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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
11月26日(月)〜11月30日(金)
今週は、「東京公園散歩」。
緑に彩られた夏の公園もいいものですが、落ち葉をカサカサと踏みながら歩くこの季節、晩秋の公園も、また味わい深いもの。身近な公園の散歩が、ちょっと楽しくなる、歴史にまつわるエピソードをご紹介して参ります。

11月26日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「明治の公園事始め」をご紹介します。
武家屋敷や、お寺、神社の鬱蒼とした緑に囲まれて、街そのものが「公園のようだ」と、外国人たちを魅了した徳川幕府の本拠地・江戸。ところが時は流れ、明治維新の世の中となりますと、主を失った武家屋敷は荒れ果てて、見事な庭は次々に潰されてしまいます。 新しい日本の首都・東京は、そうしたある種、殺伐とした雰囲気の中で第一歩を踏み出したのでした。これから新たに発展を遂げていく若い国としては、それもまた、仕方のないことだったかもしれません。しかし、新政府が発足してある程度の月日が流れると、にわかに「東京の町中に公園を作らなければ…」という機運が盛り上がって参ります。狙いは「不平等条約の改正」にありました。江戸幕府によって結ばれた、とても日本に不利な、外国との取り決めを改めるには、日本が一流の文明国であることを世界に示さねばなりません。あの鹿鳴館で、夜な夜な開かれた舞踏会も、その一つの手段でした。もちろん、首都・東京の体裁も、ロンドンやパリに負けないよう、整えていく必要があったのです。ロンドンやパリにあって、東京にないもの…それが「公園」だったのです。
ロンドンのハイド・パークや、パリのリュクサンブール公園のような広いスペースは無理としても、なんとか近代都市の体裁を整えるために、ある程度の広さをもった緑地を作り上げなければいけない。そこで目をつけられたのが、広い境内を持つお寺や神社でした。
明治の始め、政府はお寺や神社の、境内以外の土地を、すべて国有地にするという、大胆な政策を実施していたため、お寺や神社の周辺を公園にするのも、自然な発想でした。もっとも、土地をもぎ取られた格好のお寺や神社は、たまったものではなかったようですが…。公園を作りなさい…というお触れが、全国に向け出されたのは1873年(明治6年)、一月のことでした。このとき、東京で最初に公園として指定されたのは5ヶ所。上野、浅草、芝、深川、飛鳥山というラインアップでした。上野は寛永寺、浅草は浅草寺、芝は増上寺、深川は富岡八幡、飛鳥山は王子権現…と、いずれも、江戸時代から栄えているお寺、神社のお膝元だったのです。

11月27日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「芝公園」をご紹介します。
日本が近代国家として世界に認められるには、首都・東京が近代都市とならなければならない。そのためには、公園がどうしても必要だ…と、明治6年、まず東京の5ヶ所に公園が設けられました。それが、上野・浅草・深川・飛鳥山、そして本日ご紹介いたします「芝公園」です。
芝公園は、広大な増上寺の敷地を利用してできた公園です。上野公園のもとになった寛永寺と同じく、こちらも徳川家の霊廟をもつ、幕府ゆかりの寺。彰義隊が上野の山に立てこもるなど、寛永寺が最後まで新政府に抵抗したのに対して、増上寺は協力的でした。東海道を通って東京にやってくる官軍に対して、宿舎や資金を提供し、また明治天皇の休憩所にもなりました。明治天皇がお乗りになっている「みこし」が大きすぎて大門を通ることができず、「め組」の頭に頼んで、あわてて門の下を2m余り掘り下げたという、そんな涙ぐましいエピソードまで残るほど、新政府には恭順だった増上寺。
しかし、やはり徳川の菩提寺だったことが災いしたのか、新政府にはあまり誠意を汲み取ってもらえず、お寺の回りを丸ごと公園に指定されてしまうなど、明治から戦後に至るまで、いろいろ苦労が多かったようです。戦後は、政治と宗教を引き離す「政教分離」の原則が徹底され、寺とその回りの大部分は返還されました。現在の芝公園は、寺を取り囲み点在する野球場やテニスコート、日本庭園や日比谷通りの楠の並木などからできています。口の悪い人には、まるで「まんじゅうの皮のような公園」と、言われることもあるそうですが、いずれにしても、殺伐としたこの東京・港区にあって、真ん中の増上寺と共に、欠かすことのできない緑のオアシスであることは確かです。
さて、芝公園に囲まれた増上寺の北側には東京プリンスホテル、南側には、ザ・プリンス パークタワー東京と、二つのプリンスホテルがありますが、実はここ、両方とも徳川家の霊廟、お墓があった場所。東京プリンスホテルの場所には七代将軍・家継など、パークタワーの場所には二代将軍・秀忠などの、それぞれ霊廟がありました。戦前は見事な寺院建築が立ち並び、「東洋のパルテノン」とも言われた荘厳な眺めが広がっていましたが、昭和二十年の空襲でほぼ焼き尽くされてしまったのです。東京タワーの麓に広がる景色。近代的なホテルもいいけれど、荘厳な江戸時代の寺院建築、これも…ちょっと見てみたかったですね。

