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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
10月1日(月)〜10月5日(金)
今週は、「失われたパラダイス」と題してお送りししてまいります。
昭和の時代に登場し、子供たちに大きな夢を与えた後、  役割を終えてひっそりと消えていった、そんな数々の「パラダイス」をご紹介して参ります。

10月1日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「船橋ヘルスセンター」をご紹介します。
これを懐かしい…という方、おそらく、私と同年輩でしょう。船橋ヘルスセンターのCMソング、歌っているのはCMの女王=楠トシエさんでございます。船橋ヘルスセンター、オープンは1955年(昭和三十年)、そして幕を閉じたのが1977年(昭和五十二年)、クローズから既に今年で三十年の月日が流れているんですね。もう、遠い遠い、昔の出来事になってしまいました。船橋ヘルスセンターは現在の「ららぽーと」の場所にあった、日本最初の「テーマパーク」的レジャーランドでした。敷地は実に十二万坪というだだっ広い埋め立て地で、東京ドームにすれば、およそ8個分ということになります。中心になっているのは「温泉」。「大ローマ風呂」「岩風呂」など数々の温泉施設を中心に、ダラー…と横になることができる大広間、そして食堂などが広がっています。今で言う日帰り温泉施設やスーパー銭湯の、うんと大規模なものをご想像いただければよろしいかと思います。さらに、この周囲には人工ビーチがあって、プールがあって、メリーゴーランドや観覧車のある遊園地があって、園内を回る汽車が走っていて、野球場やゴルフ場があって、東京湾を遊覧飛行するための飛行場があって…と、「娯楽の殿堂」と呼ばれたのもうなずけます。
この船橋ヘルスセンター、誕生のきっかけは、実は船橋市の公共事業でした。市当局は、ここに工業団地を誘致しようと考え、海水面を確保して埋め立てを進めましたが、事業半ばで予算を使い果たしてしまい、道路や港、電力などのインフラを十分に整備することができませんでした。そこで、途中からレジャー施設へと方針を転換することになり、ボーリングしてみたら見事に温泉が出てきた。そこで地元の実業家、丹沢さんという方が乗り出してきて、この「船橋ヘルスセンター」が出来上がったというわけ。全盛期の昭和三十年代後半には、関東一円、遠くは新潟からも婦人会、町内会、農協の団体がひっきりなしに訪れ、年間450万人もの観光客が訪れたと申します。この丹沢さんという方、健全な場所であることを強調するため団体客を優先し、カップルは原則的にNG、どうしても夫婦で利用したい場合は戸籍謄本と写真の提出を求めたと言います。時代が感じられるエピソードですね。

10月2日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「谷津遊園」をご紹介します。
きのうは、失われたパラダイスの代表格ともいうべき、「船橋ヘルスセンター」をご紹介しましたが、今日は、その船橋のすぐ近くにあったアミューズメントパーク、「谷津遊園」にスポットを当ててみようと思います。しかし、すぐ近くにあったとはいえ、この二つの施設、成り立ちの背景は、かなり異なっております。船橋ヘルスセンターは、戦後、高度成長の申し子のような存在でしたが、こちらはぐっと歴史が古く、開場したのは、実に1925年(大正十四年)のこと。もともとこの土地は干潟で、塩田があった場所。大正時代まで、東京湾で塩を作っていたんですね!で、この塩田が、台風で根こそぎやられてしまったため、埋め立てることになり、そこに作られたのが「谷津遊園」。「遊園」とはいっても、最初は池や庭園、茶店などがあるだけ、従業員も僅か5名という、こぢんまりとした場所でした。しかし、昭和に入ると、この土地はいろいろな歴史上のエピソードに彩られるようになっていきます。たとえば、昭和六年には…
や、やられた…というわけで、この広い土地を生かして、チャンバラ映画の撮影所が作られました。スタジオの主は、戦前を代表するスター、バンツマこと、阪東妻三郎でした。そして、昭和九年には…
懐かしい「巨人の星」のテーマソングですが、実はこの谷津は、読売ジャイアンツ発祥の地でもあります。昭和九年、大リーグの選抜チームと対戦するため、全日本チームが組織されましたが、そのトレーニングの場所として使われたのが、谷津遊園の野球場でした。で、後に、その全日本チームが母体となって巨人軍ができた…というわけなんですね。今も、この場所には「巨人軍発祥の地」の碑が立っております。
東京にほど近いという立地条件もあり、谷津遊園は栄えました。大観覧車、海上を走るジェットコースター、また昭和五十二年には日本で初めてのコルクスクリュー型コースターなどが作られ、経営も安定していましたが、昭和五十七年、東京ディズニーランドがオープンすることもあって閉園が決定。跡地は住宅地となりましたが、東洋一といわれた薔薇園だけは残されることになり、現在は「習志野市営谷津バラ園」として、多くの人の目を楽しませ続けています。

