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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
7月28日(月)〜8月1日(金)
今週は、「ヨコハマ中華街物語」。
十一日後に迫った北京オリンピックにちなみまして、今日から五日間は「ヨコハマ中華街」の歴史と文化についてお送りしてまいります。


7月28日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は「中華街ことはじめ」をご紹介いたします。
世界でも有数のチャイナタウン、横浜中華街。およそ500メートル四方の地域に、ゆうに200を超える中華料理のお店がひしめきあい、連日、多くの観光客でにぎわっています。そもそも、なぜこのあたりにチャイナタウンが生まれたのか?これは、世界史の大きな動きと結びついています。「太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」嘉永六年(1853年)、ペリーが来航し、半ば脅しをかけられるような形で、開国を余儀なくされた日本。安政六年(1859年)には、横浜、長崎、函館、この三つの港で、外国との貿易が始まりました。
アメリカ、イギリスなどから、多くの商人が日本を訪れるようになりましたが、彼らの手足となって働いたのが、中国人たちでした。日本より一足早く、欧米列強との付き合いを始めていた中国。欧米の商人たちとの付き合いも深く、この頃になると、英語を操る者も増えてきていました。一方、日本には古くから「漢文」の文化があります。たとえ、お互いの言葉を話すことは出来なくても、漢字を使った筆談で意思を通わせることはたやすい。また、中国は、鎖国時代の日本が貿易を行っていた数少ない国ですから、日本の商品に対する知識も豊富です。そこで、欧米の商人たちは、通訳や、貿易の水先案内としての役割を、中国人に期待しました。こうして数多くの中国人たち…多くは広東の人々が、来日することになったのです。
当初、幕府が開港を約束したのは「神奈川」…東海道の宿場町としても栄えていた、現在の京浜急行・神奈川駅付近でした。しかし、このあたりに外国人を入れてしまっては、大名行列の通過に差し障りもあるし、地元民との接触もある。できるだけ、摩擦を避けたかった幕府は、そのころ、農業と漁業を細々と営んでいた「横浜」を、強引に「ここは神奈川の一部である」と言い張って、諸外国に対して開く港と定めてしまったのです。できるだけ外国人と一般人の接触を避けたかった幕府は、川に囲まれた居留地に関門を設け、 人々の出入りを厳しく見張りました。で、この関門の内側が「関内」…JRの駅名でおなじみですね。また、海に面した田んぼを埋め立て、突貫工事で造成を進めたので、あぜ道のルートが、現在に至るまで残っています。中華街の道筋が曲がりくねっているのは、実は、このあぜ道の名残というわけなんですね。

7月29日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は「明治・大正の中華街」をご紹介します。
エキゾチックな港町、ヨコハマの人気スポット「中華街」。現在では、いわば「食のテーマパーク」として、内外からの観光客で連日にぎわっています。ところが、この街が「飲食店街」として注目を浴びるようになった歴史は意外と浅く、せいぜいここ、三、四十年ほどのこと。明治から大正にかけては、もっと違う種類の商いをする人々が、たくさん暮らしていた町だったのです。
きのうもお話しましたが、欧米との付き合いに於いては、中国は日本よりも、かなり先を行っていました。西洋人たちが、どんなライフスタイルをもっていて、その日常生活や商売にはどんなニーズがあるのかを、当時、すでに知り尽くしていたのです。新たに開かれた日本に、西洋人が大挙して出かけていく…となると、こんな商売も必要なはず、あんな需要もあるだろう…と、機を見るに敏な中国の人々も、日本に向けて旅立っていきました。西洋人たちは、どんなサービスを必要としていたのでしょう。代表的なものに「塗装業(ペンキ屋)」があります。鋼鉄でできた「黒船」は、航海の途中に錆びてしまう。当時の船は、港に入るたび、ペンキの塗り替えが必要でした。ところが、鎖国の長かった日本には、船舶に塗るペンキなどあるわけがございません。仕方ない、中国から連れてこよう…と、欧米の商人たちが、ペンキ屋をスカウトして横浜に住まわせたのでした。そのほか、欧米のおしゃれなライフスタイルに必要だった、「籐家具」の専門店も横浜に見られましたし、こんな商品を製造販売する店も、出現してまいります。
横浜中華街には、ピアノの製造販売店がありました。経営していたのは、浙江省生まれのチュー・シュセンと、その兄、ポセン。二人は上海でピアノ製造の技術を身に着けて来日。中華街の一角に楽器店を開き、ピアノを始めとする、さまざまな西洋楽器の製造販売を行い、数多くの職人を抱えていました。ペンキ屋さん、籐家具や楽器のショールーム、そして両替商、貿易商などなど。現在の、雑然としたイメージのある中華街と違い、明治・大正の横浜チャイナタウンは、かなり落ち着いた、どちらかといえばセレブな街だったようですね。

