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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
6月2日(月)〜6月6日(金)
今週は、「副都心線沿線案内」。
来週の土曜日、十四日に開業する地下鉄の新路線、「副都心線」の沿線を旅してまいります。


6月2日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「雑司が谷駅」をご紹介します。
東京メトロ、最後の新線とも言われる「副都心線」。今回開通するのは、池袋と渋谷の間、8・9キロです。明治通りの地下を通って、池袋、新宿、渋谷、三つの巨大な盛り場が結ばれることになり、人の流れも大きく変わっていくのでは、と見られています。確かに、埼玉の川越や所沢から、乗り換えなしで、新宿、そして渋谷まで行けるわけですから、沿線の皆さんにとっては、ワクワクするような話ですよね。しかも、四年後には、この副都心線、東急東横線とも相互直通運転を始める予定だそうで、こうなると、川越あたりから、池袋、新宿、渋谷を通って、横浜、中華街までが一本の電車まで結ばれてしまいます。鉄道ファンならずとも、胸のときめく話ですよね。
今回の開通区間で、新たに設けられる駅は池袋を出て順番に雑司が谷、西早稲田、東新宿、新宿三丁目、北参道、明治神宮前、そして渋谷。本日は、まず、雑司が谷駅周辺からご案内を始めましょう。雑司が谷といえば、まず思い出すのが「雑司が谷霊園」。この番組でも、以前、ご紹介しましたが、ここは、日本で最初の近代的な霊園です。数多くの有名人が眠っていることでも有名ですが、たとえば、この「リンゴの歌」などの作詞で知られる詩人、サトウハチローさんもその一人。また、音楽関係者でいえば…、ピンキーとキラーズ「恋の季節」の作曲者である、いずみたくさんのお墓も、こちらにあります。
「雑司が谷霊園」副都心線 沿線散歩には、欠かせないスポットの一つです。
懐かしい、田中角栄 元首相の肉声が聞こえてまいりました。雑司が谷駅から、目白通りを東に進んで参りますと、右側にあったのが、かつての「目白御殿」。そう、あの田中角栄 元首相の大邸宅の跡地です。「今太閤」と呼ばれた田中元首相が亡くなられたのが、平成5年、1993年のこと。およそ二千五百坪あった広大な屋敷は、相続税として一部が物納されました。地元、文京区では、この土地を生かして公園を計画中ですが、駐車場や管理棟建設のため、貴重な樹木が伐採されるとして、田中真紀子議員夫妻が、建築の差し止めを求める訴訟を起こしているというニュースが報じられました。昭和史を肌で感じられる貴重な場所だけに、なんとか円満に解決していただきたいものです。

6月3日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「西早稲田」をご紹介します。
西早稲田駅は、明治通りと諏訪通りの交差点の地下。「諏訪通り」というのは、このあたりの鎮守様、「諏訪神社」の名前から取られた通りでございます。伝わるところによりますれば、この諏訪神社ができたのは、いまから千二百年近く前、平安時代も初期のこと。百人一首に、「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」の歌がある、小野篁…この方、小野妹子の子孫に当たりますが、この小野篁が、大国主命と、事代主命をお祭りしたのが、始まりなんだそうで、大変歴史の古い神社でございます。
さて、その諏訪神社から明治通りをはさんで、おおよそ「はすむかい」の位置にあるのが、国指定の重要文化財「学習院旧正門」。現在は、学習院女子大学の正門となっております。鋳物の街、川口の名工の手になるこちらの門。唐草模様が施された、和洋折衷形式の、 たいへん美しい仕上がりとなっています。明治十年(1877年)、学習院の前身である、「華やかな族」と書く、「華族学校」の正門として建てられましたが、九年後に校舎が火事で焼け落ちます。学校は引っ越しましたが、門は取り残され、その後、各地を転々とし、数奇な運命をたどりましたが、昭和三年(1928年)に、目白の学習院に引き取られ、昭和二十四年(1949年)に、現在の明治通り沿いに設置されました。今回の地下鉄工事にあわせて、若干移動することになり、合わせて、鮮やかな化粧直しを施されております。とても美しい門なので、お近くにお出かけの際は、ぜひご覧になってみてください。
さて、学習院女子大から、明治通りをはさんだ反対側は、先々週、怪人二十面相のときにもお話に出た、陸軍の実弾射撃場があった、通称「戸山が原」実はこちら、日本で始めての飛行機実験が行われた場所です。明治四十三年(1910年)三月、日野熊蔵大尉が、自ら製作した飛行機をここで飛ばそうとしたのです。結果は、滑走したものの、飛び上がることなく失敗。実際には、滑走路が200Mほどしかなく短かったのと、見物人が多すぎて邪魔になったからだ、とされています。日野大尉と、同僚の徳川好敏大尉が代々木練兵場で初飛行に成功するのは、この日からおよそ九ヵ月後のことになります。

