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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
9月16日(火)〜9月19日(金)
今週は、「東京ジャズ 戦前編」。 20世紀の始め、港町ニューオーリンズで生まれ、 やがて世界を席巻することになった音楽「ジャズ」。日本にジャズが伝わり、日本人のジャズ・ミュージシャンが生まれてきた、大正の末から昭和にかけての、東京ジャズ・シーンをご紹介します。

9月15日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。

9月16日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「ジャズ事始め」の巻。
ハリケーンですっかりおなじみになってしまった港町、 アメリカはニューオーリンズでジャズが生まれたのは、1900年ごろのこと。 アフリカから連れてこられた黒人たちの音楽と、 ヨーロッパの音楽が出会って化学反応が起き、 その結果生まれた、実に魅力的な混血音楽でした。 日本人が、ジャズを耳にするようになるのは、およそ十年後。 大正の始めごろから、上海、香港、マニラ、ホノルル、 サンフランシスコ、そして横浜を回る定期航路に、 日本人のバンドマンたちが乗船し、船の中の社交室で 音楽を奏でるようになったことがきっかけでした。 何よりも音楽好きなバンドマンですから、 行く先々で最新の流行音楽を浴びるように聞く。
とりわけ、サンフランシスコで耳にしたジャズに心を奪われる。 いったい、これは何だろう? 自分たちで演奏することはできないだろうか? こうして、ジャズは、少しずつ、日本にもたらされるように なっていったのです。 大正十二年、関東大震災が起きたことで、 バンドマンの多くは関西に流れます。 そのため、大正の末から、昭和の始め頃までは、東京よりも、 むしろ大阪が「ジャズの都」と呼ばれるようになりました。 東京に本格的なジャズが戻ってきたのは、昭和三年。 バイオリンやバンジョーのプレイヤーである、 井田一郎が率いる日本で始めてのプロ・ジャズ・バンド、 「チェリーランド・ダンス・オーケストラ」が大阪から上京。 日本橋・三越劇場でコンサートを開いたのです。 井田は浅草の生まれ。 十六歳の時に三越呉服店、後の三越デパートの オーケストラに入団して、キャリアをスタートしています。
東京のダンスホールなどで腕を磨いた後、 太平洋航路のバンドマンとなり、アメリカでジャズに接します。帰国後は宝塚少女歌劇のオーケストラに入り、退団後、大阪でプロフェッショナルのジャズバンドを結成、これが大正十二年のことでした。いくつかの歌劇団やダンスホールを渡り歩き、何度もバンドの解散を経験しますが、ついに大正十四年、大阪・千日前にあった大阪一のユニオン・ダンスホールに入り、当時のオールスター・バンドともいえるラインナップの、「チェリーランド・ダンス・オーケストラ」を結成したのです。 そして、先ほどお話したように、昭和三年に上京。 ここに、東京のジャズ・エイジが幕を開けました。

9月17日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「ジャズソング大流行」の巻。
聞こえているのは、日本のジャズ・ヴォーカル第一号とされる、 二村定一(ふたむら・ていいち)の「私の青空」です。 この曲がリリースされたのは、昭和3年(1928)年、 いまからちょうど八十年前の出来事でした。 この年、海外系のメジャー・レーベルである、 日本ビクターとコロムビアが、ほぼ同時に、 日本人歌手のレコーディングを始めていますが、 なんと、二村は、その両方の会社の第一回発売歌手という 栄誉を担うことになりました。 しかも、両方とも「私の青空」「アラビヤの唄」という 同じカプリングという、今では考えられない椿事です。 なぜ、こんなことが起きたのかと申しますと… 実は、この年2月、JOAK…現在のNHK東京放送局で、 二村が「アラビヤの唄」を歌い、電波にのりました。 すると、これが大変な評判をとったんですね。 で、この放送を聴いていたコロムビアのディレクターが、 「これ、イタダキ!」とばかり、録音を依頼して、 5月に新譜として発売されました。
伴奏は、慶応大学の学生を中心に結成された、 レッド・エンド・ブルー・オーケストラです。 で、二村はその後、浅草のステージに立って、 きのうお話した、井田一郎率いる、 チェリーランド・ダンス・オーケストラをバックに、 連日、これらのナンバーを歌いまくり、 レコードも売れまくり、大ヒットとなりました。 そこで、これを見ていたライバルのビクターが、 「じゃ、ウチも一口のらせてもらおう…」と、 今度は、バックに井田のチェリーランドを連れてきて、 同じ曲目「青空」「アラビヤの唄」を録音し、十月に発売。 すると、こちらも売れ行き絶好調…というわけで、 二社の盤合わせて二十万を越すメガヒットとなりました。
そして、これだけ売れた…となると、残りの各社も、 我も我も…と、同じようなジャズ・ソングのレコードを 大量にリリースして参ります。 昭和三年からのおよそ三年間は、こうして、 ジャズ・ソングの黄金時代となったのです。 ところが、昭和六年のこと…。古賀政男作曲、藤山一郎が歌った「酒は涙か溜息か」が、 記録的な大ヒット。 それまでの陽気で明るいジャズ・ブームはどこへやら、 どちらかといえば現在の演歌テイストをもった 湿っぽ〜い唄が全盛期を迎えることになりまして、 ジャズ・ソング・ブームはひとまず終わりとなったのです。