10月3日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「五島プラネタリウム」をご紹介します。
東京の盛り場でも、一番新陳代謝の激しい場所…といえば、やはり、渋谷ではないでしょうか。ハチ公前広場は、出かけるたびに、どこか前に来たときと違うような印象を受けますが、本日はその反対側、東口の「失われたパラダイス」をご紹介します…といえば、ピン!と来る方もいらっしゃるでしょう。そう、本日は、現在はすっかり更地になっている東急文化会館の屋上にあった「五島プラネタリウム」をご紹介しようと思います。
東急文化会館が建てられたのは、1956年(昭和三十一年)。当時は単なる乗換駅でしかなかった渋谷を、銀座と並ぶ、一流の繁華街にしようという、東急グループの総帥、五島慶太の壮大な夢の詰まった建物でした。屋上のドームがとても印象的だったモダンなデザインは、ル・コルビュジェの弟子である近代建築の巨匠、坂倉準三の手になるもの。私達にとっては映画館ビル、元祖シネコンといったイメージのある建物でしたが、オープン当時は水族館が設置されるプランも検討されていたといいます。文字通り「文化の殿堂」が目標だった、いわばこの建物そのものが、今にして思えば「失われたパラダイス」だったんですね。で、その象徴的存在が、屋上のプラネタリウム。もともと東京には戦前、有楽町にプラネタリウムがありましたが、空襲で跡形もなくなってしまった。これではいけない、なんとか東京にもプラネタリウムを…と動いていた天文学者たちが、東急文化会館の建設を聞き、五島総帥に直談判。五島さんも「そりゃいいね」と快諾、このプラネタリウムが生まれることになったのです。そして、文化会館のオープンから遅れること4ヶ月…これ、ドイツ、カール・ツァイス社に特注したプラネタリウム投影機の制作に時間がかかったからなんですが、昭和三十二年…ワタクシの生まれた年ですが、この年四月にめでたくオープン。小学生たちが星空に夢を馳せる場所として、あるいは都会のデートコースとして観光名所となり、全盛期には数多くの観客を集めました。
平成十三年、文化会館の取壊しが決まったこともあり残念ながら閉館となりましたが、設備や資料は渋谷区が管理することになり、再来年にはセルリアンタワーの裏手、大和田小学校の跡地に新しいプラネタリウムがオープンする予定になっています。