6月4日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「東新宿」をご紹介します。
都営大江戸線との乗換駅、東新宿。コリアンタウンの最寄り駅でもありますが、この東新宿駅から、山手線方面に向かって、職安通りを進んでいくと、ほどなく右側に、通称「軍艦マンション」と呼ばれる、おもしろい形をした建物が見えて参ります。正式名称を「ニュースカイビル」というこの建物ですが…
建物を設計したのは、渡邊洋治さんという、大日本帝国海軍出身の建築家。普通なら、タテに置くことの多い給水タンクを、横において吊り下げ式にするあたり、正に軍艦そのもの。中に入ることはできませんが、一見の価値ある建物です。
さて、この「軍艦マンション」の周辺には、いくつもの文学者の足跡が残されているんですね。マンションのすぐ裏手にあるのが、ラフカディオ・ハーン、小泉八雲が晩年に住んだ土地。現在の大久保小学校の脇に、その場所を表す碑が建てられています。また、近くには「小泉八雲記念公園」が設けられ、立派な胸像が設置されております。八雲は、ここで明治三十七年(1904年)の九月に世を去りますが、それからおよそ半年後、明治三十八年(1905年)四月、職安通りを挟んだ、ほぼ向かい側に引っ越してきたのが、島崎藤村です。藤村は、翌年十月に引っ越すまでのおよそ一年半の間、現在の歌舞伎町二丁目、当時の南豊島郡西大久保に暮らします。代表作「破戒」を執筆していた、文学史上でも重要な時期にあたりますが、私生活上では、相次ぐ不幸に見舞われています。引っ越しから一週間後、三女がハシカから脳膜炎を起こし急死。翌年四月には、二女が腸カタルで死去。そして二ヵ月後、さらに長女までもが三女と同じく、ハシカから脳膜炎を起こして、死去。わずか一年半の間に、一歳、三歳、五歳の三人の娘を失った藤村、辛かったでしょうねえ。
エレファントカシマシ、氣志團、そしてスピッツ。共通点がおわかりでしょうか?島崎藤村の旧居あとから、明治通りに歩いて出ると、すぐ目の前に見えるライブハウス「新宿JAM」。そう、この小さなライブハウスに、後にアリーナ級の会場を満杯にする人気者たちが、かつて出演していたのです。軍艦マンション、文学者の旧居あと、エスニックタウン、そして老舗のライブハウス…歩けば歩くほど、東新宿界隈、面白い土地です。

