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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
9月8日(月)〜9月12日(金)
今週は、「江戸の都市計画」。 17世紀の始めから、日本の中心となった「江戸」。 四百年余りの時を経た今では、世界でも有数の大都会となりました。 その発展のもとになった、徳川幕府初期の「都市計画」をご紹介してまいります。

9月8日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「家康江戸入り」の巻。
日本一の大都会、東京。 その源流を辿れば、徳川家康が幕府を開いた およそ四百年前の江戸に行き当たります。 最初に江戸城を築いたのは、かの有名な太田道灌ですが、 1486年に道灌が殺されて以来、 江戸は半ば忘れ去られた存在となっていました。 再び、この地にスポットが当たるのは、 天正十八年(1590年)のこと。 この年、関東で最後まで豊臣秀吉に対抗していた、 小田原の北条氏が攻め滅ぼされます。 すると、秀吉は、それまで北条が治めていた関東の地を、 徳川家康に与えたのです。 家康は、この年、旧暦の八月一日に江戸に入ります。 「八月一日」は、古くから農業の上で重要な日。 例年、この日は、初めて新しい穀物を取り入れる日とされ、 豊作を祈る、とても大切な祭日だったのです。 家康は、この佳き日を選んで江戸に入りました。
後に、この日は「江戸お討ち入り」と呼ばれるようになり、 徳川幕府の重要な祝日となります。 当時の江戸は、どんな様子だったのでしょう。 以前、この番組でもご紹介しましたが、 現在の都心のほとんどは、ジメジメとした湿地帯。 「日比谷入り江」と呼ばれる入り江が、 現在の大手町あたりまで続いていて、 この文化放送のある浜松町は、完全に海の中にありました。 街中には、せいぜい百軒ほど、萱葺きの民家があるばかり。 江戸城は荒れ果てて、傾いた屋根は板葺き、中は全部、土間。 おまけに、湿地帯で湿気が多いため、 畳などもすっかり腐って使い物にならない始末でした。 「これはひどい。すぐ何とかしなければ…」と、 アタフタする家来を制して、家康は、 「城など、どうでもいい。それより、街づくりが大事じゃ」と、 都市計画に乗り出したのです。
最初に手がけたのは、江戸城に物資を輸送するための、 水上輸送の道筋をつけることでした。 また、市民生活にとって欠かせないのが、上水と下水です。 何のインフラもない土地に、家康直属の家臣団とその家族、 およそ三十万もの人々が移住してくるわけですから、 これは一大事業でございます。飲み水の確保や。汚れた水の行方にも、細心の注意が払われました。 このとき、開かれたのが「神田上水」です。 家康は、工事を成功させた大久保藤五郎に 「主」に「水」と書き「もんど」の名前を与えています。 ところが、藤五郎は濁点を取り、「もんと」と名乗ります。 これは、水道が濁ってはまずい…という、 独特の解釈なんだそうです。

9月9日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「日比谷入り江と道三堀」の巻です。
見渡す限り湿地帯が広がっていた、江戸の町。 昨日もご紹介しましたが、いま、私が放送を行っている 文化放送のある浜松町など、「日比谷入江」といわれる海の底にあったのです。江戸城は、もちろん、現在の皇居と同じ場所でしたが、ほぼ波打ち際に建っていました。ここに城下町を作ろうとすると、どれくらいの広さが取れるか? 当時の資料によれば、せいぜい十町ほどあるかどうか、 という程度だったそうです。一町は三千坪ですから、十町は三万坪。だいたい、東京ドーム2個分! この程度しか、江戸の町には、使える場所がなかったのです。 城の西側や北側には、台地も広がっていますが、 坂が多く、地形が入り組んでいて、平坦な部分が少ない。 これは「街づくり」にとっては、致命的な欠点でした。
そこで、家康は、「埋め立て」を積極的に進めることになります。 入り江の一番奥は、平川、現在の神田川の河口がありました。この、すぐ脇にあったのが、平将門の「首塚」。つまり、現在の大手町あたりが入り江の一番奥だったのです。入り江を挟んだ、お城の反対側は、半島のようになっていて、海岸線を辿ってみると、大手町から日比谷公園のあたりまでは、ほぼ現在の地下鉄千代田線に沿っていたようです。日比谷公園の先は、日比谷通りが海岸線で、半島の先端は、だいたい新橋駅のあたりにありました。半島の東側の海岸線は、ほぼ中央通にあたっていて、銀座、京橋、日本橋…このあたりが波打ち際でした。半島の付け根にあたる部分は、現在の江戸橋あたり。当時は、ここに石神井川の河口がありました。家康が江戸にやってきたころは、このあたりが、港になっていたようです。
そこで、家康は、大手町、新橋、江戸橋を結ぶほぼ三角形をした半島…当時はこの部分を、「江戸前島」と呼んでいましたが、この島の付け根部分…大手町と呉服橋を結ぶ直線状に、物資運搬用の堀、「道三堀」を掘りました。「道三」は、後にこの堀の脇に住んだ御典医、今大路道三の名前にちなんでいるそうですが、この「道三堀」によって、江戸湾に入った船は、江戸城まで真っ直ぐ近づけることになったのです。でこぼこで湿地帯だらけの町は、陸上輸送には不向き。当時は、船を使うのが、もっとも一般的な輸送の方法でした。 堀を掘るときに出た土砂は、湿地帯の埋め立てに使われ、 この堀の両側に、江戸で最初の城下町が広がったのです。 現在のパレスホテルから、日本橋にかけての一帯が、 そのあたり…ということになります。

