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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
11月20日(月)〜11月24日(金)
今週のテーマは、「職人の技 東京の伝統工芸」
受け継がれてきた匠の技をご紹介します。

11月20日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「ガラスペン」をご紹介します。

台東区入谷。都内唯一のガラスペン職人・佐瀬勇(させ・いさむ)さんの自宅兼仕事場があります。つけペンの一種、ガラスペンは、日本人が考案したものなんで、1902年(明治35年)、風鈴職人だった佐々木定次郎(ささき・さだじろう)が考案しました。佐瀬さんの先代・米蔵さんは定次郎のもとで修業した後、明治の末に独立しました。佐瀬勇さんは、直系の三代目で、ガラスペンづくりを始めたのは50年ほど前、都内でただ一人のガラスペン職人として、100年以上の歴史があるガラスペンづくりの伝統を守っています。植物が水分を吸い上げる毛管現象というのがありますよね。あれを利用しているんです。八本の溝がインクを吸い上げて、ペン先に1回インクをつけると、葉書1枚は書けるそうです。

二代目までのガラスペンは、ペン先の部分だけがガラスで、実用本位のものでした。10年ほど前、佐瀬さんは新しい工夫をしてみました。ペン先だけでなく、全体をガラスで作り、握りの部分にはキレイな模様を入れ、見事な仕上がりになりました。「ひねりガラスペン」と名づけて売り出したところ、たちまち全国、いえいえ、世界中から注文が殺到しました。

佐瀬さんが1日に作れるガラスペンは、握りの部分の直径が9ミリから10ミリある一般的なもので、およそ10本ほど。バーナーを使った手作業ですし、大変な集中力が必要です。奥さんの初枝(はつえ)さん、お嬢さんの貴子(たかこ)さんと一家総出で仕上げ作業にかかっていますが、注文を受けた分を作るのが精一杯だそうです。佐瀬さんにお話を伺いました。

見事な工芸品でありながら、実用性も高い。キチンと手入れして大切にすれば長く使えるとあって、愛用者は多いんです。佐瀬さんの製品を何本も持っていて、使い分けているお客さんが世界中にいるんですね。ボールペンの普及やワープロ・パソコンの普及で生産量が大きく落ち込んだガラスペンですが、佐瀬さんの技から生み出される製品の人気は高まる一方です。残念ながら、原材料のガラスの不足と、購入希望が多く、現在は新しいオーダーを控えているそうです。



11月21日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「かざり簪(かんざし)」をご紹介します。

一番古い女性のアクセサリーといわれる簪。いろいろな種類があるんですが、金や銀など金属で作られた簪を、かざり簪と呼ばれています。かざり簪づくりの第一人者といわれているのが、三浦孝之(たかし)さんです。墨田区・本所吾妻橋にある三浦さんの自宅兼仕事場は、作業に使う道具や材料がきちんと整理されています。三浦さんは、簪つくりの家の四代目。初代、明治29年生まれの曽祖父が飾り職人になったのが明治の末といいます。デザインの道に進み、広告代理店に入り、パソコンを使った仕事をしていた三浦さんが、四代目を継ぐ決心をした切っ掛けは、何だったんでしょう?

昭和42年生まれ、現在39歳。これまでに「東京歴史探訪」でご紹介してまいりました職人さんの中で一番若いんです。かんざしは、すべて、注文を受けてから作り始めます。主なお得意様は、歌舞伎俳優さんと、日本舞踊の世界。床山さんという、和製コーディネーターというお立場の方を通じて注文が入ってくるんです。江戸時代、かんざしはぜいたくな品として、何度も取り締まりを受けました。そのような時に、「お奉行様、これは耳かきでございます。ほれ、この通り…」こう言い抜けるために、かんざしの上の部分は耳かきになっている…という説もあるそうなんですよ。

江戸時代には欠かせない品だった簪も、現在ではアクセサリーとして使われることはほとんどありません。でも、華やかな舞台で目にする機会は、まだまだ多いんです。嬉しいことに、最近着物が見直され、それとともに欠かせない小物として簪の需要も徐々に回復しているそうです。