6月5日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「新宿三丁目」をご紹介します。
東京メトロ 丸の内線、そして都営地下鉄 新宿線、二つの路線との乗換駅となる「新宿三丁目」。新宿のまん真ん中にできる副都心線の駅は、北は花園神社のすぐ脇から、南は高島屋デパートまで、およそ800m、ヒジョーに細長い構造となっております。この駅の完成で、地下通路をたどれば、西は都庁から、新宿駅を通って、伊勢丹、高島屋、そして花園神社まで、新宿地域の凄まじい地下回廊が出来上がるわけです。もっとも北側にあたる、花園神社。繁華街の真ん中にある神社としては、あまりにもぴったりなネーミングではございますが、別に、歌舞伎町にあるからといって、こういう名前になった…というわけでは、決してございません。もとは「四谷追分稲荷神社」などと呼ばれていましたが、このあたりに、尾張徳川家別邸の花園があったことから、いつしか「花園神社」と呼ばれるようになり、ついには昭和四十一年(1966年)、その名を正式名称にしてしまったそうです。そして、翌年、この神社の境内で、演劇史上のエポックメーキングとなった伝説的な公演が行われるのです。
おなじみ「笛吹童子」のオープニング・テーマです。昭和四十二年(1967年)8月5日、唐十郎率いる状況劇場「赤テント」の花園神社での第一回公演「腰巻お仙」は、この曲と共に幕を開けました。それまでは劇場で演じられるものと思い込んでいた演劇を、街の中に解き放った画期的なイベント。当時、新宿に集っていた若者たちは、瞬く間に、この新しい形の芝居の虜になっていきました。ここから生まれた動きが、それまでの新劇中心だった日本の近代演劇の流れを大きく変えることになり、七十年代の小劇場ブームへとつながっていくわけです。この状況劇場からは、後に、根津甚八、小林薫、佐野史郎といったスターたちが次々に生まれていきます。
花園神社は、もともと、芸能に縁の深い神社です。江戸時代から、何度も火災にあって社殿が焼けましたが、そのたびに、境内で芝居の興行を行い、建て直しをしていたんだそうです。現在も状況劇場後に唐さんが作った「唐組」の公演が行われています。そして、おなじみ「上々颱風」の七夕コンサートも!今年は七月五日の土曜日に行われます。

6月6日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「北参道・明治神宮前」をご紹介します。
「北に参る道」と書いて、北参道。どこにお参りするのか…といえば、明治神宮。そう、「北参道」も「明治神宮前」も、どちらも、「明治神宮」にちなんだ駅というわけなんですね。ちなみに、東京メトロにはもうひとつ「表参道」駅が。ついでに、明治神宮の西側には、小田急線「参宮橋」駅、これは「宮に参る橋」と書きますが、ここからは「西参道」が境内に続いております。JR山手線に乗ればよくわかりますが、代々木駅と原宿駅の間、線路の外側に広がる広大な森、その面積、およそ七十万平方メートル。東京ドームにして、十五個がすっぽり入る広さです。そして、もう一つ驚かざるを得ないのは、この見事な森が、人工的に作られたもの、ということではないでしょうか。
北原白秋作詞・山田耕筰作曲、「あわて床屋」。明治天皇、昭憲皇太后をおまつりする神社として、明治神宮がオープンしたのは、この曲がはやった大正九年、1920年のこと。大正の初め頃から、全国からやってきたのべ十一万人にも及ぶ勤労奉仕の青年団によって造成工事が行われ、これまた全国から贈られた十万本もの苗木が植えられていったのです。どんな種類の木を植えるかを考えたのは、植物学者たち。当時、東京の空気は既に汚れ始めており、スギなどの名高い老木が次々に枯れていました。百年後に美しい森を作り上げるはどうすればいいか?…と知恵を絞った結果、選ばれたのがシイやカシ、クスノキなどの「照葉樹」。時の首相、大隈重信は「神宮をヤブにするつもりか!」と、猛反対、立派な杉並木を植えろと主張しましたが、関係者たちが「東京でスギは無理でございます」と必死に説得、都会に強い木を集めた森作りが可能になりました。当時は、まだヒョロヒョロしていた苗木も、九十年近い時を経て、鬱蒼とした森へと変貌を遂げています。
村田英雄さんの大ヒット「王将」です。「北参道駅」ができて、より便利になるのがファンにはおなじみの将棋のメッカ「将棋会館」。一階のショップでは将棋板や駒、扇子、参考書、またストラップやキーホルダー、マウスパッドなど豊富なグッズ類が販売されています。将棋に縁のない方でも、けっこう、楽しめますよ。

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