9月10日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「天下普請(てんかぶしん)」の巻です。
徳川家康が、豊臣秀吉から関東の地を与えられ、 江戸に入り、城下町を築き始めた頃は、 単なる地方の一大名に過ぎませんでした。 土木工事を行うための人でも乏しく、 旗本や御家人といった直属の部下たちが、 寝る間もないほど酷使されながら、工事を進めていたのです。 しかし、江戸入りから八年後に、秀吉が亡くなります。 そして十年後、関が原の合戦で勝利を収めると、 家康は、慶長八年(1603年)に、江戸幕府を開きました。 それまで、一地方都市に過ぎなかった江戸が、 政治の中心としてクローズアップされることになったのです。 江戸の土木工事も、それ以前はささやかな地方公共事業でしたが、国を挙げての一大プロジェクトに拡大されることになりました。
江戸市中の工事や、江戸城の増築工事なども、大名が家康の命を受け、行うことになったというわけ。もちろん、工事にかかる費用は、それぞれの大名が負担します。この公共事業は天下を取った「天下人(てんかびと)」の行う工事、という意味で、「天下普請」と呼ばれます。同じコトを、こき使われる大名の側からは、「お手伝い普請」と呼んでいました。一番大変だった工事は、何か? …と申しますと、これは、江戸城の「石垣づくり」。今も、皇居の内掘、そして外濠に沿っては、見事な石垣の景色を見ることができますが、何が大変かといえば、あんなに大きな石は、江戸の近郊では、なかなか見つかるものではないんです。どこから持ってきたかというと…主に「伊豆半島」。真鶴から熱海を経て、伊豆半島の稲取あたりまでのあちこちに、石を切り出した跡、「石丁場(いしちょうば)」と呼ばれる遺跡が、現在も残されています。
この仕事に狩り出されたのは、関が原で西軍に所属、即ち徳川に敵対していた大名たち。「天下普請」は、彼らのフトコロを痛めつけ、もう徳川に敵対することがないよう骨抜きにする、という狙いもあったんですね。石を運ぶ「石積船(いしづみぶね)」は、全盛期には三千艘。一ヶ月に二回、一艘に二個の大石を積んで江戸と伊豆の間を往復していました。大嵐が吹き荒れたとき、二百艘にも及ぶ石積船が沈没する悲惨な事故が起きたこともあったそうです。

