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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
5月14日(月)〜5月18日(金)
今週のテーマは、「六大学野球事始め」
ハンカチ王子、斎藤佑樹投手の早稲田大学入学で、にわかに注目を集めている東京六大学野球。
ワセダのゲームが行われる日は、ここ何年も見られなかった大観衆で神宮球場が賑わっています。
そこで本日から五日間は、この、日本最古の野球リーグ戦の、そもそもの歴史を振り返ってみようと思います。

5月14日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「六大学野球事始め」をご紹介します。

学生たちの華やかな応援で賑わう神宮球場。
今週末は、いよいよ早稲田と明治の二強が激突することもあり、さらにヴォルテージの上がった応援風景が見られそうです。
さて、この東京六大学野球、リーグ戦が始まったのが、今から九十二年前の、1915年(大正14年)のこと…ではありますが。もちろん、慶應義塾、早稲田、明治、法政、立教、東京、この6つの大学が、せーの…で、一斉に野球を始めたワケではありません。いま、申し上げた6校の順番は、野球部が出来た古い順。そう、東京六大学で、最も歴史の古い野球部を持つのは、慶應義塾大学です。
そもそも、日本に野球が伝わったのが、1872年(明治5年)。慶應の学生たちが野球を始めたのは、それから十二年後の、明治十七年頃のこと。野球部の前身である「三田ベースボール倶楽部」が結成されるのは、さらに四年後の明治二十一年です。比較的早い段階から、このアメリカ生まれのゲームに親しんでいたわけですが、さて、当時の野球というのはどういうものだったか?ピッチャーは、バッターの要求する範囲に投げねばならず、そのゾーンに球が来なければ「ボール」となります。もっとも、今はフォアボールで出塁ですが、当時はナインボールで出塁。気が長かったんですね。また、今のような防具が発達していませんから、キャッチャーは基本的にバッターの遥か後ろで構え、ワンバウンドキャッチが当たり前。度胸のある選手が、バッターの直後でキャッチしようものなら、拍手喝采!現在のルールとなったのは、明治二十年代も半ばの事でした。
明治二十五年、体育会の発足と共に、晴れて公式の「野球部」となった慶應のチームは、当時の強豪とされた一高=旧制第一高等学校や、学習院、明治学院などと試合を重ね、実力をつけて行きました。
そして明治三十六年の十一月。この慶應義塾野球部に一通の書状が届きます。
「近日のうち御教示に預かり、以て大いに学ぶべき所あらば、 素志この上もなく候。貴部の御都合は如何に候」
生まれたばかりの新興、早稲田大学野球部からの挑戦状でした。
ここに百余年に渡る早慶戦の歴史が始まるわけですが、この続きは、また、明日。

5月15日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「早稲田、驚異のアメリカ遠征」をご紹介します。

慶應義塾に遅れること、およそ十年。
1901年(明治三十四年)に産声を挙げた早稲田野球部は、着々と実力を蓄え、二年後、明治三十六年の十一月、慶應義塾に挑戦状を送ります。そして記念すべき早慶の第一戦は、この年、十一月二十一日に行われたのであります。場所は、慶應のホームグラウンド、三田綱町球場。当時はまだ電車が通っていなかったので、早稲田の選手たちは完封吹きすさぶ中、戸塚村から四谷、赤坂、麻布を通って三田まで12キロの道のりを歩いて出かけました。当時、既に野球は人気スポーツとなっており、あまり広いとはいえない三田のグラウンドに、なんと三千人もの観衆が集まったといいます。大方の予想は、先輩格・慶應の圧勝でしたが、早稲田は健闘、最終的には11対9で慶應が辛うじて勝ちを拾いました。試合後、当時、恒例となっていた両チームの懇親会が開かれ、この席上で、以降、毎年、春と秋の二回、慶應義塾と早稲田の定期戦が行われることが決まりました。
そして迎えた明治三十七年。春・秋の早慶戦のほか、学習院、横浜外人倶楽部、そして当時最強と言われていた一高=旧制第一高等学校にも勝って、6戦全勝の成績を残した早稲田野球部。そのご褒美として翌年、アメリカ遠征を果たします。
アメリカでは、およそ四十日の間に二十六試合を行いましたが、なんと早稲田チームはピッチャーがエースの河野、ただ一人。来る日も来る日も一人で投げきって、十九敗したものの、七つも勝利を収めたというのですから、これはもう立派な物。現地では「アイアン・コーノ」と呼ばれ、大変な人気を集めたんだそうです。
さて、この遠征で早稲田は、さまざまな土産を持ち帰りました。たとえば、それまでは全員がミットを使っていたのを、キャッチャーとファースト以外はグラブを使うこと。脚にはスパイクをはくこと。また、技術面では、スクイズプレーや、スライディング。さらに、ピッチャーのワインドアップ・モーションも、初めて日本に紹介されることになりました。
そして、現在も六大学野球に残っている、「3回戦制」。ただ一度のゲームでは、マグレということもある。先に2勝した方が、本当に強い…というリーグ戦のやり方も、この時から。
さらに、「フレー! フレー!」という、組織だった応援の方法も、早稲田がアメリカから持ち帰ったものの一つでした。ところが翌年、この応援が暴走し、大変な事件を巻き起こすことになります。続きは、また、明日。

