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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
5月7日(月)〜5月11日(金)
今週のテーマは、「横浜 名曲ものがたり」
ご当地ソング・・・というものがございます。ところが・・・、どうやら音楽にしやすい土地と、そうでないところがあるようなんです。
昔から数々の名曲が生まれた場所といえば、はい、横浜でございます。

横浜をご紹介してまいります。

5月7日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「別れのブルース」をご紹介します。

今年、生誕100周年を迎える淡谷のり子さん。
淡谷さんといえば、この曲を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
「別れのブルース」。
今年、生誕100周年を迎える淡谷のり子さんの代表作でございます。1937年(昭和12)、戦争の気配が濃くなってきた時代、作詞・藤浦洸、作曲・服部良一のコンビが作り出しました。当時、まだ、ブルースと言う言葉は一般に知られておりませんで、レコード会社は、タイトルを「別れのうた」とするように頼み込んだ・・・という話が伝わっております。今では、戦前の横浜を代表する歌になっていますが、意外なことに、はじめのうちは話題にならなかったんです。横浜と並ぶ国際港である神戸港にも、「メリケン波止場」という名がありまして、まず一足先に神戸から流行りはじめ、やがて全国的なヒットになりました。
この曲には、秘められたエピソードがございます。実は、この曲、最初は「本牧ブルース」というタイトルになっていたんだそうです。港町につきものだった哀しい女たちをうたった歌です。作曲を依頼された服部良一は、わざわざ本牧に泊まりこんで曲を書き上げたんです。
淡谷のり子は、音楽学校でクラシックを学び、ソプラノ歌手として高く評価されていたんですが、後に流行歌手に転向しました。当時、わが国のシャンソン歌手第一号となるなど、実績を残していたんです。
やがて「ブルースの女王」と呼ばれるようになる切っ掛けが、この曲でした。この曲がヒットしたのが昭和12年。この年、日本は長い戦争の時代に入り、横浜港の平和なひと時は終わりに近づきます。
別れのブルースは、「昭和モダン」といわれた時代の最後を飾る歌でもあったんです。
豪華客船が出入りしていた横浜港の大桟橋は、次第に軍事物資を運ぶ輸送船が増えてゆき、やがて太平洋戦争が始まります。昭和20年5月、横浜は大規模な空襲を受け、終戦後は、長い占領時代が続くんです。
そんな苦難の時代を予言するような、「華やかで、切なく」「明るくて、暗い」ブルースが流行したんですが、先駆けとなった淡谷のり子は、「ブルースの女王」と呼ばれるようになりました。

5月8日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「憧れのハワイ航路」をご紹介します。

太平洋戦争が終わると、横浜にも米軍の大部隊が進駐してきました。なかでも横浜港は、施設全体の90パーセントほどが接収され、ほとんど機能が停止してしまいます。そして、3年が経過。1948年(昭和23)。相変わらず生活の不安がつきまとう人々の耳に、明るい歌声が聞こえてきました。
「憧れのハワイ航路」、作詞・石本美由紀、作曲・江口夜詩、歌ったのは、そう、岡晴夫です。
この当時の暗い世の中に差し込んだ一筋の光、そんな表現がピッタリな、それはそれは明るい歌だったんです。
当時、日本人の海外渡航は禁止されていて、ハワイ旅行などは夢のまた夢でした。
では、ハワイまでの船旅は、どの程度の費用がかかったのか? 戦前の資料を探してみました。 横浜の海岸通りにある日本郵船歴史博物館に、1941年(昭和16)の資料が保存されております。これによりますと、横浜からハワイのホノルルまで、1等船室利用ですと、当時の金額でおよそ1100円、2等船室でおよそ700円でございました。
当時の大学卒の銀行員の初任給が、70円から75円でしたから、本当に贅沢で、憧れる「ハワイ旅行」だったんです。
終戦後、横浜〜ホノルル〜サンフランシスコ、といった太平洋航路には、アメリカン・プレジデント・ライン、APLという船会社が就航していました。アメリカの歴代の大統領の名前をつけた真っ白い船が定期就航していて、7日か8日でホノルルに着きました。行きたくても行けない。食べるものにも事欠くなか、「憧れのハワイ」に向けて港を出て行く白い豪華船は、まぶしく見えたことでしょう。
敗戦の混乱から回復していない世の中で、岡晴夫の若々しく明るい歌声と、マーチを思わせる軽快なメロディは、複雑な思いと共に、大ヒットしたんです。
日本が独立を果たした後も、海外旅行には制限が加えられていて、完全に自由化されたのは、はるか後の1964年、東京オリンピックの年、のことでした。自由化された海外旅行、日本人観光客が目指した場所は、そう、ハワイでした。
近年、豪華客船によるクルーズの人気が高まっていますね。2002年に完成した、横浜港大さん橋客船ターミナル、通称・大桟橋には時々、豪華客船が入港します。一段と大きくなった客船を見て、あの歌を思い出す方もいらっしゃるのでは?

