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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
4月14日(月)〜4月18日(金)
今週は、「団塊青春物語」。
還暦を迎えつつある戦後ベビーブームの子供たち、いわゆる「団塊世代」。
その青春を彩ったトピックをご紹介する五日間です。


4月14日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「アイビー」をご紹介します。
第二次世界大戦が終わったのが、昭和二十年(1945年)。戦場で運良く生き残った男たちは、懐かしい故郷へと戻り、愛する妻や恋人たちと再会します。すると不思議なことに、その翌年、2年後、3年後にかけて、赤ちゃんがドドドド…と大量に誕生して参ります。実際、いわゆる「人口ピラミッド」を眺めてみても、昭和二十二年、二十三年、二十四年の3年間はポコンと飛び出しておりまして、この時期に生まれた子供がいかに多いかがわかります。これが、いわゆる「ベビーブーム」というやつ。そして昭和五十一年(1976年)に、作家・堺屋太一が、この年代の人々を「団塊の世代」と呼び、それ以降、「団塊」という呼び名が定着して参ります。そして、今年はコア世代である昭和二十三年生まれの人々が、還暦を迎える記念すべき年。スペシャルウィークの今週、そんな団塊世代の青春時代を振り返ってみたいと思います。
懐かしいマイク真木さんの「バラが咲いた」。昭和四十一年(1966年)…と申しますから、昭和二十三年生まれが十八歳になる年の大ヒットです。このマイクさんに代表される、当時の若者たちが身にまとっていたファッションが、「アイビー」。火付け役は、「トレーナー」「TPO」といった言葉を思いつき、定着させた鬼才・石津謙介率いる「VAN」でした。
1950年代まで、「VAN」は大人向けブランドでしたが、60年代に入ると、若者をターゲットに、アメリカ東海岸の名門大学生たちのファッションを取り入れた「アイビー」のアイテムを続々と発売。団塊世代が購買力を持ち始める60年代半ばになると、その人気は爆発します。代表的な風俗として、現代史の本にもよく登場するのが「みゆき族」。昭和三十九年(1964年)、オリンピックの年、突如、銀座に出現した彼らは、ストライプのボタンダウンに細いコットンパンツ、靴はローファー、髪はクルーカット。そしてVANのロゴが入った紙袋を小脇に抱えて、何の目的もなく銀座・みゆき通り界隈をうろうろ徘徊する。戦前の日本では考えられなかったような「洋服・命」のナンパ野郎たちは、その多くが「団塊世代」だったんですね。 これがその紙袋!とにかくVANはカッコよかった。みゆき族の出現と同じ年、VANは日本橋から青山に移転。今でこそ青山は、東京でも一二を争うファッションの街、オッシャレーな男女が闊歩しておりますが、当時はまだ外苑西通りが舗装されておらず、砂利道。あたり一面、小さな木造住宅ばかりという有様でした。何の変哲もなかった住宅地を、日本一オシャレな街へと変わっていくきっかけになったのが、VANの移転でした。

4月15日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「平凡パンチ」をご紹介します。
東京オリンピックの年、昭和三十九年(1964年)。ビートルズ旋風が吹き荒れるこの年、四月末に発売されたのが、伝説の男性週刊誌「平凡パンチ」でございます。団塊から私達の世代、それから現在の四十代ぐらいまで、日本人の男性は、いろんな意味で、この雑誌に、大変お世話になった…という方が多いと思います。
「平凡パンチ」、版元は当時の平凡出版、現在のマガジンハウス。社屋があるのは、東銀座、歌舞伎座の裏あたり。今ではすっかり、立派な建物になっておりますが、「パンチ」創刊に当たり、社員として採用され、後にマガジンハウス社長も務められた赤木洋一さんは、著書「平凡パンチ1964」の中で、こう記しています。「銀座東三丁目、十一番地。銀座という地名がついていても、歌舞伎座裏の、人影もほとんどない妙に静かな一角。平凡出版は、そこに灰青色。灰青色のくすんだタイル張りという外観で建っていた。木造モルタルの建物としては、京橋消防署管内でも五本の指に入る「危険大型建造物」としてチェックされていたそうだ」そのころ、既に芸能誌「平凡」や、女性向けの「週刊平凡」をヒットさせていた平凡出版が、満を持して創刊する男性週刊誌。雑誌の名前も「平凡パンチ」とインパクトあるものでしたが、原稿を依頼するため電話をかけると、まだ認知度の低い頃は、「パンチ」を「パンツ」と聞き違われて、大変苦労した…なんてエピソードもあるそうです。いま、ここに、大橋歩さんのイラストによる、創刊号の表紙がございますが…。定価50円、134P。雑誌を開くと、真ん中には、当時としては衝撃的だった、大竹省二さん撮影による、折り込みの金髪女性ヌードグラビア。その裏側は、淡路恵子、岸田今日子、朝丘雪路、野際陽子といった女性トップタレントたちのキスマーク集。本文にも、立川談志家元によるプロ野球コラムなど、いろいろ面白そうな記事が載っていますが、中でも時代を感じさせるのが、座談会です。タイトルは「デートにセックスはふくまれる?」司会は作家、吉行淳之介さん。デパートガールや女子大生、ホステス、女優といった面々が語り合うというもの。もっとも、内容は「ムードのないデートなんてつまんない」「はっきりしない人には好感がもてません」といった、実にかわいらしいものでした。そして、トップ記事は、こちら!
「鈴鹿グランプリレース ポルシェ904をめぐるナゾ」。間近に迫った、第二回全日本グランプリの特集記事です。当時、若者たちの間で自動車は最大の興味の一つ。これに、セックス、そして昨日もお話しした「アイビー」などファッション、そしてスポーツなどをふんだんに盛り込み、団塊世代の青春ライフスタイルをいきいきと描き出した、それが「平凡パンチ」という雑誌でした。

