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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
4月28日(月)〜5月2日(金)
今週は、「東京動物園めぐり」。
いよいよゴールデン・ウイーク突入ということで、東京の動物園にまつわるあれこれをお送りします。


4月28日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「多摩動物公園」をご紹介します。
今から半世紀前、1958年(昭和三十三年)、五月五日にオープンした「多摩動物公園」。今週の木曜日、五月一日には、開園五十周年の記念式典も開催されます。多摩丘陵に広がる、52・3ヘクタールの広大な敷地に、およそ百八十種類の動物が暮らしているこの動物園、開園当時の状況を、振り返ってみましょう。東京の動物園といえばまず「上野」の名前が挙がります。その頃、上野動物園は、飼育する動物が多く、過密状態。また、都会のまん真ん中にあることから、来園者も多く、せっかく広々とした動物園に来たつもりでも、まるでラッシュアワーのような状態になることが多い。人間にとっても、動物にとっても、ストレスが溜まりやすい動物園だったのです。なんとか郊外に広いスペースを確保して、人間も動物も、のんびり過ごせる動物園を作りたい…というのが、関係者たちの願いだったんですね。そこで白羽の矢が立てられたのが、新宿区の、「陸軍戸山学校」の跡地。昭和二十二年、この広大な敷地に、第二動物園、「新宿動物園」をオープンさせようという企画は、東京都も認め、予算までついておりました。が。進駐軍から「待った」が、かかってしまったのです。当時は、終戦直後の混乱期。住まいに困る都民も多かった。人間の住む場所がなくて困っているときに、のんびり動物園など作っている場合か、そんな土地があるなら住宅を建てなさい…とのお達し。進駐軍の命令は絶対です。新宿動物園の計画は頓挫、この土地には都営住宅「戸山ハイツ」が建設されました。あきらめきれない関係者たちは、動物園を作ることができる広い土地を求め、ようやく探し当てたのが、多摩丘陵のこの場所だったのです。
多摩動物公園の名物といえば、何といってもライオンバス。今でこそ、各地にサファリパークが誕生し、車の中から動物を見るのは珍しくありません。しかし、1964年(昭和三十九年)にこのバスが運行を開始したときは、「ホントに大丈夫なの?」と、ずいぶん、議論を巻き起こしたとか。もともと、多摩動物公園は、アジアの動物を中心に展示を行う予定でしたが、動物園にライオンがいないなんて!…と、ガッカリする子供達が多く、急きょアフリカのゾーンを作ることが決まりました。
そして開園から四年目の昭和三十七年に、キリンやシマウマ、ダチョウなどを飼う「アフリカ園」がオープン。さらに二年後、このライオンパークが公開されたのです。最後に、当時のパンフレットの一部をご紹介しましょう。「文明都市にある動物園で、ライオンが放し飼いされたこのような公園に、自動車を乗り入れて見物できますのは、多摩動物公園が世界で初めでです」

4月29日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。

4月30日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「井の頭自然文化園」をご紹介します。
上野や多摩に比べると、こぢんまりした印象のある、井の頭自然文化園。以前、この時間で、明治の末ごろから、ここに問題を起こした少年を収容する施設、「感化院」があったというエピソードをご紹介しました。そのごろは、まだのどかな田舎だったこのあたりも、次第に宅地化が進みます。すると、施設を置いておくのがはばかられるようになり、昭和十四年、さらに郊外へと移転します。そして、入れ替わるように作られたのが、「井の頭自然文化園」だったのです。オープンは、1942年(昭和十七年)5月のことでした。
井の頭自然文化園のスターといえば、象の「はな子」さん。戦後、初めて日本にやってきた象です。去年、めでたく還暦、おめでたい限りでございます。1949年(昭和二十四年)、2歳半のときに来日。最初は上野で暮らしていましたが、五年後に井の頭にお引越し、それ以来、半世紀以上をこの武蔵野の地で過ごしています。歯が一本だけになってからでも、既に二十五年。餌はすべてペースト状にして与えられていますが、それでも元気に毎日を過ごしています。さて、その「はな子」さんが引っ越してきた前の年、昭和二十七年に自然文化園にやって来たのが、彫刻家の北村西望。長崎市から、平和祈念像作成の依頼を受けた西望は、この自然文化園の一部を東京都から借り受けてアトリエとし、製作に打ち込みました。現在、その跡地には彫刻館が置かれ、西望の作品が展示されています。ここも、井の頭では見逃せないスポットのひとつです。
井の頭自然文化園は、はな子さんのいる「本園」と、道を隔てた、井の頭池の隣にある「分園」に分かれています。こちらでは、池のほとりというロケーションを生かして、水鳥や魚、両生類などが飼育されているわけですが、さて、皆様。今年がどんな年だか、ご存知でしょうか?実は、今年、2008年(平成二十年)は、「国際カエル年」。恐ろしいツボカビ病などにより、絶滅の危機に瀕している両生類を救おうと、国際自然保護連合などが展開しているプロジェクトです。自然文化園でも、カエルが減少した原因や、絶滅を防ぐにはどうすればいいかをパネルで展示。また、日本のカエルキャラクターや、世界の童話の中のカエルを資料館で展示する「カエルと人のコラボ文化展」など、さまざまなイベントを開催しています。カエル好きな皆様に、お勧めでございます。

