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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
7月7日(月)〜7月11日(金)
今週は、「環状七号線物語」。
東京を貫く大動脈の一つ、環状七号線にまつわるさまざまなエピソードをご紹介して参ります。


7月7日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は「環状道路ABC」
戦前から戦後にかけての、東京の道路事情を探ります。
まずは「環状七号線」をざっとご紹介いたします。大田区の平和島から、江戸川区臨海町(りんかいちょう)まで。大田区から始まって、目黒、世田谷、杉並、中野、練馬、板橋、北、足立、葛飾、江戸川と、実に十一の区にまたがって走る、総延長52・5キロの幹線道路でございます。東京の、と申しますか、日本の道路の中心は日本橋。ここから枝分かれした沢山の道が、日本中、四方八方へと伸びて参ります。これが、中心から外へとつながる「放射」道路。一方で、放射道路から放射道路へと移動したい場合…たとえば、中仙道の板橋あたりから、東海道の大森へ行きたい。
いちいち、日本橋へ戻ってから行くのでは、遠回りで不便です。そこで、造られたのが、放射道路どうしをつなぐ、環状道路。環七も、そのうちの一本、というわけです。環状道路としては、この外側に環八、環状八号線がありますが、それでは、内側の一号線から六号線まではどうなっているか?環状一号線は、皇居の外周道路、いわゆる「内堀通り」。二号線は「外堀通り」。三号線は、部分的に開通しておりまして、「外苑東通り」「言問通り」「三ツ目通り」と呼ばれています。四号線は、「外苑西通り」、五号線は「明治通り」、そして六号線は「山手通り」。日常的に、都内をクルマで走られる方なら、「あ、なるほど」と納得いただけるかもしれません。三号線、四号線は計画されたものの未開通の部分が多い。まあ、道路といっても、お役人が地図に線を引いただけ。普通に人が暮らしているところにグイグイと通してしまおうというのですから、そう、一筋縄に行くものではありません。環七は、内側の一号線から六号線、そして外側の八号線と共に、昭和二年(1927年)、関東大震災後の都市整備計画である、「大東京道路網計画」で、その構想が発表されています。既に戦前から工事は始まっておりまして、昭和十五年(1940年)には、日本で最も古い、インターチェンジ型の交差点、国道一号と交差する「松原陸橋」が作られています。
しかし、戦後の混乱の中、計画はしばしの間忘れ去られ、後の「環七」周辺でも、のんびりした毎日が続いていきました。ところが、東京の道路は、基本的に放射道路を中心に整備が進められたので、環状道路はおろそかにされていた。で、モータリゼーションが進んでくると、凄まじい交通渋滞が引き起こされてしまったんですね。そこで、「環七」は再び注目を集めたわけですが、戦後、都市化の進んだ二十三区に、新たな四車線の道路をこしらえるなぞ、気が遠くなる大事業。よほどのことがなければ、こんな計画、うまくいくはずもない。ところが、昭和三十年代後半、その「よほどのこと」が、実際に起きてしまうのです…といったところで、お時間となりました。続きは、また、明日。

7月8日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は「動き出した環七」
環状七号線の本格的な工事の始まりごろのお話です。
環状七号線は、関東大震災後に計画され、戦前から一部で工事が始まっていました。一方、戦後、モータリゼーションが進むにつれ、東海道や甲州街道、青梅街道や中山道など、東京から地方へ向かう放射道路を、タテにつないで連絡する環状道路の必要性が高まります。とはいうものの、二十三区内はどんどん都市化が進んでいく。よほどのことがない限り、現在の環状七号線のような、大規模の道路を建設することは、難しくなっていました。ところが、昭和三十四年(1959年)、5月26日。その「よほどのこと」が現実になります。
この日、ミュンヘンで開かれたIOC総会で、次の次、5年後 昭和三十九年(1964年)の夏のオリンピックを、東京で開催することが決定。これで日本も、ようやく先進国の仲間入り、めでたい、めでたい…と歓迎ムード一色でしたが、それは、同時に、古きよき東京の「終わりの始まり」でもありました。この番組でも、モノレールや高速道路など、オリンピックに備えて突貫工事で造られたさまざまな東京のインフラをご紹介してきましたが、「環状七号線」も、まさしく、オリンピックの産物でした。環七は、大田区平和島から、江戸川区臨海町にかけて、全部で52・5キロに及ぶ長い幹線道路ですが、オリンピックに向け、突貫工事で造られることになったのが、大田区から北区にかけての西半分。海外からの選手団を迎え入れる玄関口である羽田空港と、サッカーやバレーボールなどが行われる駒沢競技場、そしてボートレースの会場となる戸田漕艇場を結ぶため、どうしても必要だ…というのが、工事が急がれる理由でした。
そして、環七と共に、もう一本、オリンピックのために大規模な拡幅工事が行われた道路があります。それは、赤坂見附から青山、渋谷を通り、三軒茶屋、多摩川へ向かう国道246号線、青山通り。それまでの22mが、一気に40mまで広げられました。こちらは、メインスタジアムの国立競技場と、サブ会場の駒沢地区を連絡するため、というのが大義名分でしたが、この大工事で、静かな住宅地だった青山あたりの雰囲気は一変してしまいます。いまだに、賛否両論のある、この首都改造。確かに、経済成長にインフラ整備が追いつかなかったのが、オリンピックのおかげで、なんとか近代都市に生まれ変わることができた、という側面はあります。しかし映画「三丁目の夕日」に見られるような、懐かしい東京の風景が、すっかり消えてしまったのも事実。いま、再び2016年のオリンピック招致が話題ですが、もし実現すれば、私たちが親しんでいる現在の東京風景も、また、すっかり形を変えてしまうんでしょうねえ。