4月16日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「エレキブーム」をご紹介します。
自動車、ファッション、スポーツ、デート。団塊世代の興味が果てしなく広がっていった1960年代半ば。もう一つ、忘れてはいけないのが「音楽」です。日本のムーヴメントでいえば、今聞こえております「ベンチャーズ」が火をつけた「エレキブーム」の凄まじさ!ベンチャーズの初来日は昭和三十七年(1962年)ですが、人気に火がついたのは三年後、昭和四十年の二回目の公演。昭和二十三年生まれの団塊コア世代が十七歳のこの年一月、ドン・ウイルソン、ボブ・ボーグル、ノーキー・エドワーズ、そしてメル・テイラーという黄金のラインアップが、「テケテケテケテケ」と日本中を熱狂させました。
そして、巻き起こったエレキブームを背景に、この年6月にスタートしたのが、フジテレビで放映された「勝ち抜きエレキ合戦」でした。「勝ち抜きエレキ合戦」は大変な人気番組となりました。GSブームの人気バンドとなる寺尾聡さんのザ・サベージ、ゴールデン・カップスなどもこの番組出身です。毎週5つのアマチュア・バンドが登場して、4週勝ち抜くとグランド・チャンピオン。また、あの安岡力也さんが在籍したシャープ・ホークスは、番組のレギュラーバンドとして毎週登場していました。司会は、タレントの鈴木ヤスシさん、アシスタントはジュディ・オングさん。各地のホールで公開録画が行われ、そのチケットは手に入れるのが本当に難しかった、と伝えられております。タレントのエド山口さんは、ベンチャーズが来日した時、この番組に出演した時の録音テープをお持ちだそうで、著書「激突!エレキ地獄」によれば、その時の会場は「三鷹公会堂」と「大磯ロングビーチ」。なんとも60年代的な懐かしさの漂う名前です。番組がヒットすれば、他のテレビ局が同じような企画を続々とスタートさせるのは昔も今も同じで、東京12チャンネルでは「エレキトーナメントショー」、日本テレビでは「世界へ飛び出せニューエレキサウンズ」NETでは「エキサイト・ショー」といった具合。また昭和四十年十二月には、お正月映画「エレキの若大将」が公開されました。ご覧になった方も多いと思いますが、劇中では若大将率いるバンドが、エレキ番組に登場。エレキブームの火に油を注ぎました。この映画の中の番組、司会は内田裕也さん。リードギターは寺内タケシさん、そしてライバルのバンドリーダーはジェリー藤尾さん。ちなみに二本立て興行のもう一本は、主演・ゴジラの「怪獣大戦争」。なんとも豪華なお正月番組でございます。おばあちゃんも踊り出す!

