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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
9月1日(月)〜9月5日(金)
今週は、「明治・大正・昭和 有名人のお宅訪問」。 歴史にその名を残す有名人が暮らした家の中から、
現在も記念館や博物館として利用されている物件をご紹介してまいります。


9月1日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

コーナーはお休みしました。

9月2日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は作家・林芙美子の邸宅です。
森光子さんといえば、「放浪記」… 「でんぐり返し」ですっかり有名になったあの舞台の、 原作を書いたのが、林芙美子。 今日お邪魔するお宅の、主でございます。 ところは、新宿区 中井2丁目。 西武新宿線、中井駅を降りて、西側に歩き、徒歩7分、 急な坂の上りくちに…見えてきました。 現在は「新宿区立 林芙美子記念館」として使われている、数奇屋づくりの、見事な建物です。 この落合、目白界隈は、古くから東京でも有数の高級住宅街だけに、周辺には大きな邸宅がいくつも見受けられます。林芙美子は、画家である夫、緑敏(りょくびん)と共に、家を建てよう…ということになった時、参考書を二百冊ほど読んで、建築の知識を身に着けました。その頃のいきさつを書いた、芙美子自身の文章があるのでご紹介しましょう。
「大工は一等のひとを選びたいと思った。まづ、私は自分の家の設計図をつくり、建築家の山口文象氏に敷地のエレヴェションを見て貰って、一年あまり、設計図に就いてはねるだけねって貰った。東西南北風の吹き抜ける家と云ふのが私の家に対する最も重要な信念であった。客間には金をかけない事と、茶の間と風呂と厠と台所には、十二分に金をかける事と云ふのが、私の考へであった。それにしても、家を建てる金が始めから用意されていたのではないので、かなり、 あぶない橋を渡るやうなものだったが、生涯を住む家となれば、何よりも、愛らしい美しい家を造りたいと思った。まづ、参考書によって得た智識で、私はいい大工を探しあてたいと思ひ、紹介される大工の作品を何ヶ月か私は見てまはった」
芙美子は、眼鏡にかなった一流の大工や建築家を連れ、 京都まで見学の旅に出かけるなど、研究を重ねました。 工事に取り掛かったのが、昭和十五年のこと。 当時は戦時中で、建坪の制限が厳しかったので、 三百坪の敷地の中に、芙美子名義と、夫・緑敏名義と、 二棟の建物を建てることになりました。 いわば「苦肉の策」ではありましたが、
結果的に、仕事場と生活の場を明確に分けることができ、 現在、私たちが見ることができる、贅を尽くした 美しい日本建築が完成することになったのです。

9月3日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は芸術家・岡本太郎の邸宅です。
「1970年の こんにちは〜」 あまりにも懐かしいこの歌、 お若い方には何のことやらチンプンカンプンかも知れません、 三波春夫さんが歌う、1970年(昭和45年)、 「大阪万国博覧会」のテーマソング、 「世界の国からこんにちは」でございます。 3年前に「愛知万博」が開かれてから、こちらは「大阪万博」といわれるようになりましたが、何となく、しっくりきませんね。私たちの世代で「万博」といえば、やはりこの大阪、千里丘陵での万国博覧会のこと。 で、万博のモニュメントとも言うべき建築物が、「太陽の塔」。 この、一風変わった塔をデザインしたのが、 今日、お訪ねするお宅の主、岡本太郎というわけです。
青山、骨董通りを南に向かい、南青山六丁目のバス停を過ぎ、 左側に入ったところに…見えてきました。 現在は「岡本太郎記念館」として一般公開されている建物。 ブロックを積んだ壁の上に、 凸レンズ型の屋根が乗せられています。 いかにも、あの「芸術は、バクハツだ!」と語っていた、 岡本太郎らしい、エネルギーに溢れる建築です。設計したのは、ル・コルビュジェの弟子である建築家、 坂倉準三(さかくら・じゅんぞう)。 戦前は、「青山高樹町(たかぎちょう)3番地」と 呼ばれていたこの場所は、もともと太郎の両親である、 岡本一平、かの子夫妻が暮らしていた土地です。 家は、空襲で焼け落ちてしまいましたが、太郎は昭和二十九年、アトリエ兼住居としてこの建物を建てます。 そして、亡くなるまでの五十年以上の日々を、 この地で過ごしたのでした。
入り口から右側に入ると、いきなり岡本太郎ワールド炸裂! 本人の等身大の像を始め、おなじみの抽象デザインの さまざまなオブジェが所狭しと置かれています。 さらに、奥へと進んでいくと、見えてくるのがアトリエ。 北側に大きな窓がしつらえられた広いスペースに、 製作途中のキャンバスがいくつも並べられています。 ああ、岡本太郎は、画家なんだな…と、 改めて思い知らされる空間です。 生前、彫刻に使っていたという庭にも巨大なオブジェが置かれ、 太郎の息吹に接することができます。 死後十二年を経ても、この岡本太郎邸の敷地の中には、 彼の濃厚なエネルギーが、まだ満ち満ちているようです。

