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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
3月3日(月)〜3月7日(金)
今週は、「東大名所案内」。
最高学府の中の最高学府である東京大学、その構内にある、数々の歴史的名所をご紹介して参ります。


3月3日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「赤門」をご紹介します。
加藤登紀子さんの、今から四十二年前の歌声、「赤い風船」をお聞きいただいています。東京大学出身の芸能関係者…といえば、最近では、くにまるワイドごぜんさま〜の金曜レギュラー、小正裕佳子さんを始めといたしまして、ミュージシャンなら小沢健二さん、俳優なら香川照之さんや矢崎滋さんなど、すぐにいくつかの名前が挙がって参ります。しかし、二十年ほど前までは、それこそ数える程。この加藤登紀子さん、お登紀さんなど、ごく僅かしか、思い浮かばなかったもの。時代もずいぶん変わりました。お登紀さんは、1965年、東京大学在学中に、アマチュア・シャンソン・コンクールに優勝。翌年、プロとしてデビューいたしまして、この「赤い風船」で、レコード大賞新人賞を受賞されています。その後のご活躍については、もう、皆様ご存じの通りです。
門の開く音が聞こえて参りましたが、東大出身の芸能人の代表が加藤登紀子さんなら、東大の名所の代表…といえば、はい「赤門」ですね。「本郷も かねやすまでは 江戸の内」「かねやす」は、その昔、このあたりまでが江戸の市内だったという、本郷三丁目交差点の角にある、有名な小間物屋さんの名前。現在では立派なビルとなって、洋服や小物などを商っていらっしゃいます。本郷通りを南から北へ、かねやすのある三丁目交差点を過ぎて、ズンズン歩いて参りますと、ほどなく右側に見えてくるのが、立派な朱塗りの門、「赤門」。東京大学ができる以前、ここが加賀百万石前田家の上屋敷だった時代から残る、由緒正しい門でございます。もちろん建ったのは江戸時代ですから、東大のできる何百年も前からある…と思いがちです。ところが、東京大学は、去年の四月で創立百三十周年。1877年(明治十年)にその歴史が始まります。一方、この赤門ができたのは1827年(文政十年)。僅か、五十年の差しかないわけですね。東大の歴史の深さを感じさせられます。赤門の由来については、もう皆様ご案内のお話。子だくさん将軍、家斉公の二十一女、溶姫様が、加賀・前田家に嫁ぐときに建てられたもの。当時、将軍家のお姫様が嫁入りする時には、必ずこの「赤い門」をこしらえるしきたりがありました。ですから、当時はあちこちの大名屋敷に、「赤門」があったわけですが、現在、その姿を留めているのは、東大赤門だけ。国の重要文化財に指定されています。

3月4日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「三四郎池」をご紹介します。
東大構内の名所と申しますと、いの一番に名前が挙がるのが、きのうご紹介いたしました「赤門」。そして二番手は、この「三四郎池」ではないでしょうか。本郷通りから赤門をくぐって東大に入り、しばらくまっすぐ歩いてつきあたりを左に曲がる。と、ほどなく右手に見えて参りますのが、この「三四郎池」。こちらも、その由来はご存じの方が多いでしょう。夏目漱石の「初期三部作」の冒頭に位置づけられる作品、「三四郎」に登場することから、名付けられました。もともとは、この地にあった加賀前田家上屋敷、その庭園「育徳園」の「心字池」というのが、正しい名称でございます。
夏目漱石の「三四郎」が朝日新聞に連載されたのは、今からちょうど百年前の1908年(明治41年)のこと。いま歌声が聞こえております、ディック・ミネさんがこの世に生まれた年でございます。九州、熊本の高等学校を卒業して上京した小川三四郎が、帝国大学に入学。友人や先輩、先生、そして美しい女性と出会い、成長していく様を描いた小説です。池は、三四郎と、美しいヒロイン・美禰子の、出会いの場面に登場します。「ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、向こう側が高い崖の木立で、その後ろがはでな赤煉瓦のゴシック風の建築である」「二人は石橋を渡った。それで三四郎から一間ばかりの所へ来てひょいととまった。「これはなんでしょう」と言って、仰向いた。頭の上には大きな椎の木が、日の目のもらないほど厚い葉を茂らして、丸い形に、水ぎわまで張り出していた。「これは椎」と看護婦が言った。まるで子供に物を教えるようであった。「そう。実はなっていないの」と言いながら、仰向いた顔をもとへもどす、その拍子に三四郎を一目見た。三四郎はたしかに女の黒目の動く刹那を意識した。その時色彩の感じはことごとく消えて、なんともいえぬある物に出会った。そのある物は汽車の女に「あなたは度胸のないかたですね」と言われた時の感じとどこか似通っている。三四郎は恐ろしくなった」…わかりやすく言ってしまえば、ここから三四郎の恋が始まるわけです。帝国大学に入れるほどの秀才ではなかった私ですが、この「なんともいえぬある物」。青春時代に、確かに、感じたことがあるような気がいたします。皆様は、いかがでしょう?