5月9日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「港町十三番地」をご紹介します。

「港町十三番地」は、517曲におよぶ美空ひばりオリジナル曲のなかでも人気が高く、ひばりさんご自身もお好きだった曲なんです。作詞・石本美由紀、作曲・上原げんと、1957年(昭和32年)のヒット曲です。
終戦後、長く接収されていた横浜港の施設が次第に返還され、平和が戻って経済が成長を取り戻した時代の歌です。波止場そして港町の独特の雰囲気がよく感じられる歌詞ですが、作詞家の石本美由紀さんは、横浜に住んでいて、ハマッ子のひばりさんとは相通じるものがあったようです。
実は、この歌は横浜ではなく、川崎の港を歌ったものだ・・・という説もあるんですが、やはり、港・ヨコハマが似合うように思います。歌詞にございます、銀杏並木の通り、波止場通りならぬ海岸通りがあり、「マドロス酒場」の雰囲気を持った店は、いまも大桟橋近くに見られます。曲が作られた当時は、歌詞そのままの風景が色濃く残っていたことでしょう。
こんなことを話してくれた方がいます。「港町十三番地」は、すべての港町、すべての船乗りさんへの「応援歌」だっていうんです。なるほど、これならば、どなたもご納得いただけることでしょう。
ところで、現在の船による貨物輸送は、この歌が作られた頃とは全く変わってしまっています。コンテナ輸送が主流になり、積み上げ・積み下ろしの時間は短くなったんです。また、横浜港が拡張・整備されると共に、以前は大桟橋でも貨物船を見かけたんですが、現在では本牧などに大きなコンテナ基地が出来ているんです。
昔のように、仲間が連れ立って苦労を忘れる酒を飲む・・・という機会は減っているのかも知れませんね。それにしても、発表から今年で50年になるのですが、古びるどころか、変わらず親しまれているんです。
数あるマドロスものの代表曲として、現在でも、多くの歌手がコンサートでレパートリーに加えているんですね。まさに名曲・・・でございます。
現在の横浜港、みなとみらい地区から山下公園まで、見違えるほど整備が進んでいます。でも、まだまだ「港町十三番地」にうたわれている風景も残っています。古くて新しい港町・横浜、本当に魅力的な町なんです。

5月10日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「ブルー・ライト・ヨコハマ」をご紹介します。

1968年(昭和43)12月25日、1枚のレコードが発売されました。翌年に大ヒット、ヨコハマのご当地ソングの代表曲になりました。その曲は・・・。
いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」