4月17日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「新宿 風月堂」をご紹介します。
昭和四十三年(1968年)、昭和二十三年生まれの団塊コア世代は、二十歳を迎えます。この世代の人口が多いのは世界的な傾向で、ま、その二十年ちょっと前まで、アジアやヨーロッパ全体で戦争が続いていた訳ですから、当たり前といえば当たり前。
そんな若者たちのパワーが、少しずつ世界を動かし始めていました。パリでは「五月革命」という名の反体制運動が高まり、またチェコスロバキアでは「プラハの春」と呼ばれる変革運動が起き、ソ連軍が進駐する騒ぎに発展します。アメリカではヒッピーが生まれる一方、学生たちはベトナム戦争反対運動に力を注いでいました。世界の動きに影響を受け、日本の団塊世代も、さまざまなムーヴメントを立ち上げつつあったこの年。そんな政治の動きに敏感な学生や、最先端の文化人たちが集う新宿のとある不思議な喫茶店が、最盛期を迎えていました。その名は、「風月堂」。場所は、三越の裏、現在大塚家具のショールームになっている場所の一画。お店の中には、オーナーのコレクションした美術品が並べられ、また、クラシックのレコードも豊富に用意されていて、リクエストすることも出来ました。オープンは昭和二十二年。戦後、焼け野原となった東京では数少ない、落ち着いた文化の香りに触れられる場所とあって、連日、若者や文化人たちで賑わいました。五木寛之さんの名作「青春の門」には、九州から上京した、主人公・信介が、インテリの娼婦・カオルに連れられて、この風月堂でコーヒーを飲む場面が登場します。六十年代の末も、後に名を成すことになる、たくさんの若者たちがこの店には集っておりまして、たとえば、いま歌声が聞こえている高田渡さんもその一人。また、世界の北野・ビートたけしさんや、先日「邦流」でお話を伺った松本隆さんも常連でした。そのころ、すでに有名人だった唐十郎さんや寺山修司さんも出入りしていて、風月堂は東京でもユニークな文化サロンとして、名高い存在だったのです。
混沌の季節であった、1960年代末。この風月堂は、芸術家や学生、そして政治活動家が集い、世界を巡るバックパッカーの情報交換の場所となり、また、ベトナム脱走兵が立ち寄るような、そんな場所でもありました。いま、音が聞こえている、ドラッグに溺れて早世した天才サックス・プレイヤー、阿部薫も、常連の一人だったそうです。しかし70年安保が成立して、学生運動の勢いが衰え、社会が落ち着きを見せるようになると、風月堂を訪れる客も、少しずつ減るようになります。そして、オイルショックを目前に控えた昭和四十八年(1973年)八月…団塊コア世代二十五歳のこの年に、その役割を終え、ひっそりと閉店したのです。では最後に、この店を歌った早川義夫さんの歌、その名も「風月堂」を聞きながら、お別れしたいと思います。

4月18日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「さよなら力石徹」をご紹介します。
団塊世代の若者たち、とりわけ男子学生の愛読誌といえば、まず「平凡パンチ」、ちょっと硬派なら「朝日ジャーナル」、そして軟派なら「メンズクラブ」。しかし、軟派であろうが、硬派であろうが、ほとんどの若者が愛読していた雑誌といえば、「少年マガジン」ではなかったでしょうか。お目当ての作品といえば、やはり、こちら。
おなじみ、「あしたのジョー」の主題歌、作詞は寺山修司さん、歌は尾藤イサオさん、名曲ですね。ドヤ街で育った少年院上がりのボクサー、矢吹丈が、世界を目指して闘っていくストーリーは、もう、皆様先刻ご承知のことと思います。連載がスタートしたのは、団塊コア世代が二十歳を迎えた、昭和四十三年(1968年)の新年号。原作者は高森朝雄こと、かの梶原一輝先生、そして漫画にしたのは「ちばてつや」先生でした。極真空手の猛者で武闘派のヒットメーカー、梶原大先生。その原作を変えることなど、誰も許されなかった当時、ちば先生は自分の納得のいくまで原作をいじり、キャラクター設定を変え、少しも譲らなかったそうです。この作品が、とりわけ団塊世代の若者たちに愛されたのも、「巨人の星」など他のスポ根作品と一線を画し、ちば作品ならではのヒューマンな魅力に溢れているからでは、なかったでしょうか。紛争の続くバリケードの中で、少年マガジンは回し読みされ、革命を夢見る若者たちは、ジョーの運命に一喜一憂していたのです。物語、前半のハイライトは、ジョーと、ライバル、力石徹との壮絶な戦い。
力石はジョーにKO勝ちを収めますが、その直後、無理な減量と後頭部を打ったことが原因で、亡くなります。昭和四十五年、二月二十二日に発売された号で、力石の死が描かれると、世間は騒然となり、「力石の葬式をやろう」という機運が盛り上がります。そして三月二十四日、文京区・音羽の講談社講堂で、力石徹の葬儀が盛大に行われました。葬儀委員長を務めたのは、かの寺山修司。寺山率いる劇団「天井桟敷」がこの儀式をプロデュースし、八百人ものファンが力石の死を悼んだのです。
力石の葬式から一週間後、三月三十一日、赤軍派による「よど号ハイジャック事件」が発生。リーダー田宮高麿は「我々はあしたのジョーである」という有名な声明文を残して北朝鮮へと去っていきました。団塊世代の青春の終わりが、少しずつ近づいていました。

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