11月28日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「井の頭公園」をご紹介します。
懐かしい、中村雅俊さんが唄う「俺たちの旅」。1975年(昭和50年)から翌年にかけて放送され、若者たちに圧倒的な人気を博したドラマの主題歌でしたが、このドラマの舞台となったのが「井の頭公園」界隈でした。…井の頭公園周辺は、江戸時代から名高い景勝地でした。このあたりには、善福寺池や妙正寺池、さらに三宝寺池など、同じような池がいくつも点在しています。それでも、「井戸のナンバーワン」という意味で、「井の頭」と名付けられるほど、ここは特別な場所でした。
それは、なぜかと申しますと…
これまた、懐かしい七十年代のフォークソング「神田川」。そう、井の頭池は「神田川」の水源です。江戸時代、神田川は「神田上水」として、市内の飲み水にも使われた大切な川でした。そこで、江戸の人々は、この「井の頭池」に対して、他の池よりも一層の敬意を払っていた、というわけです。明治に入ると、土地の管理は幕府から新政府へと移り、後にこの井の頭一帯は、皇室の「御料地」となりましたが、大切な水源としての地位は変わりませんでした。明治三十八年になると、東京市が皇室から土地を借り受け、現在の動物園のあたりに、不良少年を収容する、「感化院」が設けられました。そして明治から大正へと世の中が移り変わると、東京郊外も宅地化が進んで、このあたりも人口が増え、井の頭一帯を公園に…という声が挙がるようになったのです。そこで、東京市は、皇室に対して、このあたりの土地を、公園用地として無料で貸してもらえないか…と申し出たところ、先方は「公園にするということなら、貸し出しではなく、差し上げましょう」と、思いがけないリアクションを見せてくれたのです。当時のことばで「下に賜る」とかいて「下賜」。井の頭公園の正式名称が、恩義の「恩」に「賜る」と書く、「井の頭恩賜公園」であるのも、これが理由なんですね。大正6年(1917年)5月、東京で初めての郊外公園、「井の頭公園」が無事にオープン。感化院の不良少年たちも、その工事に駆り出されたそうですが、公園がオープン後は、院を抜け出した不良たちが、逢い引き中の男女を脅して金品を巻き上げる事件が続出。そんなこともあって、感化院はさらに郊外へと移転し、跡地に動物園が設けられることになったのでした。