当時20歳だった、いしだ・あゆみが歌った「ブルー・ライト・ヨコハマ」でございます。作詞・橋本淳、作曲・筒美京平。函館・神戸・長崎などと並んで、定評がございました夜景の美しさを、曲にしたんです。作詞家・橋本純さんは、海から、そして丘の上から見たヨコハマの夜景の美しさを「ブルー・ライト」という言葉で表したそうです。
1960年代後半、横浜港では大きな変化が起きていました。華やかだった太平洋航路の客船が航空機に客を奪われて下火になり、就航を打ち切りが続いていました。海外旅行が大ブームになっていた時代なんです。
一方、貨物の取り扱い量はと申しますと、経済成長と共に、輸入も輸出も急増していて、新しい施設も作られていました。客船が減り、貨物船やタンカーの動きが活発になると、以前には港で見られた、「別れ」や「再会」といった人間くさい場面が減っていたんです。
そんな時代に、新鮮な言葉で港の魅力をアピールする歌が大ヒットしたんですから、地元・ヨコハマにとっては頼もしい援軍になったんです。考えてみますと、それまでの歌のタイトルは、「横浜」は漢字で表されることが多かったんですが、この歌のあとは、カタカナのタイトルが増えました。
全国的に夜景が有名になった横浜ですが、当時は、まだ「みなとみらい地区」もなければ、横浜ベイ・ブリッジもない時代です。それでも、後になって作詞者が「宝石箱をひっくり返したような・・・」と表現したような、幻想的な灯りを楽しむことが出来たんですね。
現在、横浜の夜景スポットはたくさんあるんですが、これぞ絶景というビューポイントを確認してまいりました。その場所は・・・大桟橋。大桟橋客船ターミナルの屋上は、芝生とウッドデッキで出来ておりまして、360度の眺めが楽しめるようになっています。みなとみらい地区の高層ビルや、ホテル、そして観覧車の照明。停泊している船の灯りまで、楽しめます。
最近は、横浜の貴重な文化財でありますクラシック建築もライトアップされておりまして、高層ビルとは違った、魅力のある景観を作り出しているんです。40年ほどたった現在でも、横浜と聞いて思い出す曲は? という問いに対しては、この曲が断然1位だと伺いました。

5月11日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「伊勢佐木町ブルース」をご紹介します。

横浜の繁華街といえば、明治時代から昭和40年代まで、伊勢佐木町商店街でした。古くは、横浜開港直後の時代にさかのぼるほどの歴史がある繁華街なんです。昭和初期には、商店・百貨店・劇場そして映画館と、横浜の代表的な繁華街として、銀ブラならぬ伊勢ブラという言葉があったほどなんです。
ところが、関東大震災で壊滅的な被害を受け、復興して再び繁盛したのもつかの間、太平洋戦争末期には米軍の空襲によって再び壊滅。戦後は、焼け残った施設が米軍に接収されたために復興が大きく遅れてしまったんです。その間に、横浜駅周辺や元町などの繁華街が力をつけることになりました。
地盤沈下がささやかれていた時期、1968年(昭和43)、格好の応援歌が生まれました。 歌ったのは、2年前に「恍惚のブルース」でデビューした青江三奈。作詞・川内康範、作曲・鈴木庸一の作品でした。発売されたのは冬、青江三奈は発売キャンペーンで伊勢佐木町を訪れ、寒い中を一軒一軒挨拶に回った・・・というエピソードが残されています。関係者の熱意も加わって、この新曲はたちまちミリオンセラー。青江三奈は、この年の日本レコード大賞歌唱賞を獲得しました。
それまでも、伊勢佐木町は、銀座と並ぶ繁華街として知られていましたが、この歌のヒットによって、全国区の繁華街として知られるようになりました。
大スターになった、青江さんは、後々まで、
「私は横浜で育った歌手です」
言っていたそうで、地元の商店街の皆さんの感謝の気持ちも変わることがありませんでした。
青江さんは、2000年の7月になくなりました。その一周忌にあたった2001年(平成13年)7月、「伊勢佐木町ブルース歌碑」が、商店街に建てられました。グランドピアノをかたどった立派な歌碑で、歌碑についたボタンを押すと、あの、ご当地ソングの決定版を1分間聴くことが出来ます。また、歌碑の裏側には、「横浜にちなんだ二十世紀の50曲」が刻まれているんですが、今週お届けした曲は、すべて含まれています。
 全長1.2キロ余りの伊勢佐木町の商店街、次の変化に備えて、新しい動きに取り組みはじめているんです。
曲名や歌詞に「横浜」が登場したり、明らかに横浜をイメージした曲は、確認できるだけでも、これまでに、およそ450曲。実際には、もっと多いことでしょうし、毎年のように新しい歌が生み出されています。
再来年、2009年には開港150周年を迎える横浜、たくさんの人々を引き付けてきたこの街の魅力は、ますます増していくことでしょう。

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