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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
10月15日(月)〜10月19日(金)
今週は、「東京 名曲ものがたり」と題してお送りししてまいります。
今年5月、横浜から生まれた名曲をご紹介いたしました。
今週は、横浜と並ぶ名曲の舞台になってきた東京を取り上げます。題して、東京名曲ものがたり。

10月15日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「東京行進曲」をご紹介します。
1923年(大正12)に起きた関東大震災で東京は大被害を受けました。しかし、またたく間に復興を遂げ、発展する日本の首都として復活したんです。
昭和4年、空前の大ヒットになった曲が流れました。
「東京行進曲」
作詞・西条八十 作曲・中山晋平 歌・佐藤千夜子
震災の被害から立ち直った東京市民ばかりか、日本全国で大ヒットしたんです。改めて歌詞を読んでみますと、成長する大都会・東京の当時の風俗が巧みに読み込まれています。ジャズ・ダンサー・丸ビル・地下鉄・シネマ・デパート・・など華やかな都会生活がうたわれています。これが空前の大ヒット。レコードが、なんと、25万枚も売れたそうです。当時、レコードを聞くための蓄音機、当時、全国に25万台しかなかったそうです。1台に1枚、売れたことになりますね。歌詞に登場する「デパート」が宣伝のために大量に買って配ったというエピソードもございます。
歌の中に、「銀座の柳」とあります。銀座の柳は、明治時代にイチョウから植え替えられ、東京市民に親しまれていたんですが、大震災で壊滅してしまったんです。ところが、この曲のヒットが切っ掛けになり、3年後の昭和7年に「銀座の柳」が復活した、こんなエピソードがございます。
もうひとつのエピソード。新しい盛り場として急成長していた新宿の鉄道会社、小田急。当時の正式名称は、小田原急行電鉄会社。これを小田急と省略したんです。鉄道会社は、レコード会社にクレームをつけたそうですが、大ヒットとともに会社の知名度は急上昇。宣伝効果満点。のちに、小田急は作詞の西条八十に全線優待パスを贈ってお礼をしたという話が残っています。
モボ・モガという新しいファッションに身を包んだ男女が登場してきた「新しい東京」を描いた東京行進曲、まぎれもない東京の名曲でございます。

10月16日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「東京ラプソディ」をご紹介します。
1936年(昭和11年)、2.26事件が起こり、阿部定事件が世間を騒がせた年でございます。
暗い時代を予感させるその年、この曲が生まれました。
作詞・門田ゆたか 作曲・古賀政男
そして、歌ったのは、ご存知藤山一郎。「東京ラプソディ」です。日々軍事色が強まっていく社会の中で、軽快なメロディと際だった歌唱力が人気となり、35万枚を売り上げました。その年、昭和11年の日本全国のレコード売り上げ枚数が300万枚だったそうですから、その人気ぶりがわかりますよね。
歌には、銀座・神田・浅草・新宿といった東京の盛り場が盛り込まれております。そして、1番から4番まで、歌の後半は都会生活を謳歌するこんな言葉が繰り返されています。
楽し都 恋の都 夢のパラダイスよ 花の東京
昨日お送りした「東京行進曲」が、関東大震災の被害から復興した東京を謳ったものでしたが、7年の間に東京はさらに成長していたんです。
東京の郊外は住宅地として開発が進んで、新宿や渋谷・池袋といった駅の利用者が増え、盛り場としても人気を集めていました。華やかな都会生活が次第に定着してきて、高いビルが建ち並ぶ風景もすっかり馴染んでいました。サラリーマンの恋愛も、身近なテーマに受け取られるようになっていたんですね。
この年、国会議事堂が完成し、ベルリンで開かれてオリンピック大会では日本選手が大活躍。そんな華やかさ話題がある一方で、世の中は次第に戦争の気配が近づいていました。歌謡曲の世界も、発売禁止になったり、歌詞の書き換えを指示されたりする例が増えていました。重苦しい気配が漂う中で、藤山一郎が歌う「東京ラプソディ」は大ヒットしたんです。