10月4日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「東京マリン」をご紹介します。
本日ご紹介いたしますのは、6年前の9月に閉鎖された、足立区の大規模プール「東京マリン」です。
今でこそ、あちこちの自治体が市民プールを設け、また町中のそこかしこにスポーツクラブが生まれて、「プールで泳ぐ」ということは、日常の一部になりました。しかし高度成長の時代には、学校のプールは例外として、どこかのプールに出かけて行って泳ぐ…というのは、ちょっとしたゼイタクだったのです。この「東京マリン」も、そんなレジャー施設としてのプールの代表的存在でした。誕生は1972年(昭和四十七年)ですから、今週ご紹介するパラダイスの中でも、もっとも新しい施設ということになります。作られたきっかけは、当時の区長が、「荒川も汚れてきて子供たちが泳げなくなって来た。その替わりに、遊べる場所を作ってもらえないだろうか」と、友人であった初代の社長に相談を持ちかけたこと。そういうことなら、よっしゃ、まかせとけ…と、社長が作ってしまったのが、この足立区の豪華プールでした。当時はこうした豪華プールがほとんどなかったため人気を集め、テレビコマーシャルを流した効果もあって、広く東京中からお客さんが押し寄せました。そして、後に、この東京マリン名物として、バラエティ番組にもしばしば登場するようになったのが…
ウォータースライダーです。当初から、東京マリンはウォータースライダーで人気でしたが、バブルの時期になると、次々に大型スライダーを設置。四十メートルと世界一の高さを誇った「ブラックパニック」や、斜度六十度、ほとんど垂直、秒速二十メートルで落下する「フリーフォール・カミカゼ」はその非常識とも言える迫力で、大人気となったのでした。
平成に入っても、その人気は相変わらず続きましたが、この東京マリンには、一つ、致命的な弱点がありました。それはメインの施設が屋外だったこと。これでは夏場しか人が集まりませんし、「かき入れ時」の夏場が天候不順だったりすると、もう、アウトです。運営会社は2000年に倒産、翌2001年は東武鉄道が営業を引き継いだものの、客足は伸びず、また施設の老朽化もあって、その年限りで営業は終わることになりました。
現在、跡地には立派なマンションが建設されています。

10月5日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「デパート屋上遊園」をご紹介します。
今日のテーマは、デパートの「屋上遊園地」。
屋上遊園地を「失われたパラダイス」と言いきってしまうのは、失礼に当たるかもしれません。蒲田の東急プラザランドには、今も立派な観覧車がありますし、上野松坂屋や、浅草松屋などにも屋上遊園地は残っています。それでも、私達が子供だった頃の、ゴージャスな屋上のイメージとは、なんとなく、違うような気がいたします。もしかしたら「高度成長」という時代の魔法が、屋上遊園地の魅力を、より一層、引き立てているのかも知れませんね。デパートの屋上遊園の歴史は古く、明治40年には、日本橋の三越に「空中庭園」という屋上庭園がオープン。ここには池や噴水があり、望遠鏡も設置されていました。また上野松坂屋には、昭和4年に児童遊園が作られています。戦後は、日本橋高島屋の屋上で、その名も「高子」という象が飼われていたこともあり、戦前・戦後を通じて、屋上は子供たちのワンダーランドでした。
観覧車といえば、思い出すのが、映画「第三の男」です。映画に登場するウィーン、プラター遊園地の大観覧車は、1897年に建設された、現存する世界最古のもの。さて、東京の屋上遊園では、どこに一番早く観覧車が設置されたのか?これはどうやら、1950年(昭和25年)、浅草松屋の屋上に作られた、「スカイクルーザー」という乗り物のようです。通常の観覧車は、ご存じのように円周の回りに観覧車がついて、それがグルグル垂直方向に回りますが、この「スカイクルーザー」は、地軸の傾いた地球儀の上半分、赤道付近に、やはり少し傾いた輪がついていて、お客さんがそこに乗ると、水平方向に回転する変型の観覧車。実に独特の形をした乗り物なので、当時の映画にもしばしば登場しており、森繁久弥主演の「渡り鳥いつ帰る」や佐野周二主演「とんかつ大将」といった作品で、その勇姿をかいま見ることができますが、ユニークなのがアメリカのアクション映画、昭和三十年制作の「東京暗黒街・竹の家」。この映画では、なんとクライマックスの対決シーンで、「スカイクルーザー」が登場するのです。当時、いかにこの乗り物がモダンでカッコよく、人気が高かったかが伺えるエピソードですね。しかし、屋上遊園が栄えたのは、昭和三十年代が最後。昭和40年代以降、郊外に本格的な遊園地が増えたこと、また、デパートの火災により規制が厳しくなったこともあり、大規模な遊具をもつ屋上遊園は、次第に姿を消していったのです。

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