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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
2月4日(月)〜2月8日(金)
今週は、「江戸土産あれこれ」。
300年前に世界最大の都市になっていた江戸、江戸のみやげ物についてご紹介してまいります。

2月4日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「佃煮」をご紹介します。
江戸土産あれこれ、1回目は、はい、佃煮でございます。家庭の食卓でも、あるいは駅弁を買っても、佃煮がないと、何か物足りない・・・そう思割われる方、多いことでしょう。江戸に入った徳川家康に保護された摂津、現在の大阪府の漁民が移り済んだのが始まり。やがて、この場所から生まれ、全国に佃の名を知られることになったのが、地元で取れる海産物を濃く味付けして作った保存食、佃煮でございます。
  徳川家康から数々の特権を与えられた佃島、海産物は、将軍家に献上した残りは、自由に販売することできたそうです。江戸湾、現在の東京湾は収穫が多かった、余った魚や昆布を濃い目の醤油で味付けして、日持ちのする食品にして売り出した。それが誰だったのか、今となってはわかりませんが、あっという間に「佃煮」は江戸の人々ばかりか、全国に「江戸生まれの食品」として浸透していったんですね。現在、佃島では、長い歴史のある3軒の老舗の佃煮屋さんが、営業を続けています。 その内の1軒、創業。1837年(天保8)、今年で171年目を迎えた天安本店の社長、鎌田元雄さんにお話を伺いました。
世界有数の消費都市でありました江戸、使うものはすべて上方や他の地方から運ばれていたことは、これまでにも、この「東京歴史探訪」でもご紹介してまいりました。反対に、江戸から上方に、江戸から全国に広まったものの一つがこの佃煮でございます。 なぜ、佃煮が全国に知られるようになったのか、と申しますと、江戸の屋敷で、毎食、食卓に上る佃煮が大好物になっていたお大名、参勤交代で国元に帰る時には、すっかり好物になっていた、いろいろな佃煮持参で行列を連ねていたそうです。当然ながら、お供の武士たちも、「おかず」に佃煮が欠かせなかったことでしょう。そして、国元で留守を守る武士や家族も、殿様の江戸土産を首を長くして待っていた・・・そうでございます。
大名ばかりではございません。士農工商、佃煮は、すべての人に好まれた。やがて、明治時代になると、黒砂糖が一般にも使われはじめ、江戸で始まった保存食品・佃煮は全国各地で作られるようになり、現在でも変わらぬ人気を保っております。

2月5日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「錦絵」をご紹介します。
江戸で盛んなものといえば、芝居・相撲・そして花の吉原。まだございます。市内と近郊の観光名所。現在のブロマイド、週刊誌、絵葉書、そして写真、これをすべて合わせたようなものが錦絵でございました。
当時の人気絶頂の歌舞伎俳優や、美女ナンバーワンの評判高い花魁、天下無敵の横綱、名高い名所や旧跡などを描いた錦絵、ジャンルはさまざまですが、飛ぶように売れていたんだそうです。日本橋や京橋の目抜き通りには、多くの錦絵を売る店が出ていました。若い娘やお店勤めの若者たちも集まる、現在も同様でございます。
華やかな話題は、すべて江戸から広がりました。江戸名所・人気を呼んでいる芝居・相撲・江戸の町で評判の高い美人・・・などなど。実物を見たいと思っても、江戸にはなかなか行けない、こんな人たちには、錦絵はぜひ手に入れたいものでした。江戸の土産物として錦絵が喜ばれたのは、こんな事情があったんです。
「(男声)お前、江戸に行くんだって。すまないけど、頼まれておくれ」
「へい、何なりと」
 あるいは・・・。
「(女声)あの、江戸の帰りに、成田屋、市川団十郎ですね、成田屋の錦絵、忘れずに買ってきておくれ」
「承知いたしました」
こんな遣り取りが、全国津々浦々で行われていたんでしょうね。
さて、人気抜群の錦絵、お値段、どの位したか、と申しますと・・・。これが、安かったんですね。およそ20文、400円ほど。こんな値段で、北斎も写楽も歌麿も、買うことが出来た。さきほど申しました通り、毎月でも新しい錦絵を買うことも出来たでしょう。
しかもこの錦絵、土産物にぴったりでした。かさばらず、軽い!華やかな江戸の香りに満ちた数々の錦絵、現在も地方の旧家の土蔵やタンスから、次々に見つかっているそうでございます。きっと、江戸土産としていただいて、大切にしまっていたんでしょうね。
現在でも、外国に住む日本人に喜ばれるものは、日本の週刊誌の最新号だそうですが、何やら似ていませんか?手軽に手に入れることが出来た錦絵ですが、江戸時代末にヨーロッパに伝わり、やがて印象派などに大きな影響を与えたのは、皆様ご存知の通りでございます。