作業の流れは、100年近く前の初代の頃と変わりません。下絵を描き、図柄の通りに材料の金属を「糸のこ」で切り出すんです。形を整え、模様を入れ、次第に立体的にしていき、仕上げた部品を溶接すれば、ほぼ出来上がり…といえば、簡単に聞こえますが、大変なお仕事です。 簪のほかに、帯止めや、金属製の根付けも作っているそうです。祭りが多く、いろいろな芸事が生活の中に生きている下町ならではの、職人の技なんですね。



11月22日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「和船」をご紹介します。

江戸は水の都だった、とは東京歴史探訪でもたびたび申し上げてまいりました。隅田川を中心にして、大小の川と縦横に張り巡らされた運河や掘割を、無数の船が活動していたんです。和船づくりの伝統は長く残っていまして、隅田川沿いだけでなく、羽田・葛西などでも盛んに作られていました。ところが、時代が昭和に入ると、次第に鉄製の船にとって代わられ、いまでは都内の船大工はたった一人になってしまいました。

墨田区江東橋。藤原一善(ふじわら・かずよし)さんの船富造船所があります。代々、船大工で藤原さんは三代目。78歳です。16歳の時から修業を始め、最初の船を作ったのが22歳の時でした。これまでに作った船、およそ200艘!昭和30年代に入ってからも、1年に8艘ほどの和船を作っていたそうですが、掘割の埋め立てが進み、東京湾の漁業が下火になると和船の需要は激減しました。このままではいけない、と考えた藤原さんは、長年の技術を生かして和船の模型作りを始めました。実物の20分の1、25分の1の大きさですが、材料も本物そのまま、見事な仕上がりなんですよ。

数年前に和船の注文があったそうなんですが、その時は材料の手配がつかず、やむなく断ってしまったそうなんです。藤原さんの和船づくりには、板を火であぶって冷やしながら曲げる技術や、のこぎりを使って板と板をぴったりと合わせる防水技術などが生かされています。既に、手に入れることが出来ない和船用の釘や、ご自身が山林まで出向いて選んだ木も、倉庫に置かれています。作業場には、のこぎり・かんな・のみなど製作に必要な道具が揃っていて、注文が来るのを待っているんです。ちなみに、お値段は、5メートルほどのもので、120万円です。手入れさえキチンとすれば、30年はもつそうですよ。



11月23日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。


11月24日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「和菓子作り」をご紹介します。

中央区銀座。歌舞伎座の裏手の小さな横丁に、中村良章(よしあき)さんの和菓子店があります。「木挽町よしや」。開店から6年ですが、たくさんのお馴染みさんがいるんですね。団子、どら焼きなどを中心に、ご主人が一人で作った和菓子を売っていますが、中村さんの菓子職人の技術と、遊び心が生かされています。最近、口コミで広がっているのが「創作練り菓子」。餡や寒天を使って、いろいろなものを作り上げるんですね。果物かご、寿司、天ぷらそばなどなど。お客様からいろいろな注文を受けているうちに、レパートリーが増えてしまったと、おっしゃいます。ご主人に伺ってみました。

ホームパーティなどのお土産に買っていかれる方が多いようですが、確かに、これは話題になるでしょうね。中村さんの30年の菓子職人としての経験は、当然ながら、どら焼きや団子にも生かされております。場所は銀座、お土産に持ち帰る方も多いんです。午後も早い時間に売り切れ…なんてことも多いんです。この店のどら焼きには、ひらがなの「よしや」の焼印が押されています。ひとつひとつ、ご主人が押すんです。

実は、このお店のどら焼きファンは、ご自分の焼印「マイ・焼印」をお持ちの方がいらっしゃるんです。あらかじめ焼印、例えば「邦丸」という焼印を作り、店が預かっているんですね。それで、注文主の焼印の入ったどら焼きが手に入る、というわけなんです。現在、40本ほど預かっているそうです。「よしや」のご主人は、実にマメな方でありまして、店が休みの日には、都内はもとより、各地で和菓子づくりの会の講師をつとめているんです。今年だけでも、すでに15回ほど、およそ600人の方に、和菓子つくりの楽しさを体験していただいたそうです。



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