5月16日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「早慶戦中止!」をご紹介します。

1905年(明治三十八年)、日露戦争真っ最中の夏、勇躍アメリカ遠征を果たした早稲田大学は、満を持して秋のシーズンを迎えます。
洋行帰りのハイカラな早稲田を相手に、国内でひたすら鍛えた慶應義塾がどんなゲームを行うのか?野球好きにはたまりません。会場の早稲田・戸塚球場には、早朝から観衆が押し寄せます。今でこそ、早稲田は住宅や商店、工場が建て込んでおりますが、当時はグランドの周囲は見渡す限りの畑、また、畑。殺到する一万六千もの見物人に作物を踏み荒らされる農民は、たまったものではありません。「こっちさ、来るでねえ!」と激怒して、押し寄せる観衆に、ひしゃくで下肥のシャワーを浴びせたので、あたり一面には悪臭が立ちこめ、大変な騒ぎだったとか。
この秋の早慶戦は、初戦こそ慶應が意地で勝利したものの、二戦、三戦と早稲田が連勝。東京中の野球ファンが熱狂したのはもちろんですが、当事者たる慶應、早稲田の学生、さらには教員たちまでもが、興奮の極に達していました。三回戦で敗れた慶應の選手たちは、恒例の懇親会の席に、なかなか姿を現しません。不審に思った早稲田の関係者が慶應の更衣室を覗いてみると、ナインは、うつむいたまま、いつまでも涙にくれていたとか…。翌年、慶應野球部は、それまで以上の猛練習に明け暮れます。夏の合宿では、食事は制限された上、アルコール厳禁、練習後も角砂糖3つとビスケット5枚以上はダメ…という凄まじさ。それもこれも早稲田に勝ちたい一心でした。
運命の1906年(明治三十九年)、秋。戸塚球場で行われた第一戦で、慶應は見事に勝利。ところが、興奮した応援団の一部が、早稲田の創立者、大隈重信の家の前で「バンザイ」を繰り返したから大変です。この行為に激怒した早稲田の学生たちは、第二戦の時、大挙して三田へと押しかけて場内を占領します。ホームグラウンドの慶應の学生は隅に追いやられ、早稲田、早稲田の大シュプレヒコールの連続。応援の甲斐あってかこの試合は3対0で早稲田が勝ち、もちろん、早稲田の学生は福沢諭吉邸前でバンザイを連呼。
勝負は、第三回戦へと持ち越されました。応援はさらにヒートアップし、三回戦では早稲田の応援団長が、刀を抜き、馬に乗って敵地に乗り込むといった噂が。また武闘派のグループは竹槍を準備するなど物騒な動きもあり、最終的に決戦前日に、中止が決まってしまったのです。
両チームの選手も、応援団も、教授たちも、これは一時的なものだと思っていましたが、しかし、早慶戦は、これから実に十九年もの長い間、中止されてしまうのでした。続きはまた、明日。

