番組について
ONAIR REPORT
BACK NUMBER
  ◆最新の歴史探訪
◆過去の歴史探訪
   
PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
8月27日(月)〜8月31日(金)
今週のテーマは「富士山物語」。
日本一の高さを誇る霊峰・富士にまつわるさまざまなエピソードをご紹介して参ります。

8月27日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「富士山の歴史」をご紹介します。

新幹線の窓から見えれば誰もが身を乗り出し、また飛行機でもキレイに見えるとわざわざ機内放送で案内してくれる。日本人なら、誰でも、見るとホッとする、不思議な山、それが「富士山」ではないでしょうか。東京にも、あちこちに「富士見町」「富士見台」といった地名があって、その昔はさぞかし美しい風景が楽しめたんだろうなあ…と想像することが出来ます。しかし、今でこそゆったりとした雄大な風景が印象的なこの富士山ですが、歴史の上では何度も、荒々しい姿を見せたことがありました。
今から八万年ほど前、激しい爆発を繰り返していた富士山。関東平野、東京の地面を掘っていくと、「関東ローム層」という赤土があること、皆様ご存じかと思いますが、実はこの関東ローム層、この八万年前の噴火によって、富士山から飛んできた火山灰によってできたものなんです。富士山は、この後も縄文時代の終わり頃から、平安時代の終わりごろまで活発に動き続けます。歴史書に残っている記録で最古のものは781年。奈良時代の終わりごろ、平安遷都の直前ですね。この後、西暦一千年ごろまでは、富士山からは、ほぼ日常的に噴煙が上がっていたようで、およそ三十年おきに噴火が記録されています。で、その後しばらくは、おとなしくなるんですが、今からちょうど三百年前の江戸時代、1707年に、久々の大噴火。これが「宝永の大噴火」で、このときは江戸の市内にも大量の火山灰が降り積もり、昼間でも明かりが必要なほど薄暗くなってしまったそうです。またこの後長く、風が吹くたびに灰が舞い上がり、江戸の人々を咳き込ませ、苦しめたことが資料に残っています。火山学的には、まだまだ若い火山である富士山。いつの日にかまた、噴火することは確実とみられています。
富士山の観光スポットといえば、おなじみなのが「富士五湖」。皆様、五つ全部言えるでしょうか?山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖。いずれも富士山の溶岩流によってできた湖で、現在の姿になったのは平安時代のこと。我々、こうした大自然の前に出ると、昔から変わらぬ姿をしているように思いがちですが、まだ、たかだか千年ほどの歴史しかない風景なんですね。

8月28日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
富士山に、最初に登頂したのはいったい誰か?
いろいろな説がありまして、聖徳太子だという話もあります。ただし、証拠はありません。また、こんな説もあります。
聞こえてきたのは、山伏の吹くほら貝ですが、この山伏の元祖である役小角、別名・役行者が最初の登頂者である、そんな説もあります。もし初登頂が聖徳太子なら6世紀から7世紀ごろ、役行者なら7世紀から8世紀ごろということになりますが、いずれにしても9世紀ごろには、盛んに登られていたのではないか…と考えられています。また平安時代の末期には、駿河の国の偉いお坊さんが、山頂にお寺を建てたという記録も残っております。世界の登山史をひもといてみますと、4千メートル近い高山に人類が登頂したのは、おそらくこの富士山が初めてではないかと言われています、16世紀の半ば、メキシコのポポカテペトル山…こちらは標高5450メートルあるそうですが、その舌を噛みそうな名前の山が登頂されるまでの長い間、この富士山頂が、人類がたどり着いたもっとも高い場所であったことは間違いがないようです。
さて、富士山に最初に登った女性は誰か?
これも、あくまで「記録に残る限り」…という条件つきのお話ではありますが、富士山は霊峰、神聖なお山ですから、たとえば現在でも大相撲の土俵に女性が上がれないように、ここも、女人禁制の場所でした。ところが、やはり、どうしても登ってみたいという女性がいて、この方、その名も「高山たつ」、高い山にたつという、冗談のようなお名前の持ち主の方でいらっしゃいますが、なんと男装して登頂したのが1832年のこと。
また、1866年(慶応2年)には、イギリス公使、パークスさんの奥様が登ったという記録もあります。公式に女性に富士登山が許可されたのは、1872年、明治五年のことでした。

8月29日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「都内で富士登頂!」をご紹介します。

先日、私ども「くにまるワイド ごぜんさま」一行が、リスナーの皆様にも声をかけ、富士山ツアーを実施、頂上を目指したものの、志半ばにして挫折したお話は、今週の番組のあちこちでご紹介しておりますが、実は、そんな苦労をしなくても、都内で簡単に登れる富士山があるそうなんです!
ほんの二十秒ぐらいで登ってますね!こっちの方が、ぜんぜんラクでいいな〜…。さて、いま、ディレクターの矢島が登っていたのは、実は東京・千駄ヶ谷、将棋会館の隣にある、鳩森八幡神社の境内にある富士山です。
別名、「千駄ヶ谷富士」、高さ、およそ6メートル。都内にはあちこちにこうしたミニチュアの富士山が残っていて、これらは「富士塚」と呼ばれています。昔から富士山は神聖な山として人々に崇められてきましたが、江戸時代にはこれが実際に「富士山信仰」、ひとつの宗教として盛り上がりを見せるようになります。これが「富士講」と呼ばれるものなのですが、創始者が16世紀から17世紀に活躍された、「長谷川角行」という方。富士山を信仰する人々は、先達という、いわば案内人のような方に導かれ、白装束を着て「六根清浄、お山は晴天」などと唱えながら山頂を目指しました。ただ、三百年後の我々が、とうとう登頂できなかったように、やはり富士山、日本の最高峰だけありまして、当時としてはなおさら、そう簡単に登れるような場所ではありません。そこで、実際に富士山に出かけられない信者たちのために、江戸のあちこちに「富士塚」が設けられた、と、まあ、こういう訳なんですね。
先ほど矢島ディレクターが登頂した千駄ヶ谷富士は、これらの富士塚の中でも、現存する最古のもので、なんと1789年(寛政元年)に作られたとか。上り口には、富士五湖をかたどったと思われる池がありますが、これは、盛り土をするために掘った窪地を利用したもの。また、山頂付近には、実際に富士山から持ってきたホンモノの溶岩が使われていて、けっこうリアルです。
富士塚はほかにも、都内で百箇所以上が確認されています。
今でも実際に登れるところが多いので、もし近所の神社にありましたら、皆さん、話の種に、一度、登ってみてはいかがでしょう?
「富士山に登ってきた」と自慢できますよ!

