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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
10月23日(月)〜10月27日(金)
今週のテーマは、「東京 撮影所紀行」
夢の世界、映画を作り上げてきた撮影所をご紹介します。

10月23日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「日活向島撮影所」をご紹介します。

1911(明治44)年に、日本活動写真株式会社、のちの日活が誕生しました。そして、2年後、南葛飾郡隅田村、現在の墨田区堤通(つつみどおり)2丁目に、本格的な撮影所が完成したんです。隅田川沿い、白髯橋の少し上流、およそ2300坪の敷地に、250坪ほどの「東洋一」といわれたグラスステージが建てられました。大きな温室のような建物で、天候に左右されず撮影できるようになりました。
フィルムの感度が低く、カメラの性能もお粗末だった当時、太陽の光を目一杯利用するために、グラスステージは欠かせないものでした。夜になると、照明がガラスに反射して建物全体が明るく輝き、「隅田川の水晶宮」と呼ばれ、たくさんの見物人が来るほどの名所になりました。

当時、時代劇は旧劇、現代劇は新劇と呼ばれていたんですが、向島では、現代劇、新劇が撮影されていました。当然ながらサイレント、無声映画なんですが、最初の頃は女優がいませんでした。歌舞伎の伝統を受け継ぎ、すべて女形が勤めていたんです。後の名監督、衣笠貞之助も、女形として撮影に加わっていました。本格的な撮影所といっても、少ない人数で製作していたようですね。監督から製作スタッフ、主役から通行人役の俳優まで入れて50名に満たなかった、と当時を知る人の思い出話にあります。その分、まとまりがよく、雨でロケーションが中止になると、スタッフ総出で背景の海岸線の絵を描いて間に合わせ、スタジオで撮影を済ませていたそうです。まさに臨機応変。熱気のこもった現場だった、と記録に残っています。

当時、どうやって撮影していたかと申しますと、無声映画ですから、撮影の時に音を気にする必要はなかったんです。本番の最中、監督が大声で演技に注文をつけるなど当たり前。撮影の途中でフィルムがなくなると、監督が「待った!」と声をかけるんですね。俳優はそのままのポーズで動かずにいるんです。カメラマンが、手早く、といっても5分ほどかけて、フイルムを交換します。すると、再び監督が「よし!」なり「はい!」なり声をかけて撮影が再開されたんだそうです。撮影所からロケ現場に行く時は、メーキャップを終えた出演者が、オープンカーで出発したそうです。そんな様子が話題になり、映画の宣伝にもなった、と言います。

日活向島撮影所に、突然、最後の時が訪れました。1923(大正12)年9月1日。東京を襲った大地震、関東大震災によって、日活向島撮影所は大被害を受けました。東京名物になっていたガラスステージは崩れ落ち、撮影所は閉鎖され、映画製作は京都に移されました。完成から閉鎖までの12年間に作られた映画は、およそ760本といわれます。かつて東洋一とうたわれた日活向島撮影所があった場所は、現在、小学校になっています。東京都墨田区立堤小学校。日本初の本格的な撮影所がここにあったことを知る人は、地元でも少ないようです。



10月24日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「松竹蒲田撮影所」をご紹介します。

興行の大手、松竹が映画製作に乗り出したのは、1920(大正9)年のこと。本場ハリウッドの技術を取り入れて、本格的に映画製作をはじめたんですね。従来の常識を超えた、大きな撮影所を作ることになり、現在の大田区蒲田、当時の呼び方で東京府荏原郡蒲田村に、およそ9000坪の用地を確保しました。こうして誕生した撮影所は、新しい産業である映画を目指す若者たちの憧れになり、「キネマの都」とも「虹の都」とも呼ばれました。

活気にあふれた撮影所では、新しい試みが取り入れられ、多くのスターが生まれました。日本映画の女優第一号・栗島すみ子、田中絹代などが人気を集めました。蒲田撮影所で生み出される作品には、決まったカラーがあり、何気ない日常の生活を、明るく、さりげなく描くもので、「蒲田調」後に大船に移ってからは「大船調」といわれた路線が続いていました。質の高い映画づくりを目指す…これが松竹の方針だったんです。