2月6日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「浅草海苔」をご紹介します。
古くは浅草近くの隅田川で採れ、浅草寺の門前町・浅草を代表する土産物として知られておりました。採れる場所は、次第に隅田川の下流に移り、家康が江戸に入った頃、およそ410年前には、現在の両国橋あたり。そして、養殖されるようになった元禄の頃からは、大森・品川・葛西、といった、江戸湾の遠浅の海岸で盛んに行われるようになったんです。養殖のはじめの頃は、浅草に多かった紙すき職人が作った・・・とも言われているんです。まさに江戸前でございます。
産地の名をつけて、大森海苔・品川海苔と呼ばれた時期もあったようですが、次第に、「浅草海苔」の名で全国に知られる名産品になった。将軍家・上野寛永寺・京都の朝廷にも献上されました。
献上される海苔は、およそ36センチ×30センチの特製の大判。現在売られているものより2倍半も大きいサイズ。大掛かりな行列をつらねて献上したそうですが、これも「浅草海苔」の名を高める効果があったようです。
江戸時代の名店ガイドブック、「江戸買物独案内」にも、浅草や日本橋・京橋に店を構える海苔店が載っています。どの店も、東叡山、寛永寺のことですね、東叡山御用、とか、本丸御用、京都公家御用、などを謳っているんですね。
  海苔ほど、お土産の条件を備えているものはありませんでした。軽い、かさばらない、抜群の知名度、保存がきくこと・・・。もらって嬉しい江戸土産の上位を占めていた浅草海苔、昔も今も変わらぬ江戸の名品でございます。
ちなみに、今日2月6日は、海苔の日、でございます。

2月7日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「タネ」をご紹介します。
人口100万人。世界一の大都会・江戸。1日に消費する食料・燃料もたいへんな量です。毎日、全国から物資が流れ込み、それが江戸の繁栄を支えていました。そのなかでも、新鮮な野菜は、近郊農業が担っていた。
米を作るよりも、野菜を作って江戸に運べば高く売れる・・そう考えるのは当然でした。武蔵野台地の土地は、根菜類、ごぼう・大根・にんじん・・などを作るのに適していましたから、農家は工夫して、新しい品種の作物を作り、やがて、街道筋でタネを売るようになったんですね。
江戸から広がる街道のなかで、中仙道沿いの巣鴨・滝野川あたりには旅人相手の茶店にまじり、タネを売る店も作られていました。農家の副業としてはじまったのですが、後に、「タネ屋街道」と呼ばれたほどの大成功を収めました。最盛期には、巣鴨から、最初の宿場・板橋までの間には、タネ屋とタネ問屋が出来た。タネを買ったのは、どんなお客さんだったのかと申しますと、江戸で味わった野菜を国に持ち帰って栽培しよう・・・という人、商売用に大量に仕入れる商人、そして、こんなお客様も。
「(大名)これ! 今年の新しい作物のタネを、残らず求めてまいれ」
家来「ハハッ! かしこまりました」
参勤交代で国元に戻る際、人気のあるタネを大量に買い求める大名もいたっていうんです。米だけに頼るのではなく、高値で売れる新しい名産を生み出そう、こう考えていた殿様もいたようでございます。やがて、東海道など他の街道にもタネを売る店が出来、それが、また新たな改良の原動力になり、ブランド品を作り出していった。
江戸のブランド野菜、いくつかご紹介しましょう。北区滝野川の滝野川ごぼう、文京区の駒込なす、新宿区の内藤トウガラシ、まだまだたくさんの野菜が、江戸野菜として全国に知られるブランドになっていたのでございます。
タネも、これまでに取り上げてきた土産物の条件を備えています。軽く、かさばらず、保存が利き、何よりも喜ばれる。
「これが今、お江戸で一番人気のある野菜のタネでございます」
誇らしげに荷物から取り出す旅人の誇らしげな顔が見えるようです。
連日賑わいをみせております巣鴨の「とげぬき地蔵商店街」、あの通りは、以前にもご紹介しましたが、旧中仙道でございます。巣鴨から板橋までの間には、江戸時代そのままにタネの販売を行っている商店があります。「タネ屋街道」の面影をしのぶことが出来ます。

2月8日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「一番の江戸土産は?」をご紹介します。
江戸時代中頃には人口100万人を超え、繁栄していた江戸。活気に満ち、火事や地震の被害を受けても、すぐに立ち直る。常に新しい商売がおこり、流行の発信地でもありました。そんな江戸の最新情報、これが何よりの「おみやげ」、土産話でした。
江戸に出入りする人の数、思ったより多かったんですね。最大のものは、参勤交代。10万石の大名で、およそ300人。100万石の加賀藩前田家ともなると、数千人になった年もありました。この大行列が1年おきに江戸と国元を往復した。
その他にも、商業の発達で江戸に物を運ぶ、商談のために江戸に向かい、地方に出掛ける。人の動きは年々増えていきました。江戸も後半になりますと、物見遊山、観光ブームが定着しました。「ぜひ、一度で良いから江戸見物をしてみたい」皆が。こんな夢を思い描いたことでしょう。
江戸時代の後半、江戸の見どころガイドブックでもある「江戸名所図会」、歌川広重の錦絵「名所江戸百景」などが売り出されました。また、江戸見物の参考に、江戸名所を番付にした「見立番付」が、たびたび作られました。これを見ますと、当時の江戸の人気スポットがわかります。浅草寺、上野の山、墨田川、芝居、吉原、相撲、日本橋・・・「見る」「食べる」「遊ぶ」すべてが楽しめた。
ガイドブック片手に街歩きをする人は、観光客ばかりではなかった。江戸勤番といわれる武士たち、暇だけはタップリあったため、市内や近郊を見物して歩くのが楽しみだったそうです。商用で来た人も、農産物を届けた人も、本山を訪ねたお坊さんも、心に江戸の印象を刻んで帰ったんでしょうね。
国元に帰れば、質問ぜめにあいました。 「何が流行っているのか?」
「どんな食べ物がある?」質問殺到。
そこで、おもむろに・・・。
「今、お江戸ではな・・・」
と始めます。自慢げに。江戸の最新情報に、皆が聞き入ったことでしょう。かさばらず、誰にでも喜ばれた。ただし、情報だけに、鮮度はすぐに落ちました。ここが、日持ちがした他の「江戸土産」と違うところでした。

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