8月30日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「山頂レーダー物語」をご紹介します。 日本で一番標高の高い場所…といえば「富士山」。
富士山は古くから信仰の対象となってきましたが、スピリチュアルな側面だけでなく、科学的にも、とても重要な場所。
気象観測で言えば、明治十三年以来、何度か施設が設けられ、断続的に行われていましたが、昭和七年、山頂に観測所が設置されてからは、日本の気象観測の重要な拠点として、貴重なデータを送り続けてきました。そして昭和三十九年、ご存じの方も多いと思いますが、かの有名な「富士山レーダー」が設置されたのです。標高3776メートルの日本で一番高い場所に、とてつもない規模のレーダーを作るというのですから、その苦労たるやハンパなものではありません。(あの「プロジェクトX」でも感動のストーリーが放映されましたから、ご存じの方も多いでしょう。)
当時は、富士山頂への物資輸送は細々と人力、あるいは馬に頼らざるを得なかったわけですから、これは文字通り、「想像を絶する」計画だったんですね。しかし、気象庁がそんな、一見無謀にも思えるプランをたてたのには理由がありました。
昭和三十年代、日本は度重なる大型台風に襲われ、毎年のように大きな被害が出ていました。昭和三十三年、狩野川台風。伊豆半島、そして関東平野を直撃したこの台風は、死者・行方不明者1269名という大惨事となりました。そして、翌・昭和三十四年には、伊勢湾台風。こちらは東海地方を中心に、死者・行方不明者実に5098名。毎年のように、千人以上の人々が命を失うという異常事態に、気象庁は何とか予報の精度を上げようと考えました。一刻も早く、詳細な気象データを手に入れたい。それには、できるだけ高い場所に高性能のレーダーを置くこと。そう、駿河湾を目前に控えた富士山頂こそが、最も適した場所だったんですね。(計画の中心にいた一人が、藤原寛人課長補佐…のちの作家、新田次郎さんで、この顛末を描いたのが名作「富士山頂」でございます。)
建設に際してはブルドーザーによる補給ルートが開拓され、アンテナを覆うドームは、ヘリコプターで空輸されましたが、実際はヘリでは450キロの重さしか運べないところ、このドームは600キロもあったんですね。気象条件がベストになる時を待ち、パイロットの名人芸でなんとか無事に設置された時は、関係者一同、万歳の大合唱だったそうでございます。
大変な苦労の末、完成したレーダーは昭和三十九年に運用開始。台風の被害は大幅に減ることになりました。そして三十五年後の平成十一年、気象衛星の登場や施設の老朽化、予算不足など様々な理由から観測業務を終え、現在はふもとの富士吉田市に移設。「富士山レーダードーム館」として、多くの観光客を集めています。

8月31日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「富士山と日本文学」をご紹介します。
おなじみ、和田宏とマヒナスターズの「お座敷小唄」。冒頭の歌詞は、百人一首の山部赤人の「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」を踏まえております。
富士山の雄大な姿を目にすると、なんとなくうれしくなる。そういう方、たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。日本人の心の中に、民族の原風景として、この富士山の姿が焼き付いているように思います。富士山は、古代から、多くの文学に登場してきました。 たとえば、日本でもっとも古い物語といわれる「竹取物語」。このお話にも、富士山は登場いたします。時の帝に求婚されたかぐや姫は、実は私は月世界からやってきた…とその正体を明かし、天に昇っていきます。彼女は最後に不老不死のクスリと手紙を残しましたが、「もう会えないのなら、そんなものいらない」と、帝はヤケッパチ。「いずれの山か、天に近き」と尋ねた所、ある人が「駿河の国にある山です」と答えた。で、帝は、クスリと手紙を持っていかせ、兵士たちを山頂に登らせてそこで焼くように命じた。「不死のクスリを焼いた山」ということで、それ以来、この山は「ふし山」→「富士山」と名付けられた、というわけです。
近代文学の中に富士山の姿を求めると、いの一番に名前が挙がるのが太宰治「富嶽百景」でしょう。有名なバスの中の場面を、ちょっと朗読してみます。ちなみに、現在、富士山の標高と言えば「3776m」ですが、この作品が書かれた当時は、明治時代に計測された「3778m」というのが、一般的な数字だったようです。
「… 老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、「おや、月見草。」
さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。
三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。」

PAGETOP

サウンドオブマイスタートップページ くにまるワイド ごぜんさま〜 INAX JOQR 文化放送 1134kHz 音とイメージの世界 SOUND OF MASTER サウンド オブ マイスター