昭和初期、映画業界は大きな試練に見舞われました。それまでは、音のないサイレント映画の時代が長く続いていたのですが、音のついたトーキーの時代が迫ってきたのです。蒲田撮影所では、日本初のトーキーが製作されました。監督五所平之助、主演は田中絹代と渡辺篤、「マダムと女房」、1931年(昭和6)年のことでした。
トーキーの普及は、蒲田撮影所の運命を変えました。サイレントの時代であれば十分だった設備が、機能しなくなったのです。当時の蒲田、大小の工場が多く、騒音がしていたんですが、当然、録音作業にも支障がでますよね。昭和9年には、神奈川県大船に移転することが決まり、昭和11年1月蒲田撮影所は閉鎖されました。蒲田撮影所で16年間に作られた映画、およそ1200本。

現在、撮影所跡は再開発され、「アロマスクエア街区」となっています。その一角にある大田区民ホール「アプリコ」の地下1階ロビーに、かつての「シネマの都」の模型、ジオラマが置かれています。また、アプリコ前の公園には、かつての撮影所正門前に架かっていた松竹橋を模した橋があります。実は、これは撮影所が移転して50年を記念して作られた映画「シネマの天地」の撮影で使われたものなんですね。
蒲田撮影所跡は、田駅東口から徒歩5分です。その蒲田駅の発車合図に使われているのが、アメリカで作曲され、蒲田撮影所で昭和4年に作られた映画「親父とその子」として使われ、ヒットした曲です。運動会や式典で使われ、撮影所のテーマ曲として使われていたそうです。昭和57年に、蒲田撮影所オープン50周年を記念して作られた「蒲田行進曲」で使われ、またまた大ヒット。まさに蒲田を象徴する曲として現在も使われているんです。



10月25日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「東宝撮影所」をご紹介します。

北多摩郡砧村。ここに撮影所が作られたのは、1933(昭和8)年のことでした。8年前に成城学園が移転してきてから、学園の街として発展してきましたが、東宝撮影所がつくられ、監督や俳優など映画関係者がたくさん移り住んだことで、さらに文化的でお洒落な街になりました。ライバル松竹に対抗するため、最新設備の撮影所を作るという意気込みが満ちていて、前代未聞…とまで言われたぜいたくな造りでした。2万4千坪の敷地を使い、たくさんのステージと、最新の技術使ったスタジオが作られました。

当時からはるか後にいたるまで、撮影所の付近には自然が残され、数多くの不朽の名作も、そんな環境の中で作られていました。黒澤明監督の名作「七人の侍」のクライマックスの戦闘シーンは、現在は団地になっている空き地にオープンセットを組んで撮影されたんですよ。撮影所の中を流れる仙川(せんかわ)は、画面に登場していますし、あの映画の雨のシーンは川の水をくみ上げて撮影した、と伺いました。

戦後、この砧の東宝撮影所で、たくさんの人気作品が作られました。社長シリーズ、駅前シリーズ、若大将シリーズ、無責任シリーズ…。多くのスターが休みなく働き、1000名を越すスタッフが、あわただしく行きかっていたんです。そうそう、この大スターも、忘れてはいけませんね。ゴジラをはじめ、円谷英二が生み出した数々の怪獣、世界に知られた特殊撮影技術も東宝撮影所の宝でした。怪獣が暴れまわり、精巧に作られた模型の連合艦隊が走り回った巨大なプールを覚えていらっしゃる方も多いことでしょう。

日本映画が下火になった1971年には、東宝スタジオと名を変え、映画やテレビそれにコマーシャルの製作を行う貸しスタジオになりました。東宝スタジオでは、今でもスタジオの空きがないほど活発に製作が続けられています。これまでにこの撮影所で作られた映画、東宝だけで1300本。貸しスタジオになってからの製作本数は1200本になります。残念ながら、広さ4000平方メートルといわれた巨大プールは埋め立てられ、新しいスタジオに生まれ変わっています。コンピュータグラフィック技術の進歩で、本物の水がなくても撮影できるようになったためだと伺いました。



10月26日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「松竹大船撮影所」をご紹介します。

蒲田の撮影所が手狭になってしまったため、移転先を懸命に探したところ、格好な話が浮かんできました。神奈川県の大船町から打診があり、なんと9万坪もの用地が確保できました。そのうち3万坪に撮影所を建設、残り6万坪は、住地として販売することになりました。
1935(昭和10)年1月16日、およそ40台の乗用車やバスを連ねて、蒲田から完成した大船撮影所への引越しが盛大に行われました。「東洋のハリウッド」と呼ばれたほど素晴らしい施設で、最新設備の中で、スターも、文字通り、星の数ほどあらわれました。田中絹代・高峰三枝子・上原謙・佐野周二…。戦争が激しくなるまでは、毎年およそ50本ほどの作品が作られていました。