7月30日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は「動乱の時代の中華街」です。
明治、大正を通じて発展していった横浜チャイナタウン。きのう、欧米人を相手にした籐家具やピアノ専門店など、落ち着いた商売が多かった…というお話をいたしました。しかし、多くの日本人にとっては、なじみのない街。うかつに脚を踏み入れようものなら、どんなヤバい事態が待っているか、わかったものじゃない…そんなイメージもまた、強くあったようです。大正年間の中華街…当時は「南京町」と呼ばれていましたが、そんなスリリングなイメージの強い中華街の描写が登場する、プロレタリア作家・葉山嘉樹(はやまよしき)の小説の一部をご紹介しましょう。
ヨーロッパ航路の航海を終え、横浜に上陸した船員が、怪しい男たちに、中華街の一角にある、これまた怪しいお姉さんのいる家に連れて行かれる場面です。「二人は南京街の方へと入って行った。日本が外国と貿易を始めると直ぐ建てられたらしい、古い煉瓦建(れんがだて)の家が並んでいた。ホンコンやカルカッタ辺の支邦人街と同じ空気が此処にも溢(あふ)れていた。一体に、それは住居だか倉庫だか分らないような建て方であった。二人は幾つかの角(かど)を曲った挙句(あげく)、十字路から一軒置いて――この一軒も人が住んでるんだか住んでいないんだか分らない家――の隣へ入った。」
年を追うごとに栄えて行った横浜中華街ですが、関東大震災で壊滅的な被害を受けてしまいます。先ほどの葉山嘉樹の文章にも登場いたしました、「貿易を始めるとすぐ建てられたらしい、古い煉瓦建(れんがだて)の家」が、ことごとく倒壊。当時、五千七百人あまりいたとされる中国人は、この震災後、わずか四百三十四人に激減しています。積み上げられた瓦礫の山は、埋め立てに利用され、そして生まれたのが、現在の山下公園でした。どれほど凄まじい被害を受けたのかが、ひしひしと伝わってくるエピソードですね。しかし、残った人々は、しぶとかった!震災で横浜を後にした欧米人たちの土地を譲り受け、結果的に、横浜チャイナタウンは、規模をさらに拡大していくこととなったのです。


7月31日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は中華街のシンボル「関帝廟」をご紹介します。
流れている音楽は、かつてNHKで放映されていた人形劇、「三国志」のテーマソング。作曲は、細野晴臣さんです。ファンの方なら先刻ご承知でしょうが、中華街のシンボル「関帝廟」にまつられている「関帝」とは、「三国志」の重要な登場人物である「関羽」のこと。今からおよそ千八百年前、西暦二百年頃に活躍した武将です。身長は九尺と申しますから、およそ2メートル7センチ!また、胸の下までヒゲを伸ばしていたと伝えられており、その長さは60センチにも達していたそうです。信義に篤いことで知られ、囚われの身となり処刑された後、神格化され、広く信仰を集めるようになりました。約束を必ず守ったということから、商人たちの間で崇拝されるようになり、中国人が世界に進出していくと、行く先々のチャイナタウンで、「関帝廟」が建設されていったのです。
横浜中華街の「関帝廟」は、現在、四代目。最初、いつ建てられたのかは、いくつか説があり、はっきりしたことはわかりません。ただ、明治四年(1871年)ごろには、既に小さなお堂が作られていたようです。明治の半ばには、敷地を広げ、さらに大規模な改築を行って、周囲でもひときわ目立つ建物となりました。この初代の建物は、残念ながら、昨日もお話した「関東大震災」によって、全壊。また、再建された二代目の建物も、昭和二十年の空襲で、これまた崩れ落ちてしまったのです。しかし、心のよりどころである「関帝廟」を、一刻も早く再建しなければ…という関係者の望みもあり、戦争の翌年、昭和二十一年の六月には、三代目の建物が完成しています。
戦後、横浜中華街に暮らす人々は、中華民国系と、中華人民共和国系に二分され、トラブルが頻発していました。ところが、昭和61年(1986年)の元旦、原因不明の火事が起き、三代目関帝廟も焼け落ちてしまいます。中華街の大切なシンボルである、関帝廟。一刻も早く再建しなければ。台湾だ、大陸だ…と、争ってる場合ではない。神様に政治を持ち込んではいけない。紆余曲折はありましたが、両派が歩み寄り、世界の関帝廟の中でも、これほど見事な建物はない…といわれる、四代目の関帝廟が完成したのです。

8月1日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は「おいしい中華街」をご紹介します。
ラジオをお聞きの皆様も、中華街といえば、まず、あの極彩色の風景と立ち並ぶ中華料理店の姿を思い浮かべるのではないでしょうか。今でこそ、二百軒以上の中華料理店がひしめき合うこの街ですが、戦後しばらくは、中華料理というよりは、バーやキャバレー、クラブなどのほうが目立っていました。アメリカ軍の兵士を相手にする店も、多かったのです。ところが、昭和四十七年(1972年)、転機が訪れます。当時の田中角栄首相による「日中国交回復」。二頭のパンダ、カンカン・ランランの来日と共に、日本列島は熱狂的な中国ブームに襲われたのです。夜の盛り場だった横浜中華街も、昼間から大繁盛。 次から次へと観光客が訪れるようになり、家族向けの健全な盛り場へと、姿を変えていきました。
中華街の発展と共に、周辺の観光スポットも整備されていきました。昭和三十六年にマリンタワー、翌年には港の見える丘公園がオープン。また、昭和五十三年には、横浜スタジアムが開場し、大洋ホエールズ改め横浜大洋ホエールズの本拠地となります。試合が終わった後、中華街へ繰り出す人々も多く、街はますます、栄えていったのです。さらに、今から四年前の平成十六年には、「みなとみらい線」が東横線と直通運転を開始し、都心から乗り換えなしで中華街に行けるようになりました。終点の「元町・中華街」駅は、予定では「元町」駅になるはずだったのですが、中華街の熱心な働きかけもあり、この名前になりました。
中華街は、さまざまな年中行事で知られています。年末年始のカウントダウンに始まり、二月の旧正月「春節」、夏のドラゴンボートレース、つい先週行われた、「関帝廟」の関羽の誕生を祝う「関帝誕(かんていたん)」、秋の中秋名月関連行事など。これらの行事が、日常生活にアクセントを与え、中華街の毎日を、より楽しいものに変えてくれるのです。

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