7月9日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は「環七 最大の危機」
もしかしたら、環状七号線が開通しなかったかもしれない…というお話です。
懐かしい、三橋美智也さんの歌声、テレビ映画「快傑ハリマオ」のテーマソングです。環七が開通する契機となった、東京オリンピックの開催が決まったのが、この番組が始まった昭和34年(1959年)。日常的に環七をご利用の方ならお気づきでしょうが、日中はともかく、夜間ともなりますと、環状七号線、ほぼノンストップで、すっ飛ばすことができます。理由は、幹線道路や鉄道のほとんどと立体交差が実現し、高速道路に近い使い勝手が実現しているからです。これも「オリンピック効果」の一つ。それにしてもたかだか、羽田と駒沢、戸田を結ぶだけの目的で、これだけの大規模な道路が必要なのでしょうか?
実は、突貫工事で環七を通してしまった裏には、もう一つのオリンピック施設が絡んでいます。それは、選手村。東京オリンピックの選手村は、現在の代々木公園に作られていましたが、昭和三十四年から三十六年…即ち、オリンピックのわずか三年前までは、埼玉県朝霞市に建設される予定だったのです。つまり、環七は、朝霞の選手村と、羽田空港を結ぶ、重要な幹線道路として、当初、計画されていた、というわけ。それなら、あの高速道路並みの立体交差の連続も、なるほど…と、ナットクがいきますよね。昭和三十四年といえば、戦後、わずか十四年。都内、そして近郊のあちこちに、まだまだアメリカ軍の関連施設がたくさん残されていました。現在の代々木公園には、将校用住宅のワシントン・ハイツ。朝霞市には基地、「キャンプ・ドレイク」がありました。戦後、接収された米軍施設が少しずつ返還されている時期だったこともあり、日本側は、「返還してくれるだろう」とあてこみ、朝霞を選手村に想定。環七の工事を始めていました。もちろん、道路予定地にはたくさんの住民が住んでいましたが、「オリンピックのためだから」と、大量の補償金をばらまき、立ち退かせては道路をグイグイ伸ばしていたんですね。
ところが! アメリカは、日本が提案した朝霞を拒否。代わりに、代々木の返還を申し出てきたのです。オリンピック開催決定の翌年は、安保の年。東大生・樺美智子さんがデモの最中に命を落とすなど、騒然たる雰囲気の中、日米安保条約が改定されました。日本の対米感情は、最悪といってもいい時期だったのです。そこで、アメリカ側は、朝霞のキャンプ・ドレイクより、都心の一等地にあるワシントン・ハイツを返還し、風当たりを弱めようと考えた。これは軍の再編計画の一環でもありました。この「青天の霹靂」にてんやわんやとなったのが日本側。朝霞選手村がオジャンになれば、環七の大義名分が失われる。しかも、オリンピックまでわずか三年しか残っていない!どうすりゃいいんだ、と、頭を抱えたところで、アメリカさんの意向には逆らえません。結局のところ、選手村は代々木に建設されることに。そして環七も、五輪とは関係が薄いけど、重要な道路なのは確かだから…と、そのまま突貫工事が続けられることになったのです。