戦前の大ヒットといえば、レコードの売り上げ120万枚という記録を打ちたてた「愛染かつら」でした。美空ひばりの映画デビューとなった「悲しき口笛」。その後も、「君の名は」「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾年月」など多くのヒット作を連発、大船調といわれた名作を次々に送りだしていきました。
監督も俳優も錚々たる顔ぶれでした。小津安二郎、木下恵介、渋谷実…。原節子、高峰秀子、笠智衆、佐田啓二、岸恵子、岡田茉莉子…。撮影所の活気は大船の町にも大きく貢献したんです。撮影所の近くには監督や俳優が利用した店が多く、1922年創業の蕎麦屋「浅野屋」、撮影所がオープンした1936年に営業を始めた、洋食の「ミカサ」などは、監督や主要スタッフ、俳優さんが気軽に利用した店でした。

しかし、1960年代後半から、映画業界は極端な不振におちいっていきます。松竹も例外ではなく、次第に製作本数も減っていきます。そんな中で、山田洋次監督、寅さんこと渥美清のコンビによる「男はつらいよ」は大健闘。ギネスブックに取り上げられたほどの寿命の長いシリーズになり、48作まで続きました。

撮影所が閉鎖されたのは、2000(平成12)年のこと。巨匠や名優、多くのスタッフが映画づくりに全力を傾けた撮影所は取り壊され、2003年4月、鎌倉女子大学が開校しました。65年間に大船撮影所で作られた映画は、およそ1500本。敷地の一部は公園になっていて、メモリアルタイル壁画が残されています。壁画には、松竹映画を担った二人のスター、渥美清と美空ひばりの姿が、栄光の日々をとどめているのです。



10月27日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「日活撮影所」をご紹介します。

戦争中は配給だけを行っていた日活が政映画製作を再開したのは、1954(昭和29)年のことでした。製作スタッフも出演者も不足していたため、他社からの引き抜きも行って製作にこぎつけたんです。新しい撮影所が作られたのは、北多摩郡調布町下布田、現在の調布市でした。およそ9000坪の敷地に、最新の設備を用意、「白亜の殿堂」と呼ばれるほどの印象的な建物で、周りは田んぼと畑ばかり、すぐそばを多摩川が流れるのどかな環境でした。

「警察日記」「ビルマの竪琴」「幕末太陽伝」など、後々までも高く評価されている作品を送り出したんですが、どうにもヒット作がないんですね。スタッフは困ったそうです。そんな心配を吹き飛ばしたのが、一人の新人「石原裕次郎」でした。アッと言う間に主役の座を獲得、「嵐を呼ぶ男」で人気を不動のものにしました。低迷していた日活は、たちまち首位に躍り出ました。勢いは続きます。小林旭、赤木圭一郎、宍戸錠なども人気を集め、北原三枝、芦川いずみ、浅丘ルリ子、吉永小百合など女優陣も充実していました。当時を知る方に伺ったんですが、日活撮影所というのは独特な明るい雰囲気だったようですね。大スターもエキストラもアルバイトも同じ食堂で昼休みを過ごし、近くの多摩川の土手で駄話しをしたり昼寝をしたそうです。当時の、自由で楽しい現場を懐かしむスタッフは多いんです。

わが国の映画人口のピークは1958(昭和33)年。なんと11億人を超えたんです。日本映画の黄金時代でした。しかし、その後は急降下。日活は、1971年にいったん製作を停止。映画製作再開から17年間で生み出された作品は、およそ1100本といわれます。その後、ロマンポルノに路線を変更し成功しますが、やがて下火となり、打ち切られました。
京王線布田(ふだ)駅から歩いて10分ほど、多摩川のほとりに日活撮影所があります。敷地は、だいぶ小さくなり、全盛期に銀座の街並みのオープンセットがあった場所は、今はマンションが建っています。でも、貸しスタジオでは活発に映画やテレビの撮影が行われています。来年は日活アクション50周年、さまざまな催しが予定されているようです。



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