番組について
ONAIR REPORT
BACK NUMBER
  ◆最新の歴史探訪
◆過去の歴史探訪
   
PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
7月2日(月)〜7月9日(金)
今週のテーマは「トキワ荘物語」。
マンガの神様、手塚治虫が住んだことをきっかけに、藤子不二雄の二人、石森章太郎、赤塚不二夫ら、マンガ黄金時代を支える人材が集い、梁山泊とも言われた伝説のアパート、トキワ荘。
きょうから五日間、巨匠たちの若き日の物語をお送りして参ります。

7月2日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「トキワ荘事始め」をご紹介します。

ことし生誕七十年を迎えた美空ひばりさんの「お祭りマンボ」が聞こえてきました。この曲が大ヒットした昭和二十七年(1952年)暮、豊島区椎名町5丁目2253番地…現在の豊島区南長崎3丁目の一画で、二階建て木造モルタル建築の棟上げが行われました。後に「トキワ荘」と名付けられるこのアパート、おそらく翌・昭和二十八年の一月のうちには完成していたことでしょう。当時、豊島区は東京でもっとも人口密度の高い区であり、交通の便もよかったことから、地方から上京した若者向けに、数多くのアパートが建設されていました。トキワ荘も、そんなアパートの一つだったのです。
目白駅から目白通りを西へと向かい、山手通りを越えてしばらく行くと、道は二手に分かれます。真ん中に交番のあるこのY字路の右手の道を行くと、賑やかな商店街が左右に広がっており、そこから少し入ったあたりに、トキワ荘はありました。忙しくなって引っ越す手塚治虫の後を引き継ぎ、ここに入居することになった藤子不二雄青年の二人組に、先輩漫画家の寺田ヒロオが送った有名な手紙があります。その一節を、ご紹介しましょう。

「アパートの件。聞いて知っていると思いますが、敷金三万円、礼金三千円。部屋第一か月分前払いで、三千円が必要だと思います。僕のようにルーズにしていても、食費は月に四、五千円、ですから、二人ならば、六千円ぐらいだと思うんですが。それから毎月の部屋代が三千円、電灯・ガス・水道が五百円前後、そのほか新聞代などが五百円前後。食わずに寝ていてもこの四千円は毎月、必要です」

昭和三十年、藤子不二雄A青年の金銭出納帳によれば、毎月の平均収入がおよそ三千七百円ほど。本当に、カツカツの暮らしをしていたんですね。それでもマンガで身を立てるという青雲の志に燃える青年たちにとっては、実り多き日々だったようです。ここに、かつてのトキワ荘の映像があるのですが…昭和二十八年の始め頃、この新築アパートの完成と共に引っ越してきたのが、売れっ子漫画家・手塚治虫でした。

7月3日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「手塚治虫、来る」をご紹介します。

国産初のテレビまんが「鉄腕アトム」。原作は、言わずと知れたまんがの神様・手塚治虫です。
手塚治虫が、完成と同時にトキワ荘に入居したのが、昭和28年(1953年)早春のこと。そして、この「鉄腕アトム」の放映が始まったのが、奇しくもちょうど十年後の昭和38年・1月。この十年の間に、手塚は人気を不動のものとし、また自ら製作に乗り出した「鉄腕アトム」のテレビ版を大ヒットさせ、その名は全国津々浦々に知れ渡ることになっていきます。
昭和3年(1928年)、大阪に生まれた手塚は、大阪大学医学部在学中から次々と作品を発表し、昭和25年、雑誌「漫画少年」に連載を始めた「ジャングル大帝」でその名声を不動のものとします。そして昭和27年、医師国家試験に合格したのち、東京に拠点を移し、本格的な漫画家としてのキャリアをスタートさせます。
上京して最初に住んだのは、四谷の八百屋さんの2階でしたが、すぐに売れっ子となり、朝であろうと夜であろうと、いつも編集者がバタバタと出入りするようになる。これでは大家さんに迷惑がかかる、どこか独立した部屋に移ろう…ということになり、「漫画少年」の編集者が見つけてきたのが、新築アパート、「トキワ荘」だったというわけ。
それにしても、マスコミの寵児となった人間が引っ越すとしたら、今なら港区や世田谷区あたりが候補になるでしょうが、なぜ豊島区椎名町だったのでしょう。実はその頃、椎名町から練馬あたりにかけて、大物漫画家が数多く住んでおり、漫画家が住むなら西武池袋線沿線…という雰囲気があったんだそうです。
当時のトキワ荘について、手塚は、
「手を抜いた建築の代表的なもの。いちばんはずれの部屋に吹き込んだ風が、そのまま次の部屋から部屋へと隙間を縫って吹き抜け、いちばん反対側の部屋まで通り抜けようというお粗末な物」
…こんな風に改装しています。
昭和29年、トキワ荘に引っ越した翌年、手塚は「関西長者番付 画家の部」で1位となりました。
そこで「手塚とは何者じゃ?」とばかり、週刊誌が取材に訪れましたが、四畳半に机とフトンしかない、台所もトイレも共同の殺風景な部屋に戸惑い、「これが百万長者の部屋なのか?」と、目を白黒させていたんだそうです。