7月10日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、オリンピック開幕直前の、環七の動きを探ります。
オリンピックの凄まじい勢いと共に、高度経済成長時代に突入していった日本。いま聞こえているCMソング、レナウンの「ワンサカ娘」など、この時代を象徴する名曲だと思います。さて、本日も環七の話題。本当なら、朝霞に作られる予定だった選手村と、都内、羽田空港を結ぶ大動脈になるはずだった、大田区から北区までの、環七の西側区間。ところが、「ワンサカ娘」が街に流れ始めた昭和三十六年、わずかオリンピックの3年前になって、選手村の場所が代々木へと変更されてしまいました。まあ、都内の渋滞がひどいことになっていたのは確かで、いずれ作らなければいけない道路ではありましたが、それ立ち退きだ、強制収用だ、ブルドーザーだ…と、大慌てで作る大義名分は失われてしまったわけです。それでも、止まらないのが、いったん走り出した公共工事というもので、とにかく「羽田空港と駒沢、そして戸田漕艇場を結ぶ必要なルート」と格好をつけて、突貫工事は続きました。当時の国会の議事録を見ると、いろいろ面白いやりとりがあります。
たとえば、昭和三十七年七月三十一日、第四十回国会、衆議院オリンピック東京大会準備促進特別委員会での、東京都 竹ケ原建設本部長の答弁。ちなみに、オリンピックまであと2年2ヶ月という時点です。「…何と申しましても、千メートル画に一万何千人住んでおる密度の高い町のどまん中を切り抜いて道路をつくる、というのでございまして、難事中の難事ではございますが、御協力によりまして、この全体計画で買収する土地が約十八万四千坪あるのでございますが、十月末で約七〇%の約十三万坪買収決定いたしたわけでございます」残り、2年で、あと5万4千坪あまりを買収し、建っている家をぶっ壊し、残骸を片付け、整地して、舗装して、さらに鉄道や道路との立体交差を仕上げる。これは、かなり、ムチャです。で、どんなことになったのか。
開会式からおよそ八ヶ月前、昭和三十九年二月十九日、こちらは参議院 特別委員会での、佐藤栄作 国務大臣の答弁。「歩道のほうに物が置かれたり、あるいは排土をそのほうに 持っていったりして、とにかく歩道が体をなしていない。したがって、雨が降ったりなんかいたしますと、歩行者が非常な不便を感じておる。どうも工事その物が車道というか、自動車には敬意を表しているが、人間の歩く道についてはどうも敬意を表していないのじゃないか、この点はまことにまずい、もっと人間のほうを大事にしたらどうか」どんな状況だったんでしょうか、とにかく、ムチャな感じが、ひしひしと、伝わってまいります。環七、西側部分、最後に残された難工事は当時の国鉄、中央線との立体交差でした。中野と高円寺の間が高架化され、ようやく環状七号線の西側部分が開通したのは、昭和三十九年、九月二十二日。開会式のわずか十八日前でした。

7月11日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「環七今昔物語」をご紹介します。
オリンピックの御旗のもと、突貫工事で作られた環状七号線。そこには、もともと、何があったのでしょう。基本的には、古くからあった道を利用して、それを、周りに建っている家や土地を買収して道幅を広げ、曲り道を、車が通りやすいようできるだけ直線に仕上げました。では、その、古くからあった道…というのは、どんな道だったのでしょう?聞こえているのは、落語「堀の内」。江戸時代から人々の信仰を集めていた、杉並区堀の内の「妙法寺」にちなんで、環七の西側部分は、もともと、「堀の内道」と呼ばれる由緒ある道でした。この「堀の内道」は、妙法寺と、同じく日蓮宗の名刹、大田区池上の、大本山 池上本門寺とをつなぐ、いわば「信仰の道」だったのです。それだけに、道に沿ったあちこちには商店街が栄えていました。あの池波正太郎さんが「鬼平」を書く参考にしたという、有名な江戸のガイドブック「江戸買い物ひとり案内」にも、堀之内道にある茶店が何軒も登場してまいります。
戦後になっても、野方、代田橋、世田谷代田…といった、鉄道の駅界隈は、かなりの賑わいを見せていました。ところが、その真ん中に、ドーン! と環七が通った。片側二車線の広い道を、クルマがビュンビュン通り過ぎる。横断歩道まで行くのも骨が折れるし、子供やお年よりは危険…というわけで、栄えていた街も道路に分断されてしまい、商店街も、少しずつ、元気をなくしていったのです。私たちの暮らしは、環七の開通で、確かに便利になりました。しかし、それは、人々の暮らしていた場所をなぎ倒し、街の性格をガラリと変えて作られた、いわば、かなりの無理をして作られた道でした。開通当初こそ、スムーズに走れたものの、すぐに交通渋滞の名所になってしまいます。そして、最大のツケが現れたのは、開通から6年後でした。
この「走れコウタロー」がヒットした昭和四十五年、1970年のダービー直前、5月18日。この日、杉並・妙法寺にほど近い、東京立正高校で、体育の授業中、多数の女子生徒が目の痛みや頭痛を訴え、四十数名が病院へ運ばれるという騒ぎが起きました。原因は、光化学スモッグ。日常的に交通渋滞が続く、環状七号線の自動車排気ガスが、紫外線によって、有害物質オキシダントに変化。そして、いたいけな女子高生の粘膜を冒したのです。実に衝撃的な、出来事でした。いま、環状七号線の西側、野方から方南町にかけての地下には、神田川水系の洪水を防ぐため、直径13mという巨大なトンネルが掘られ、雨水の貯留施設が作られています。これは板橋から東京湾へつなぐ、大きな地下河川構想の一部。無理をして作った道、だからこそ大規模なトンネルも掘れた。これは、環七を作ったメリットの一つかも、しれませんね。

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