9月4日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は白洲次郎・正子夫妻の旧宅「武相荘」です。
小田急線・鶴川駅を降りて、鶴川街道を北へ15分。 ユニクロの角を左に曲がって坂を登ると…見えてきました。 典型的な日本の農家といったたたずまいの、長屋門。 中に入ると、見えてくるのが、見事な萱葺き屋根の建物です。 この家の持ち主は、白洲次郎、正子夫妻。 白洲次郎は、明治35年、芦屋に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業、世界を股にかけ活躍していた実業家です。 戦後は、新憲法の制定に関わったり、吉田茂のブレーンとしてサンフランシスコ講和会議に出席するなど、日本でも指折りの国際人として知られた人。日本で始めてジーンズをはいた男としても有名です。
一方、昭和四年に結婚した相手の正子は、薩摩出身の伯爵の家柄に生まれ、アメリカに留学経験を持ち、戦後は骨董に魅せられ、随筆家としても活躍しました。いわば、趣味人の中の趣味人といった二人が、そのセンスを十二分に発揮して作り上げたのが、「武相荘」。 「ぶあいそう」というのは、この家が、東京=武蔵の国と、神奈川=相模の国の国ざかいに近いことから、武蔵の「武」と、相模の「相」というそれぞれの頭文字を取り、白洲次郎が命名したもの。独特のユーモアのセンスが感じられますね。カーマニアとして有名だった、白洲次郎が、晩年まで乗り回していたのは、ポルシェ911.クルマは、現在は休憩所として使われている場所に置かれていました。
夫妻が、ここ鶴川の地にやってきたのは、戦時中のこと。この先、戦争が激しくなれば都内にいては危険だし、食料も足りなくなってくるだろうから、近郊の農村で、自給自足の生活を送ろう…と考えて、引っ越してきたのです。まあ、先見の明があった…ということなのでしょう。もともとこの家には、年老いた夫婦が住んでいましたが、交渉して譲り受け、暮らし始めたのが昭和十八年。次郎は昭和六十年に、そして正子は平成十年に亡くなりますが、「武相荘」は二人を偲ぶ記念館として整備され、平成十三年(2001)年から一般公開、現在に至っています。もともとは農家だったとはいえ、二人は暮らしやすいよう、家のあちこちに、「ひと工夫」しているのが見どころ。もともと土間だった場所は床暖房つきの客間となり、すわり心地のよさそうなレザーのソファが置かれていますが、これ、大磯の吉田茂邸で使われていたものを、遺品としてもらい受けたものなんだそうです。

9月5日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は俳人・正岡子規、そして落語家・林家三平の邸宅を取り上げます。
「根岸の里のわび住まい」という言葉をご存知でしょうか。 頭に季語をつければ、何でも赴きのある俳句になるという、 そんな名文句なんですね。 たとえば、今頃の季節なら… 「日暮しや 根岸の里のわび住まい」あるいは 「野分吹く 根岸の里のわび住まい」こんな感じでしょうか。 台東区根岸。JR鶯谷駅の北側に広がる一帯ですが、 このあたりは江戸時代、風光明媚な場所として名高く、 別荘や隠居所が数多く設けられていたそうです。 いま、鶯谷駅前の喧騒や、言問通りにひしめく車の群れを眺めていると、とてもそんな場所には思えません。鶯谷の駅を出て、北側に向かい、豆腐料理で名高い笹の雪の角を曲がり、しばらく進んだ左側の路地を入ると、ささやかな日本家屋が見えてまいります。
俳人・正岡子規が暮らし、そして結核との闘病の末、亡くなった家、「子規庵」。 もともとは、加賀百万石、前田家の御家人が暮らしていた、 二軒長屋のうち一軒だったといわれています。 玄関を入ると、右側に三畳の茶の間、左側には四畳半の部屋。 その奥に縁側のついた八畳の座敷と、 病室として使われていた六畳の書斎というささやかな家です。 子規がこの家にやってきたのは、明治二十七年のこと。 故郷・松山から母や妹を呼び寄せて、 亡くなるまでのおよそ八年を根岸の里で暮らしました。 鶯谷というから、趣のある静かな場所だと思っていたところが、 当時既に、鉄道が開通していて、線路も近かったことから、 かなりうるさかったようで、 「その辺にうぐいす居らず汽車の音」という句が残っています。
建物は、昭和二十年の空襲で焼けてしまいましたが、 五年後に再建され、現在は、一般公開されています。 子規が、病床から眺めていた庭の風景。 これ、ほぼ、当時のまま再現されているんですね。 実は、子規はなかなか細かい人で、庭のどこに、どんな木や草が生えているか、詳細なメモを残していたんだそうです。この季節にふさわしい句を、もう一つ、ご紹介しましょう。「秋の蚊の よろよろときて 人をさす」子規庵で、しみじみと感傷に浸った後は、 気分を変えて、笑って帰っていただきましょう。 ここからホンの目と鼻の先にあるのが「ねぎし三平堂」。 ご存知、故・林家三平師匠の資料館です。 一世を風靡した落語家らしい、立派な邸宅の一部を使い、 三平師匠の愛用品や手書きのノート、 その他、記念品などが所狭しと並べられています。 ささやかな子規庵とは違って、「有名人のお宅」という 雰囲気が濃厚に漂っている場所でございます。
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