5月1日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「葛西臨海水族園」をご紹介します。
JR京葉線、葛西臨海公園駅のすぐ近く。魚たちの美しい姿を心ゆくまで味わうことができる、まるで竜宮城のような場所があります。その名も「葛西臨海水族園」、オープンは、1989年(平成元年)。今週ご紹介する中で、もっとも歴史の浅いスポットです。
こちらの呼び物、いろいろございますが、やはり一番有名なのは、巨大マグロが泳ぐ、直径二十八メートルのドーナツ型大水槽でしょう。私たちにとって、もっとも身近な魚でありながら、水族館で見ることは難しかった「マグロ」。常に泳ぎ続けていないと死んでしまうため、狭い水槽で飼育するのは、かつては不可能でした。しかし、アクリルガラス加工技術の発達などにより、水槽で、生きたマグロを飼うことができるようになったのです。このあたり、かつては干潟だった場所で、海苔の養殖などが盛んに行われていました。今から四十年ほど前から埋め立てが進み、かつては「埋立地」と呼ばれていましたが、この「葛西臨海水族園」がオープンするころから、「ウォーターフロント」としてもてはやされるようになります。すぐ隣にあるディズニーランドも、今年で二十五周年!お台場や夢の島、埋立地のあたりがスポットを浴びたのは、つい、昨日のことのような気がいたしますが、もうそんなに時間が流れてしまったんですねえ…
さて、葛西臨海水族園の目玉は、魚だけではありません。「水族館」ではなく「水族園」というだけあって、魚のほかにも、水辺の生き物がたくさん集められています。ペンギンなどの鳥類も、名物になっていますが、中でも珍しいのが、「エトピリカ」。いま、知床旅情の歌の中に「ピリカ」という歌詞が出てきましたが、これ、アイヌの言葉で「美しい」という意味。そして、「エト」は、「くちばし」。「美しいくちばし」というその名の通り、繁殖期になると、くちばしが鮮やかなオレンジ色になります。さらに頭にも金色の房のような飾り羽根が生えて、派手なその姿は、「おいらん鳥」とも呼ばれるほどなんですね。
ここ葛西では、こんな珍しい鳥に会うこともできます。ゴールデンウィークの期間中は、「こいのぼり」ならぬ、珍しい「マグロのぼり」が目印になっている葛西臨海水族園、近くには人工なぎさも造られて、海と親しむこともできます。
この連休、潮風に吹かれてみてはいかがでしょう?

5月2日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「上野動物園」をご紹介します。
動物園では、いろんなことが起きる…歌っているのはサイモンとガーファンクルです。そう、ただでさえ、話題の多い動物園なのに、1882年(明治十五年)開業の上野動物園となると、そのエピソードは枚挙にいとまがございません。1936年(昭和十一年)には、以前にもご紹介した、「クロヒョウ脱走事件」が起きています。この事件は、この年の三大事件の一つといわれており、残りの二つは「226事件」そして「阿部定事件」。ホントに大事件だったんですね。そして、もっとも有名な、悲しいものは、第二次世界大戦末期に、ゾウを始めとする動物たちを、殺さなければならなかった、あのお話でしょう。動物園の表門から入場して、パンダを眺めた後、「動物慰霊碑」の前まで来ると、思わず居住まいを正してしまうという方、たくさんいらっしゃることと思います。
さて、この慰霊碑の裏側に、墓地があるのを、皆様、ご存じでしょうか。この墓地は、慰霊碑に祀られている動物のものではありません。実は、ここに動物園ができるずっと以前、この地に屋敷をもっていた大名、藤堂家のものです。初代は、戦国時代に活躍した武将で、豊臣家に仕えたのち、徳川家康の信任厚い部下となった藤堂高虎。領地は現在の三重県、伊賀上野のあたりで、東京の「上野」も、この高虎の領地から名付けられた、という説もあるほどです。明治維新のとき、上野の山は戦場となり、後に動物園が作られましたが、藤堂家の墓はそのまま残されました。広さは、およそ、1000平方メートル。動物園の面積からも、この分は、除外されています。
1972年(昭和四十七年)、十月末。当時、ヒットチャートの1位に輝いていたのが、今聞こえております、天地真理さん「虹をわたって」でした。国民的アイドルとして人気絶頂だった真理ちゃんですが、当時、負けず劣らず…と申しますか、はっきりいってそれ以上、国民的な人気を集めていたのが、国交回復を記念して中国から贈られたパンダ、カンカンとランランでした。十月二十八日、日本に到着した二頭は、十一月五日から一般公開が始まりましたが、最初はわずか一日二時間。にもかかわらず、一万七千八百八十人が押しかけ、行列は1キロも続いたそうです。ランランは七年後に亡くなりますが、それまでに日本の人口のおよそ四人に一人、三千二百万もの人々が、パンダを見に上野を訪れたそうです。現在、上野に残るたった一頭のパンダ、リンリンは二十二歳。まだまだ、長生きしてほしいものです。

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