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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
12月18日(月)〜12月22日(金)
今週のテーマは、「横浜はじめて物語」
歴史のある港町、横浜から始まったあれこれをご紹介します。

12月18日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「吹奏楽」をご紹介します。

吹奏楽といえば、パレードや運動会でおなじみですね。全日本吹奏楽連盟に伺ったところ、現在、小学校から大学そして社会人まで、およそ1万4千の団体がメンバーになっているそうです。すっかり日本に根付いている吹奏楽の始まりは、明治維新から間もない1869年(明治2)年、時の鹿児島藩主・島津忠義(ただよし)公が、鹿児島でイギリス軍軍楽隊の演奏を聞いたことが切っ掛けになりました。

 「これはいい。ぜひ、薩摩でも」

お殿様の命令で、翌年、外国の軍隊が駐屯している横浜に若手の武士およそ30人を派遣、吹奏楽の勉強をさせることになったんですね。薩摩藩洋楽伝習生と名づけられ、翌年、勉強のため横浜に向かいました。横浜では、山手の一角にある妙香寺(みょうこうじ)に泊まり込み、イギリス軍軍楽長フェントンの指導を受けることになりました。と言っても、始めの頃は、ある楽器といえば、太鼓とラッパだけでした。楽譜の勉強や、間に合わせの楽器で練習するうちに、注文した吹奏楽器がロンドンから到着。練習のピッチが上がったそうです。宿舎となった妙香寺の境内や隣の山手公園で猛練習を重ねた彼らは、「サツマ・バンド」として紹介され、1870年(明治3)年9月、初の演奏会を開くまでになりました。会場は、山手公園の野外音楽堂。フェントン隊長の指揮で、見事な演奏を披露、居留地の外国人や見物の日本人の拍手喝采を浴びた…と記録に残っています。

「サツマ・バンド」の伝統は海軍軍楽隊そして陸軍軍楽隊に受け継がれ、後に多くの音楽家を生み出しました。第二次大戦後は、アメリカ軍の軍楽隊の指導を受け、自衛隊をはじめ、警察・消防などでも吹奏楽のバンドが編成されました。現在では、春・夏の甲子園、四季を問わず全国で行われているお祭りやパレードに欠かせない存在になっているのは、皆様ご存知の通りです。

横浜中区にある本牧山妙香寺は、横浜でも有数のお寺です。境内の一画に「日本吹奏楽発祥の地」の石碑があるんですが、毎年10月10日、妙香寺の境内で、記念演奏会が開かれています。記念碑が建てられた平成元年に始まり、今年で18回目。今年の演奏会も、たくさんのお客様においでいただきました。



12月19日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「ビール」をご紹介します。

ビールは実に旨い飲み物ですね。横浜の居留地にいた外国人たちも、当然そう考えていたことでしょう。ところが、難問がありました。他の品物と共に、はるかヨーロッパやアメリカから運ばれてくるわけですから、遅れたり、思っただけの量が積まれていなかったりしたんですね。その結果、「品薄につき値上げ!」なんてことがよくあったそうです。このため、居留民の不満は爆発寸前でした。

 「このままでは不測の事態が起こらぬとも限らない。何とか日本でビールを作れないものだろうか?」

期待が高まる中、一人のアメリカ人が名乗りを上げました。ウイリアム・コープランド。横浜・山手の一角に質の良い水が湧き出している場所を発見、スプリングバレー・ブルワリーを開設、販売を始めたんです。1870年(明治3年)のことでした。

始めのうちは「日本製のビールなんか、飲めるもんか!」と言っていた外国人、一口のんで、その味にビックリしたといいます。横浜の水の旨さは、開国直後から船乗りに知られていました。水の良さが、美味しいビールを生み出したんですね。

 「日本のビールは旨い!」

外交官・商社マン、そして軍人。口コミであっという間に広がりました。たちまちのうちに愛飲者が増え、土地の名を取って「天沼(アマヌマ)ビヤ・ザケ」と呼ばれるようになったんです。始めのうち事業は順調伸びていましたが、次第に競争が激しくなり、やがてコープランドは醸造所を手放してしまいました。
事業を引き継いだ事業家は、ジャパン・ブルワリーと名を改め、新しいスタートを切りました。1885年(明治18年)のことでした。3年後、この会社が作ったブランドが「キリン」。そう、あのキリンビールは、コープランドの事業を受け継いだビール会社なんです。

横浜・山手の一角、小学校の隣りに小さな公園があります。ここがコープランドの醸造所があった場所で、「麒麟麦酒発祥の地」があり、前の通りはビアザケ通りと名づけられています。居留地の多くの外国人に愛されたビールに敬意を表したネーミングなんですね。事業を手放したコープランドは、その後、世界各地でさまざまな事業を試みましたが、やがて横浜に戻ってきました。現在は、日本人の奥さんと共に、山手にある横浜外国人墓地に眠っています。



12月20日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「新聞」をご紹介します。

開国から急成長をとげた横浜。外交官や商人は、新聞によって、世界や母国の情報を得ていました。船で大幅に送られてくる新聞は、奪い合いになるほどの人気だったそうですし、早い時期に、英語やフランスなどの新聞も発行されていました。ところが、日本語はというと大変に遅れていたんです。よくて週に1度の発行、大事な情報がなくては、商売もままならなかったことでしょう。