9月11日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「発展する江戸」の巻です。
きのうは、江戸城の石垣を作るために、 伊豆半島から大量の大石が運ばれたというお話をしました。 突貫工事が行われたため、三千艘もの船が作られて、 宇佐美や熱川、稲取あたりから江戸へ向かって、 一度に二個の大石を乗せて船出していきました。 では、その石は、江戸のどのあたりに着いたのでしょう? かつて水路だった、首都高速環状線から、 京橋、日本橋あたりにかけて作られた、十箇所の「舟入堀」… これ、現在でいう「埠頭」の役割をする場所ですが、 ここで船の上から陸へと移動しました。 数十万個に及ぶ大石が、連日、ここから江戸城へと運ばれ、 石垣のパーツとして積み上げられていったのです。 石を船に積み込むとき、また、船から降ろすときには、 石を修羅と呼ばれるソリにのせ、麻縄をつけて、 神楽桟(かぐらさん)という人力ウインチで引っ張りました。
神楽桟も、修羅も、戦国時代の築城工事には 欠かせないアイテムですが、それにしても昔の人は、 途方もないことを人力でやり遂げたものだと思います。東海道本線の特急列車をテーマにした、 三木鶏郎のコミックソングの名作「僕は特急の機関士で」。 この歌のみならず、江戸時代から数多くの歌や、 絵画などの題材となっているように、 東海道は江戸時代以来、日本の大動脈として整備され、 現在もなおその重要性は変わっていません。 さて、東海道の、いえ、日本のすべての道路の起点といえば、 「日本橋」。 この日本橋から南へと向かっていくのが東海道…ですが、 実は、現在の東海道のルートが確立されたのは、 家康が江戸の城下町づくりを始めて以降のことです。 日比谷のあたりは入江になっていて、 現在の銀座から、文化放送のある芝までは、 陸続きになっていなかったのです。 ですから、古代の東海道は、多摩地方を通り、府中から東へ。 また霞ヶ関、六本木経由で小田原へ向かうルートもありました。
幕府は、慶長8年(1603年)に日本橋を架けます。 さらに、いまの駿河台あたりにあった「神田山」という 台地を切り崩して、日比谷入江の埋立てを行いました。 この結果、日本橋から芝まで、ほぼ陸路でつながることになり、 現在、私たちが知っている「東海道」が姿を現してくるのです。 のちに制度化される「参勤交代」でも、 東海道を利用する大名がおよそ7割と、圧倒的なシェア。 水路から始まり、お城、そして道路…と、 家康の都市計画は、着々と進んでいきました。


9月12日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「江戸の中の京都」の巻。
徳川家康は、天正十八年(1590年)に 江戸に入り、街づくりに取りかかりました。 理想に燃える、新しい都市を一から作り上げていく。 政治家として、これほど楽しい仕事もなかったでしょう。 上下水道の重要なインフラを築き、水路や道路を引いて物資を集めることで、ダイナミックな動きが生まれていく。 江戸の町は活気に満ち、輝かしい将来が約束されていました。 が、しかし。ただ一つだけ、どうやっても、足りないものがあります。それは「文化の香り」です。 見渡す限りの湿地帯で、埋立てから始めた場所ですから、 上方、京の都から江戸を見たら、派手でうるさいだけの、薄っぺらい町にしか見えなかったでしょう。 もう一つ、重要な問題がありました。 最近では、多くの皆さんがご存知かと思いますが、 「風水」や「陰陽道」に基づく都市設計。 「陰陽道」では、宇宙を司る「気」が、 北東から南西に向けて流れていることになっています。 そこで北東を「鬼門」、鬼の門と呼んで大切にします。
自前の文化を持たない、新興都市・江戸。 では、どうすればよいか…と考えた末に、 思いついたのが「京都のコピーを作る」ことでした。京都の町の北東に位置して、鬼門を守っているのが、 「比叡山延暦寺」です。 江戸でも、鬼門を守るため、江戸城から見て北東方向に、 延暦寺に匹敵するような寺を建てることにしました。 これが、上野の山の「東叡山寛永寺」でございます。 「東叡山」というのは、「東の比叡山」という意味。 また、延暦寺が、創建された当時の元号を、 寺の名前にしたことにならって、 上野の寺も、元号から「寛永寺」と名づけられます。 また、延暦寺から眺められる湖が「琵琶湖」ですが、 寛永寺からも同様に、「不忍池」が眺められます。 そして、琵琶湖には「竹生島」があり、弁天様が祀られています。本家にあるなら、こちらも…というわけで、わざわざ島を作ってそこに弁天堂を置きました。
このほかにも、江戸のあちこちに、京都を模した愛宕山、三十三間堂、大仏などが設けられています。おそらく当時の文化人たちは、こうしたイージーな風潮を、あまり快く思っていなかったことでしょうが、四百年近くの時が流れた現在、江戸の中の京都文化の名残は、かなり、魅力的な存在になってきているように思えます。
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