7月4日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「藤子不二雄のまんが道」をご紹介します。

「漫画家の梁山泊」とも呼ばれた、椎名町、現在の豊島区南長崎にあったアパート「トキワ荘」。
昭和28年、完成と同時に手塚治虫が入居。さらにこの年の暮れ、「スポーツマン金太郎」などで知られる寺田ヒロオが入居。手塚番の編集者や、また手塚を慕って訪れる若い漫画家たちで、この裏通りのアパートは賑わうようになります。
そして昭和29年10月。さすがに四畳半が手狭になった手塚は、トキワ荘を出て雑司が谷のアパートに引っ越すことになり、「僕の後に住んだらどう?」…と声をかけられ、早速引っ越してきたのが「藤子不二雄」…後の「藤子・F・不二雄」と「藤子不二雄A」、この名コンビでした。どちらかといえば、シャイな人間の多い漫画家の中で、藤子不二雄…とりわけ「A」、安孫子素雄は社交的。トキワ荘を舞台に連日連夜、漫画家たちの愉快な共同生活が繰り広げられたのも、彼ら二人が入居したことがきっかけとなったようです。
藤子不二雄の出世作となったのが、何といっても昭和三十九年から「少年サンデー」で連載が始まった、「オバケのQ太郎」。主人公、Qちゃんのほかにも、正ちゃん、ドロンパなど、数多くのキャラクターが登場しますが、中でもユニークなのは、いつでもラーメンを食べている髪がモジャモジャの男「小池さん」でしょう。
小池さんのモデルといわれているのが、やはりトキワ荘の住人だったアニメーターの鈴木伸一さん。そして、その「ラーメン」のモデルになったのが、トキワ荘から歩いて一分もかからない、商店街の中の中華料理店「松葉」というお店です。
漫画家たちの賑やかな青春時代から、半世紀以上の時が流れた今、トキワ荘は既になく、また当時の面影を伝えるお店もあらかた消え失せていますが、この「松葉」は健在。藤子不二雄Aの代表作である自伝漫画「まんが道」に、繰り返し登場することもあり、今も全国の漫画ファンにとって、欠かすことのできない「巡礼の地」となっています。そして、松葉の向かい側の路地には、商店街による「マンガの聖地 トキワ荘跡入口」という看板が立ち、雰囲気を盛り上げています。