11月29日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「砧緑地」をご紹介します。
環状八号線を、杉並方面から南へ下っていくと、東名高速のガードの手前右側に、だだっ広い公園が広がっていることに気がつきます。これが「砧公園」です。面積、およそ四十万平方メートルという広大な緑地。紀元二千六百年の記念事業として、「砧公園」の計画がスタートしたのは、昭和十五年(1940年)のこと。
東京の人口が、郊外に向け、さらに膨らんでいく時期を迎え、東京市では、六ケ所に広大な緑地を設ける計画を立てました。調布の神代、小金井、足立の舎人、葛飾の水元、江戸川の篠崎、そしてこの、世田谷の砧。戦中戦後、紆余曲折を経ながらも、これらの場所には大きな公園が生まれ、市民に親しまれているのは、皆様、ご存じの通りでございます。しかし、この「大緑地計画」には、もう一つの、忘れることの出来ない側面がありました。それは…
昭和十五年といえば、中国大陸での戦闘は先が見えず、また太平洋を挟んでいたアメリカとの緊張が高まっていた時期。軍としては、来るべき空襲に備え、早いうちから都内に防空のための広大なスペース、高射砲やサーチライトなどを設置するための「防空大緑地」を備えておきたいと考えていました。そこに、この東京市の「大緑地計画」が都合よく重なって、「砧緑地」が誕生した、というわけなんですね。土地の造成は、学徒動員による「勤労報国隊」の学生たちが担当。
さらに昭和十八年には、軍関係の訓練設備建設がスタート。ところが、戦時中・食糧難の時代に入ったこともあり、緑地のおよそ6割は畑に変えられてしまいます。市民のいこいの場、あるいは軍事的訓練の場として計画された緑地でしたが、その本来の目的に使われることなく、ひたすら、食料の増産に励み、そして終戦を迎えます。
戦後、食料増産のため、公園用地の多くは農地として貸し出されていましたが、公園に戻したくても、都には補償金の予算がない。そこへ、電鉄会社が「補償金を出すので、この場所でゴルフ場を経営させて欲しい」と申し出てきたんですね。都は、渡りに舟…とその申し出に乗ります。こうして、昭和三十年に「砧ゴルフ場」が誕生。都民のためのゴルフ場として親しまれましたが、より多くの人に公園を使ってもらおう…という都の方針のため、昭和四十一年に営業を終了。現在、私達が親しんでいる老若男女、誰もが楽しめる「砧公園」が誕生したのです。

11月30日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「日比谷公園」をご紹介します。

日比谷公園内、野外大音楽堂でのライブ音源です。フォークやロックのアーティストたちにとって、「ヤオン」は特別な響きを持っている場所。ステージから擂り鉢状に客席が広がる独特の形、なんともモダンな雰囲気に満ちていますよね。ことしの夏には、木曜レギュラーでおなじみの清水宏さんも、大暴れのワンマンショウを見せてくれました。
この「野音」、そして戦後、クラシックの殿堂として知られた「日比谷公会堂」や「日比谷図書館」といった施設を備えているのが、日比谷公園です。このあたり、もともとは江戸城が目の前ですから、名だたる大名の屋敷が立ち並んでいた地域でしたが、明治維新になって、新政府が管理するようになると、土地は荒れ、一時は桑や茶などの畑になっていたそうです。その後、明治四年ごろからは陸軍の練兵場となり、皇居から目と鼻の先とあって、しばしば天皇もお見えになり、明治十二年(1879年)には、来日したアメリカのグラント大統領と並び、セレモニーをご覧になりました。しかし、次第に街が開けてくると、この都心の一等地に、練兵場を置いておくのが、はばかられるようになってきます。この素晴らしいロケーションに、美しい近代的な公園を作ってはどうか…という機運が高まってきたのです。東京の公園は、最初に誕生した上野、浅草など、お寺や神社の広大な空間をそのまま利用した物が多く、のんびり散歩するには、あまり適していない場所が多かった。計画的に植え込みと芝生をつくり、遊歩道を巡らせて、誰もが心地よく過ごせる、そんな洋風の公園第一号を、ここ、都心の日比谷に作りたい…という、関係者のそんな思いが実って、明治三十六年に、日比谷公園はめでたくオープンの運びとなりました。しかし、それ以前に、日本で洋風の公園を作ったことがある技術者など一人も存在しないわけですから、設計を担当した本多静六博士も手探りで、大変な苦労の連続だったようです。東京市議会で、「なぜ門に扉を設けないのか? 夜中に花や木を盗まれてしまうのではないか?」と質問されると、「公園の花が盗まれるようでは日本の将来はない。親の隠した菓子を見つけて食べてしまうような子が、お菓子屋さんに勤めるとつまみ食いをしなくなるように公園を花で満たし、盗む気をおこさせないようにする」と答えてなんとか逃れました。
また「池は身投げの名所になるのでは?」という心配も多かったので、石垣のすぐ下には水面を置かず、また池もいきなり深くなるのではなく、岸に近いところは浅瀬という設計にしたところ、これが当たって身投げもゼロ。それにしても、公園を設計するにあたって、こういう質問が出るあたり、明治という時代を感じますね。
季節は冬へ向かっているとはいえ、休みの公園は、なんとも風情があっていいものです。しばらく公園へ出かけていない…という方、明日の土曜日、散歩に出かけてみてはいかがですか?

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