのは、「芝浜」でしょう。「芝浜」といえばこの方、三代目・桂三木助師匠でございます。この落語は以前もご紹介したことがございますが、魚屋の勝五郎さんが、「芝の浜辺」で、大金の入った革の財布を拾うことからお話が始まります。「芝浜」と申しますのは、現在の新橋から品川あたりまでの海岸線のこと。今では埋立が進んでしまったため、海もずいぶん向こう側になってしまいましたが、明治時代までは、このあたり、国鉄の線路の東はすぐ海。波打ち際を汽車が走っていたんだそうですから驚きます。お話の中で、勝五郎さんが魚を仕入れに行く市場は、現在の田町の駅、すぐ近くにあったようです。そして、このお話で、もう一つ印象的なのが、こちら。

 「西国の 果てまで響く 芝の鐘」

浅草寺、寛永寺と並び「江戸三大名鐘」の一つに数えられ、勝五郎さんが「金が入ってるから、いい音だ」と聞きほれる、増上寺の鐘です。実は、文化放送新社屋の最寄り駅は「浜松町」ではありますが、本当は、一番近いのは地下鉄大江戸線の「大門」駅。この「大門」というのは、増上寺の表門のことなんです。文化放送の前の道を西に進んで行きますと、コンクリート造りの立派な門が見えて参ります。これをくぐって、さらに奥へ行くと、東京タワーの麓に広がっておりますのが、増上寺。もともとは現在の紀尾井町、ホテルニューオータニの近くにあったんだそうですが、徳川家康公が手厚く保護したことで大きく発展し、現在地へ移転。上野、寛永寺と並び、徳川家の菩提寺となりまして、二代秀忠公を始め、六人の将軍やその家族が葬られております。幕末、幕府と朝廷の間を何とか取り持とうとするため、十四代将軍・家茂公のもとに嫁いできた皇女、和宮様のお墓も、ここ増上寺に設けられています。



7月26日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、浜松町駅前のホッとするスポット「芝離宮」をご紹介します。

明治時代までは、新橋から品川にかけて、現在のJRの線路がほぼ海岸線。もし、この文化放送新社屋が百年前に建設されたとしたら、もう本当に、目の前まで海が迫っていたことでしょう。
さて、ここ第一スタジオから窓の外を見て、一番印象的な風景と言えば「芝離宮庭園」。かつてはこの庭園も海岸のすぐ脇にあり、池も海水を取り入れた「汐入の池」でした。お隣・新橋駅近くの「浜離宮庭園」は、運河からすぐの場所にあるため、現在も、池の水は海水ですが、こちら芝離宮は、その後どんどん埋立が進んでしまったため、今では真水、鯉が悠然と泳いでおります。

この庭園、正式名称は「旧 芝離宮 恩賜庭園」。もちろんこの場所も、もとは海だったわけですが、明暦の頃と申しますから、今から350年程前に埋め立てられ、老中、大久保忠朝(ただとも)の屋敷となりました。忠朝は領地の小田原から庭師を呼び寄せて庭園を造成、現在も一部、当時の石組みが残されています。その後、屋敷の持ち主は何人か入れ替わり、1875年(明治8年)には宮内省に買い上げられて、翌年「芝離宮」となりました。また、1891年(明治27年)には、敷地の中に西洋風の建物が作られて、外国からの賓客を迎える「迎賓館」としての役割を担うようにもなりました。

庭園の中には「九尺台(きゅうしゃくだい)」という小山があり、ここは、その昔、明治天皇がてっぺんまで上り、海を眺めたり、また漁民たちが漁をするのを眺めて楽しんだという場所です。さて、明治を通じてハイソなスポットとして栄えたこの「浜離宮庭園」ですが、大正時代に転機が訪れます。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災発生。この時、園内にあった貴重な建物や樹木は、ことごとく焼けてしまったのです。ボロボロになっちゃったから、いらないよ〜…という訳でもないのでしょうが、宮内省は地震の後、後の昭和天皇のご成婚を記念し、庭園を当時の東京市にご下賜、贈ることに決めました。
東京市では突貫工事で復旧作業を進めた結果、翌年4月にこの庭園をリニューアル・オープン。現在に至るまで東京都民の憩いの場となっております。さて、この芝離宮には、園内の一画に弓矢の練習場、弓道場があって、弓矢を楽しむ人々に親しまれているんです。旧芝離宮恩賜庭園は、入場料150円。ぜひ一度、足を運んでいただきたいと思います。