3月5日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「古市公威」をご紹介します。
文京区本郷、東京大学の構内に足を踏み入れた方ならご存じとは思いますが、東大、広いです。用事があって行く時は、あらかじめ、場所を調べてから出掛ける方が、賢明です。文京区内には、ほぼ隣接して、本郷、弥生、そして浅野、三つのキャンパスがありますが、面積は合わせて55万平米。ざっと計算して、東京ドーム十二個分。不忍池の脇から構内に入って、赤門まで抜けようとすると、とっとと歩いても十五分はかかるという広さです。日本で最も古い大学、これまで日本を代表する人材を数限りなく輩出してきた東大ですから、構内にも多くの名所旧跡が溢れかえっているわけですが、偉人の銅像もたくさん設置されています。その数、全部で十四。この番組で、以前紹介した方では、鹿鳴館などを設計したジョサイア・コンドルの像が建っていますが、本日、スポットを当てますのは、こちらの方。
別に、東大構内に美空ひばりさんの像が建っている訳ではありませんので、誤解されませんように。いま、歌詞に出てきた「港」。お嬢、美空ひばりさんの故郷の港といえば横浜港ですが、この横浜港を始めとして、仙台、大阪など数多くの港湾や河川、鉄道などの工事にかかわったのが、本日の主人公、古市公威という方です。工科大学、後の東大工学部の初代学長、そして、日本土木学会の初代会長を務め、近代土木の父ともいわれる、この古市公威の銅像が、東大正門のすぐ近くに鎮座ましましていらっしゃいます。
高さ2m5センチという巨大なこの像ですが…。古市公威は、1854年(安政元年)、姫路藩士の子として、江戸に生まれています。幼いころから学問に秀でており、明治三年、大学に入ると、同期の中で常にトップ。そのころ、明治政府は、西洋の技術を学ばせるため、留学生を派遣させることにしましたが、古市は、その第一回生に選ばれ、パリに渡ります。
もしも、若いとき、パリに住む幸運に巡り会えば、後の人生をどこで過ごそうとも、パリは君とともにある。…こう書いたのは、かのアーネスト・ヘミングウエイですが、青春の日々をパリに送った古市は、果たしてこんな幸福を味わうことが出来たのか?本当は、もっと違う学問をしたかったかもしれないのに、新しい国を作るため、土木に身を投じた秀才、古市。彼の背中には、常に大日本帝国が重くのしかかっていました。最後に、パリ時代の有名なエピソードをご紹介しましょう。日頃から勉学一筋、勤勉実直を絵に描いたような古市。ある時、四十度近い熱でフラフラになりながらも、学校へ出かけようとするので、下宿のおかみさんが心配し、「ムッシュ古市、タマニワ ヤスマナイト体ニ毒ヨ」と声をかけた。すると古市先生、こう答えたのですね。「マダム、僕はどうしても行かなければなりません僕が一日休むと、日本が一日遅れるんです」