7月5日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「天才少年 小野寺章太郎」をご紹介します。

昭和29年の秋、手塚治虫が引っ越した後に、藤子不二雄の二人組が引っ越してくると、トキワ荘は以前にも増して、若い漫画家たちの溜まり場になっていきました。
トキワ荘は2階建てでしたが、漫画家たちの部屋はすべて二階。階段を上がっていくと、廊下の右側、一番手前が共同便所、そしてその隣が共同の炊事場。その奥、廊下を挟んで右側に5部屋、左側に5部屋、全部で十の部屋がありましたが、全盛期には、そのほとんどが漫画家の住まいだったようです。
そして昭和31年の5月のこと。この2階に、新たに二人の若者が居を構えます。小野寺章太郎、後の石ノ森章太郎。そして赤塚不二夫。
後に、この「サイボーグ009」を始め、「左武と市捕物控」「仮面ライダー」「ホテル」など、数々の大ヒットを飛ばす石ノ森章太郎は、当時、まだ弱冠18歳。高校2年生で雑誌「漫画少年」にデビューを飾り、年齢に似合わない、おそろしくシャープな切れ味の漫画で、他の漫画家たちを唸らせていました。彼は当時、都会的でスマートなその作風から、さぞやカッコいい高校生なのだろう…と思われていましたが、実際にはジャガイモのような朴訥な青年だったため、あまりにもイメージが違う…と、編集者や仲間の漫画家たちを驚かせたようです。高校卒業後、本格的に上京。最初、トキワ荘に空き部屋がなかったため、すぐ近くの「二畳半」の下宿に住んでいましたが、ある時、しばらく音沙汰がないので、心配になった赤塚が部屋に行ってみると、中でウンウン唸って苦しんでいる。いったいどうしたのか…と様子を訪ねてみると、宮城から上京したばかりの石森少年は、どうも食べ物屋さんに一人で入るのに気後れがする。またマーケットに買い物に行くのもなんとなく恥ずかしい。当時の上京したての青年には、こういう人が多かったそうです。そこで、買い置きしてあったサラダを毎日食べていたのですが、冷蔵庫もありませんから、どんどん傷んでくる。それでも食べ続け、ついに腹を壊し、そして部屋にあったカルピスだけでなんとか命をつないでいた、というわけです。
これは見捨てておけない…と思った赤塚は、自分の下宿に石ノ森を連れていき、その後、二人一緒にトキワ荘に入居。自分より先に売れ始めた石ノ森のために、連日連夜、かいがいしく手料理を作り、栄養をつけさせていたんだそうです。

7月6日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「赤塚不二夫とトキワ荘時代の終焉」をご紹介します。

きのう、石ノ森章太郎の炊事係を、あの赤塚不二夫が務めていた…というお話をいたしましたが、トキワ荘には数々の「名物料理」がありました。その中の一つが、「キャベツの塩炒め」。赤塚の得意中の得意で、その名の通り、ただキャベツに塩を振って炒めるだけのシンプルな料理ですが、これが、ジンワリと、実に旨かったんだそうです。トキワ荘が解体される前に開かれた「同窓会」。この模様を記録したNHKの番組にも、八百屋さんでキャベツを楽しそうに品定めする赤塚の姿が記録されています。
一方、お酒でいえば「チューダー」ってのがあります。これは、やはりトキワ荘の住人だった、寺田ヒロオさんが考案したものだそうで、種明かしをすれば、「ショーチューのサイダー割り」、これを略して「チューダー」。味はともかく、安上がりで酔えるのが何よりのカクテルで、仲間うちで連載が決まった、単行本が出た…といった祝い事があると、決まってこれで乾杯したものなんだそうです。
宮城の天才少年、石ノ森が比較的早く売れたのに対し、アシスタント兼料理係を務めるハメになった赤塚不二夫は、なかなか芽が出ませんでした。一度はもう足を洗おうと決意し、西武新宿駅前の喫茶店で、自分にも勤まるだろうか…と、ボーイさんの働く姿を一日中眺めていた、そんなこともあったんだそうです。しかし、先輩、寺田ヒロオの励ましにより、もう一度がんばろう…と漫画家を続けていくことを決意。その後、少女漫画、そしてギャグ漫画へと活躍の舞台を移し、徐々に人気は高まっていきました。
赤塚は昭和三十六年、結婚のためトキワ荘から引っ越し、そして翌年から「少年サンデー」で連載が始まった、「おそ松くん」で大ブレイクを果たすことになります。この作品はテレビ化され、先ほど主題歌も流れていましたね。
同じ昭和36年、藤子不二雄の二人、そして石ノ森章太郎が引っ越してしまうと、トキワ荘の黄金時代は終わりを告げました。それは同時に、彼らの青春時代の終わりでもあったのです。赤塚たちが引っ越してからおよそ20年後、昭和62年に老朽化したトキワ荘は取り壊されます。その後建て替えられた新しいトキワ荘も今はなく、地元商店街が立てた看板で場所が推測できるだけ。
そして若い頃の無理がたたったのか、手塚治虫、藤子・F・不二夫、石ノ森章太郎は既に世を去り、赤塚不二夫もまた長く病の床にあります。
それでも彼らが青春時代を過ごした「トキワ荘」の思い出は、未来永劫、その輝きを失うことはないでしょう。

PAGETOP

サウンドオブマイスタートップページ くにまるワイド ごぜんさま〜 INAX JOQR 文化放送 1134kHz 音とイメージの世界 SOUND OF MASTER サウンド オブ マイスター