7月27日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「浜松町駅のアイドル」をご紹介します。

浜松町駅の山手線外回り、京浜東北線の下り電車のホーム、田町駅寄りにある、かの有名な浜松町のアイドル、小便小僧。片手を腰にあて、もう片方の手で、オシッコが飛び出す部分をコントロールする、とてもかわいらしいオブジェです。もともとはベルギー、ブリュッセルの名物として知られ、「ジュリアン」という立派な名前もあって、本家は高さ56センチですが、浜松町のものは43センチ、ほんの少し、小ぶりになっています。

さて、このベルギー生まれの小便小僧が、なぜ、はるばる海を渡ってここ浜松町までやって来たのか?
時は、1952年(過去7年)のこと。この年、鉄道80周年の節目の年に当たっており、国鉄は利用客へのサービス向上に励んでおりました。各地でそれぞれ、ユニークなサービスが考えられましたが、その中で、当時の浜松町の駅長さんが、「大阪を夜行で発った旅客が夜明けの東京に着いたとき、何かはっと目の覚めるようなものはないだろうか」と考え、かねてから親しかった歯医者さんの小林光さんに相談したところ「それならうちにいいモノがある」と、取り出してきたのが、かの小便小僧。なんでも小林家に、おじいさんの代から受け継がれてきた、由緒正しい「小便小僧」だそうですが、先生はこのオブジェを「よかったら使ってください」と寄付。駅長さんは「こんなものを公衆の面前にさらしていいのか」…と、けっこう迷いもあったそうなんですが、譲り受けた浜松町駅では、さっそくミカン箱を重ねてホームの端に設置しました。終戦から間もない当時、駅で水が出るのは駅長室だけという有り様でしたが、珍しい小便小僧をクローズアップするためにホースをつなぎ、水が出るように工夫したんだそうです。

さて、この小便小僧、区内のボランティアの皆さんによって、毎月衣装替えをしていることでも有名です。先月、6月はサッカー、ワールドカップの日本代表スタイル、そして現在は夏っぽい衣装でヒマワリを手にしていますが、来月、8月はいったいどんな服を着せてもらうのでしょう。



7月28日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、東京の海の玄関「竹芝桟橋、日の出桟橋」をご紹介します。

都はるみさんの大ヒットナンバー「アンコ椿は恋の花」。ご存じ、伊豆大島を舞台にしたラブソングですが、大島を始めとする、伊豆諸島、そして小笠原諸島への玄関口といえば、「竹芝桟橋」。おなじみの東京湾納涼船も、ここ竹芝桟橋から発着します。現在では、新橋から「ゆりかもめ」が開通したため、桟橋のすぐ近くに駅ができましたが、その昔は、最寄り駅といえば「浜松町」でした。最近、この竹芝周辺も再開発が進んでおりまして、今から11年前、平成7年(1995年)には「ニューピア竹芝」が全面オープンしています。

実はこのあたり、隠れたデートスポットとして人気でして、中でも客船ターミナルのあるサウスタワー、21階には7月から9月までの3か月間だけ開放される無料展望室があります。この展望室、もちろん海岸線ギリギリに建っている上、90mの高さから、東京湾を一望できるとあって、本当に見事な眺めが楽しめるんです。また、地上に降りてみれば、海岸線沿いにウッドデッキが整備され、お台場や汐留再開発地区の夜景を間近に見ながら散歩すれば、ムード満点!思わず二人の仲も、近づいたりなんかしちゃったりして…。

さて、竹芝桟橋から出かけるのは伊豆や小笠原の島々ですが、ゆりかもめで一つ先の「日の出」駅にほど近い、日の出桟橋から出かけるのは、お台場や浅草。こちらは「水上バス」のターミナルになっています。竹芝、そして日の出は、東京港の代表的な埠頭ですが、その歴史は意外に浅く、整備されたのは大正時代より後です。東京湾の港といえば、幕末以来横浜港が有名で、東京への物資輸送は、専ら鉄道に頼っていました。
ところが、1923年(大正12年)の関東大震災で横浜港がほとんど全滅状態となり、鉄道も不通となったため、救援物資は直接、東京の港から陸揚げされました。万一のことを考えた場合、横浜だけでなく、東京の港もきちんとしておく必要がある…と考えられるようになり、1925年(大正14年)の日の出桟橋を皮切りに、以後、昭和初期にかけて東京港全体の整備が進められました。
さて、いよいよ夏休み、最初の週末。今夜は伊豆諸島へ向かう観光客で、竹芝桟橋、さぞやごった返すのではないでしょうか?



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