3月6日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「旧制一高の面影」をご紹介します。
本郷通りを、南から北へ。赤門を過ぎ、東大正門を過ぎて、さらに北へ進むと、言問通りとの交差点で、キャンパスはいったん区切られます。その北側にも、東京大学は広がっていますが、こちらは本郷キャンパスではなく「弥生キャンパス」。主に、農学部の敷地です。この、農学部の言問通りに近い一画には、「向陵碑」という石碑が建っています。向かう、という字に、丘、丘陵の「陵」という字を書いて、向陵。その昔はこのあたり「向ヶ丘」と呼ばれており、これは、即ち「旧制第一高等学校」を意味する言葉でした。実はこの碑、かつてこの地に、「旧制第一高等学校」があった、という記念碑なんですね。戦前の教育システムは、現在とかなり違っていました。ごく簡単な説明をすれば、旧制高校は、現在の大学の教養部のような存在といえばいいでしょうか。戦前は、旧制高校を卒業すれば、そのまま、ほぼ無試験で全国各地の帝国大学のどこかに入ることが出来ました。ただし、現在と違うのは、当時の大学生は、今とは比べ物にならないほどのエリートだったということ。昭和十年の大学進学率は、およそ3%で、現在はおよそ5割に達していますから、十七分の一!そんなエリートコースの入口が「旧制高校」だったのです。中でも「一高」は、その頂点に位置する学校で、一高→東京帝大というのは正にエリートの中のエリート。政界、財界から学術、芸術に至るまで、誰もが名前を知っているような有名な人物の山。名前を挙げていったらキリがありませんが、文学なら夏目漱石、正岡子規、谷崎潤一郎、芥川龍之介、菊池寛、川端康成、…まだまだいくらでもいます。川端康成の名作「伊豆の踊り子」で、踊り子に恋心を抱くのも、「一高生」という設定でございました。旧制高校は、全寮制が基本。むくつけき、十代後半から二十代前半の男たちが、朝から晩まで顔を付き合わせているわけですから、おのずと濃密な友情が形作られていきます。そこで、生まれるのが「寮歌」。仲間意識を高めるため、旧制高校ではたくさんの歌が作られ、一般に知られるようになった歌も少なくありません。中でも、一番有名なのが、先ほどお聞かせした「嗚呼玉杯に花受けて」でしょう。1902年(明治35年)に作られた歌で、演歌師などにより広められ、多くの人に愛唱されました。
1935年(昭和10年)、駒場にあった農学校と土地を交換し、第一高等学校は駒場へ移転。そして戦後の学制改革により、1950年(昭和25年)、およそ七十五年に及ぶ一高の歴史は閉じられ、東大教養学部へと引き継がれることになったのです。

3月7日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「安田講堂」をご紹介します。
東大の正門を入り、イチョウ並木の道をまっすぐ進んでいくと、その突き当たりにデーン! とそびえ立つのが「安田講堂」。安田財閥の創始者、安田善次郎の寄付により、1925年(大正14年)に竣工した建物です。これより以前、本郷キャンパスの中の建物は、各学部がめいめい、勝手にトンテンカンテンと作っていたため、統一感を欠き、なんとなく落ち着かない感じでした。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災で、敷地内の多くの建物が損傷を受けた。そうだ、これを機会に、構内をすっきりさせよう…と、当時の内田総長が、安田講堂までの道にイチョウ並木を植え、さらに、その真ん中あたりにこのメインストリートを横切る、もう一つのイチョウ並木を整備。いかにも、日本の最高学府という、見事なランドスケープを作り上げたのです。
1960年代末、学生運動華やかなりし頃。1968年(昭和43年)、東大では学生たちが安田講堂を占拠し、この年の卒業式は中止されました。この年、何度か、学生たちは安田講堂を乗っ取り、また大学側が警察の力を借りて排除するといったことが行われましたが、7月になると学生は講堂をバリケード封鎖。大きな社会問題となったのです。そして迎えた、翌、1969年(昭和44年)、1月18日。大学から出動要請を受けた、警視庁機動隊は、構内に突入、バリケードの撤去に取りかかりました。学生たちは、投石や、火炎瓶などにより、必死に抵抗。また、バリケードが予想以上に頑丈だったため、一気に取り外すことはできず、戦いはいったん終了。そして翌、1月19日、早朝6時半から、再び機動隊の攻撃開始。学生たちは必死の抵抗を試みましたが、次々に排除され、午後5時46分、屋上で90名が検挙されたのを最後に、戦いは終わりました。しかし、安田講堂の内部は荒れ果ててしまい、その後長く、閉鎖されることになったのです。修復が始まったのは1988年(昭和63年)。そして1991年(平成3年)になって、安田講堂はようやく、東大の卒業式に再び使われることになりました。実に、二十四年ぶりの出来事でした。現在東大では、安田講堂、そして今週ご紹介して参りました赤門、三四郎池などの、東大構内の名所をめぐる、「キャンパスツアー」を実施しています。ガイド役は現役東大生。ホームページなどから簡単に申し込めますので、今週の放送を聞いて興味を持たれた方、お出かけになられてみては、いかがでしょうか。

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