10月17日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「東京の屋根の下」をご紹介します。
1945年(昭和20)。
太平洋戦争が終わりました。「花の都」と謳われた東京は、空襲によって大きな被害を受けました。働く場はない、食べるものもない、苦しい時代が始まりました。関東大震災の被害からは10年たらずで復興できた東京でしたが、敗戦という経験したことのない事態には大変でした。
灰田勝彦。
ハワイ生まれの日系二世で、日本に戻って立教大学に学び、ハワイアン歌手を経て、昭和11年にプロ歌手としてデビューしました。甘い歌声と、美男ぶりで映画俳優としても人気が高かったんですが、「灰田勝彦の歌は軟弱である」・・・と、軍部からにらまれ、やむを得ず軍歌も歌うようになっていました。
戦後。
生活は苦しくとも、どことなく明るさが漂っていた時代でした。そんな時代にピッタリの歌を灰田勝彦が歌ったんです。
昭和23年12月に発売された「東京の屋根の下」、作詞・佐伯孝夫 作曲・服部良一です。
なんにもなくてもいい、いえ、実際、当時の東京には、なにもなかったんですが・・・。でも、二人の恋だけは本物だ、という歌です。モノはないけど愛と夢がある、ああ、我等の東京。戦前の東京をテーマにした歌とはまったく別で、希望に満ちた旅立ちがテーマだったんです。

10月18日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「銀座の恋の物語」をご紹介します。
相変わらずカラオケの人気は衰えることを知りません。カラオケのデユェット曲の決定版といえば、これ。
『銀座の恋の物語』
この曲、石原裕次郎主演の映画で使われていたんですが、では、何という題名の映画だったでしょうか? 銀座の恋の物語だろうですか?
1961年(昭和36)に、石原裕次郎・芦川いずみの主演で作られた映画「街から街へつむじ風」の挿入歌として作られたんです。作詞・大高ひさを 作曲・鏑木創  ナイトクラブのシーンに登場したこの歌の人気が高いので、翌年、昭和37年に作られたのが、お馴染みの「銀座の恋の物語」だった、というわけなんです。
昨年の「東京歴史探訪」で、撮影所を取り上げましたが、調布の日活撮影所には、銀座の街そのままに作られたオープンセットがありまして、そのセットと、銀座でのロケーションを組み合わせて映画が作られていたんです。それほどに、当時の銀座は絵になる場所、人気の場所であったのです。
これまでにご紹介してまいりました東京の名曲は、震災や戦災からの復興・戦争の足音が聞えていて時代のものでした。ところが、「銀座の恋の物語」は、高度成長まっただなか。平和そのもの、華やかな大都会・東京の恋がテーマになっていました。デュエット曲は珍しくありませんが、女性が先に歌うものは珍しいんですね。
さて、数多い銀座のご当地ソングですが、この曲の人気の高さは変わることがありません。石原裕次郎が亡くなってから3年たった1990年、銀座の恋の物語の歌碑が、数寄屋橋交差点角の数寄屋橋公園の一画に建てられました。銀座は、有名ブランドの店が増え、デパートの改装が続いています。街の風景は変わっても、やはり銀座は魅力にあわれた街なんです。そんな街の代表的な曲、「銀恋」、デュエット曲の定番、と呼「銀座の恋の物語」、まぎれもなく東京の名曲です。

10月19日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「ラブユー東京」をご紹介します。
終戦から20年あまり、高度経済成長が続いていた1966年(昭和41)、一枚のシングルレコードが発売されました。A面の曲名は「涙とともに」、ところが、時間が経つにつれて、B面の曲の人気が高くなり、何と2年後にはヒットチャートの1位に躍りでてしまったんです。この曲です。 『ラブユー東京』
作詞・上原尚、作曲・中川博之 歌ったのは、現在はロス・プリモスとなっております、ご存知、黒沢明とロス・プリモス。歌謡曲にほかのジャンルの音楽を取り入れてつくられたムード歌謡」の中でも記憶に残っている曲ではないでしょうか、この曲の主人公は、大都会・東京の華やかな夜の世界を生きてきた女性です。出会いと別れ、歌詞の中の「虹」「シャボン玉」といった言葉が、はかない恋を見事に表しております。
働く女性、共感できる女性の有線放送へのリクエストが次第に増え、オリコンチャートの1位を3週にわたって占めたのは、1968年1月のことでした。
石油ショックが、世界を、そして日本を襲うのは5年も先のことでした。まだまだ明るい明日が描けた時代でございました。2年がかりで頂点にのぼり詰めた曲は、発売から40年過ぎた現在でも新鮮な味わいがあります。

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