5月17日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「明治大学奮戦」をご紹介します。

1906年(明治三十九年)、応援があまりに加熱したことから早慶戦は中止されてしまいました。もちろん、両校の野球部は活動を続けており、そのほかの大学チームなどと試合は行われていました。しかし、全ての野球ファンが待ち望む「早慶戦」は、様々な仲介者が再開をお膳立てしようとしても、どうしても復活を果たせないまま、時間は過ぎていきました。
この早慶戦空白の時代に頭角を現してきたのが、明治大学です。 明治の野球部がスタートしたのは、早慶戦中止の4年後、1910年(明治四十三年)のこと。この年5月、明治大学分校の有志が、三菱が原で、中央大学の有志と練習試合を行ったのが始まりです。三菱が原…というのは、現在の東京駅丸の内口付近のこと。もと軍隊が持っていた付近一帯の土地が、三菱財閥に払い下げられたのでこの名がつきました。当時は、東京駅の工事も始まったばかりで、見渡す限り、一面の草っ原だったんだそうです。ほんの百年前、いま、観光客でごった返す丸の内、丸ビル、新丸ビル界隈で、学生たちがのんびり、野球を楽しんでいたんですね!明治はその後、柏木、現在の東中野あたりにグランドを建設。ところがこの土地、もともとは大根畑で、地面は柔らかく、野球にはまったく向いていませんでした。一計を案じた監督が、近くの軍隊に、「うちのグランドで演習をやってください」と申し出ます。思いがけず、広い土地を提供された軍隊は大喜びで、走ったり、行進したりを繰り返したところ、地面はみるみるうちに踏み固められ、ようやく野球ができるようになりました。で、この球場で猛訓練を重ねた結果、明治は早慶に引けを取らない実力を身につけていくことになります。当時、明治大学が有望な選手を口説く時の殺し文句は、「早稲田に行っても慶應と戦えないけど、ウチに来れば両方とゲームができるよ」だったとか。
1913年(大正二年)早慶に明治を加え「三大学リーグ」がスタート。4年後に法政が加わって「四大学リーグ」となり、さらに4年後、今度は立教が加わり「五大学リーグ」に。しかし、これらは、リーグ戦とはいえ、早稲田と慶應だけは対戦しない、いびつな形のものでした。早慶が、再び相まみえるのは、一体いつになるのか、続きは、また、明日。

5月18日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「六大学勢ぞろい」をご紹介します。

1925年(大正十四年)、東京帝国大学、現在の東京大学が、慶應義塾、早稲田、明治、法政、そして立教の運営する「五大学リーグ」に加盟を申請します。当時、帝大に東という豪腕投手が入学し、ほかの5チームと対等の試合を戦えると評価されたため、申請は認められ、「六大学」がスタートすることになりました。
ただし、条件が一つ。もともと帝大の野球部はできたばかり。この東投手が卒業して戦力が落ちたら、あっさりと解散…ということにもなりかねない。何があろうとも、将来に渡って、野球部を運営し続けること。これが東京帝大に突きつけられた条件でしたが、そう、その約束を東大は八十年後の今日も守り続け、どんなに連敗が続こうと、リーグに参加し続けている訳です。
しかし、意外なこと…といっては失礼かもしれませんが、東京帝大は、最初のゲームに勝利を収めています。相手は、法政大学で、場所は、現在の西武新宿線、新井薬師駅前にあった「中野球場」。もちろん投げたのはエース・東で、スコアは4対1でした。帝大はこのシーズン、堂々4位に入りました。翌年、神宮球場が完成。建設費の一部を六大学野球連盟が負担したこともあって、現在に至るまで東京六大学が優先的に使用を許可されています。実は、明治神宮外苑の一画という特殊な場所に、この野球場を建設するにあたっては、東京帝大の政界人脈が、大いにモノをいった…そんな説もあるようです。
しかし、この大正十四年、秋のシーズンの最大のトピックは、十九年ぶりに行われた早慶戦でしょう。実は、早稲田は、かなり前から再開に前向きでしたが、慶應の一部評議員が、強硬に反対を続けていたのが、こんなにも空白が長くなってしまった原因でした。業を煮やした明治、法政が、慶應に向かって、「もし早慶戦再開に同意しなければ我々は脱退し、早稲田と共に新リーグを結成する」と、最後通牒を突きつけたのです。慌てた慶應の関係者は東奔西走、なんとか評議員会の了承を取りつけると、再開に同意。そして十月十九日、翌二十日、二万の大観衆を集め、復活早慶戦が賑々しく執り行われました。結果は、早稲田が11対0、7対1で連勝。その後、長く野球界随一の人気カードとなる「早慶戦」の、 新たな1ページが開かれたのです。

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