外国語が得意な方は良いですが、そうでない人には不便で堪らない。期待されていたものが登場したのは、明治3年12月8日。西暦では1871年1月28日になります。県令、現在の県知事や有力商人たちが協力して、初の日本語の日刊新聞が横浜で発行されました。それが、横浜毎日新聞です。

どんな新聞だったんでしょうか?
現在のB4サイズほどの紙、ぺラ1枚に両面印刷したものなんですね。鉛の活字を使い、洋紙、西洋の紙に印刷した画期的な出来栄えの新聞でした。そんなもので役に立ったのか? ですって。発刊の辞、というものがございまして、貿易港のある横浜にふさわしく、世界貿易の基本を見極め、商人たちの役に立ちたい…とあります。とは言っても、貿易品の紹介や為替の情報のほかにも、横浜で起きた火事や、海外のニュースも載せているんです。

驚かされるのは、創刊号に広告が載っていることです。有力船会社が、1面に競って広告を載せているのは、当時の英字新聞の紙面づくりを真似しているんだそうです。この横浜毎日新聞、現在まで続いているサービスが既に始まっていることがわかります。それは「戸別配達」。毎朝、契約者の自宅に配達するやり方は、120年以上前に始まっていたんですね。初の日刊新聞は、8年後には東京に移転、その後、いくたびか名前を変えて1940年(昭和15年)まで続きました。なお、現在の毎日新聞とは無関係だそうです。



12月21日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「テニス」をご紹介します。

現在、日本のテニス人口は840万人といわれています。最初のテニスコートは山手公園に作られました。横浜開港を機に、横浜の海に面した関内のあたりは貿易や政治の中心として賑わい、港を一望できる高台、山手には各国の軍隊が駐屯したり、居留民が住居を構えていました。新興の街の常として、遊びの場が少なかったんですね。一日も早く、楽しいレクリエーションの場を設けてほしい…こんな要望が明治政府に寄せられました。

山手には既に、外国人の要望に応えて、西洋式の公園、山手公園が出来ていました。そこで、公園の一角に5面のテニスコートを作ることになったんです。完成したのは、1876年(明治9年)といいますから、あの西郷隆盛の西南戦争の前の年にあたります。その後、現在の横浜・インターナショナル・テニス・クラブの前身の団体が作られ、横浜における外国人の社交場として利用されました。

現在、公園の一画に「日本庭球発祥の地」という石碑がありますが、近くにある「テニス発祥記念館」では珍しい展示品を見ることが出来ます。完成当時の芝コートを手入れしている係員の写真があり、大きな帽子をかぶっていて、どうやら、日本庭園が専門の庭師が芝の手入れをしていたようです。クラシックなラケットやボールも展示されていますが、いかにも19世紀というテニスウエアの写真も一見の価値ありです。テニスコートのあたりを歩いていると、思いがけない近さで港の汽笛が聞こえてくるほど静かな一帯なんです。120年前には、居留民たちの優雅なクラブとして、午後のひと時を楽しむ人々でにぎわいをみせていたことでしょう。

外国人が楽しんでいたテニスは、次第に学生などから広がり、始めは軟式テニスが全国に広まり、大正時代には硬式テニスも広まったんです。テニスの普及には、フェリスをはじめとする、山手の学校の女学生が大いに貢献した…という説がありますが、残っている資料からみても、これは正しいようです。全国に先駆けて、横浜に本格的なテニスコートが作られてから、今年で130年周年を迎えました。



12月22日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「野球」をご紹介します。

野球発祥の地はアメリカですが、飛行機がなかった時代は、新しい文化はどれも港から広まっていったんです。野球もそうでした。キューバがそうですし、日本もそうでした。諸説ある中で、わが国で最初に野球の試合が行われたのが横浜、というのは定説になっています。

1875年(明治8年)9月30日。横浜港に停泊していたコロラド号の乗り組員チームと、居留民チームが対戦。結果は14対11で、コロラド号の勝ちというゲームでした。試合が行われたのは、横浜公園。現在、横浜スタジアムになっているあたりですね。外国人の運動場として埋め立て工事が進んでいた途中だったようで、グラウンドコンディションは悪かったようです。この日本発の野球の国際試合の観客は、およそ500名といわれ、そのおよそ半数は日本人だったと記録に残されています。これまで見たこともない新しい遊び、見物した日本人の眼には、どう映ったことでしょう。

試合が行われた場所ですが、現在、横浜スタジアムがあるになっているあたりと言われています。記念すべき試合が行われた後、横浜公園球場が作られ、関東大震災の後には収容人員1万5千人という本格的な球場、横浜公園球場として生まれ変わりました。野球に詳しい方ならご存知の、ベーブ・ルースやゲーリックといった伝説的なメンバーを含むメジャーリーグ選抜の試合も行われています。太平洋戦争が終わると、アメリカ軍に接収され、「ルー・ゲーリック・スタジアム」と呼ばれていました。この時期に、わが国初のナイターも行われているんですね。7年後に返還されると、今度は「横浜公園平和野球場」となりました。やがて、老朽化が目立つようになり、大きな改修工事が必要とされ、1978年に現在の横浜スタジアムが完成したんです。

乗組員チームと居留民チームが対戦した時から、実に100年以上の年月が過ぎていました。横浜は、本当に野球と深い関わりがある土地なんです。あらゆる新しいものを運んできたのは港。横浜港は、2009年に開港150年を迎えます。横浜市では、大きな祝賀の催しを企画しているようです。



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