9月18日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「栄光のフロリダ」の巻。
昨今の社交ダンスの流行を見るまでもなく、 日本人は、意外に「踊り好き」な民族であります。 戦前にも、ダンスが大流行した時期がありました。 東京のあちこちにダンスホールが誕生して、 流行の最先端をいくモボ、モガたちが、連日連夜、 ダンスホールのハシゴをして楽しんでいたのです。 ブームのさきがけとなったのは、現在は競輪場となっている、 横浜・鶴見区にあった遊園地「花月園」にできたホール。 横浜の海を見下ろす、素晴らしいロケーションで、 貴婦人たちが東京から自動車で乗りつけ、 大変な賑わいを見せたのだそうです。 このブームは昭和になると一段と盛り上がりますが、 その頂点に君臨したのが、東京・溜池にあった「フロリダ」。 以前、東芝EMIの本社ビルがあった付近だそうですが、 とにかく、作家、画家、映画関係者、俳優、音楽家など、 ありとあらゆる先端文化人が集ったという「フロリダ」は、 昭和四年にオープンしています。
当時の小説にも、しばしば登場するこのフロリダ。 たとえば、菊池寛の昭和六年の作品「勝敗」では、こんな感じ。 「…そこからフロリダまでは、いくらもなかった。 狭い階段を上って、2階のホールへ上った。 ジャズ・バンドは作り物のシャコ貝を背景に、一段高いところにいた」 また、戦前を代表する推理作家、大阪圭吉の「花束の虫」。、 こちらは昭和九年の作品ですが、当時の代表的な ダンスホールの名前が次々に登場してまいります。
「ユニオン、日米、国華、銀座、フロリダと、都合五つの舞踏場を踊り回った大月は、最後のフロリダで若い美しい一人のダンサーを連れ出すと、その儘自動車を飛ばして丸の内の事務所へ帰って来た」 都内を代表するホールをハシゴしても、 最後に行くのは「フロリダ」 このホールが、いかに、グレードの高い場所だったかが、 よくわかる記述です。 フロリダの何が、ダンス・ファンをひきつけたか? それは、音楽です。 欧米から本場のミュージシャンたちを次々に呼んで演奏させ、 また日本人のバンドも、一流の腕利きが揃っていた。 昼も夜も、ゴキゲンな演奏で踊れるホール、 それが「フロリダ」だったのです。

9月19日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「アメリカ仕込の大スター」の巻。
日本が泥沼の戦争に入り込んでいく直前、 昭和ひとケタ後半から十二年、十三年ごろまで…。 日本のジャズ・エイジは絶頂期を迎えていました。 本場、アメリカからも数多くのエンターテイナーが来日し、 ジャズ好きな若者たちを喜ばせていましたが、 そんな中でも別格というべき、一人の女性がいました。 彼女の名前は、川畑文子(かわばた ふみこ)。 ハワイ生まれ、LA育ちの日系人です。 生まれたのは大正五年(1916)年。 十歳のころから、友達を集めて自己流の踊りを見せ、 もともと体が柔らかかったのか、何の苦労もなく、 脚を頭の上までしなやかに蹴り上げられたという彼女。
ひょっとしたら、このコは天才かもしれない… そう考えた母親はダンスの専門学校へ入学させたところ、 メキメキと上達。バレエで見事な踊りを見せる一方、 日本から訪れた日本舞踊のお師匠さんに教えを請うと、 こちらの方面でも見事な才能を示したと伝えられています。 学校でも、居並ぶ白人娘たちを尻目に、見事な成績を残し、 あちこちの素人演芸会に出場。遂には興行会社にスカウトされ、 ロサンゼルスの劇場に登場、大喝采を得ます。 後にニューヨークに出て、タップダンスの修業を積んだ後、 全米ツアーをスタート。3年間に渡って一流の劇場を回り、 どこでも拍手喝采の嵐だったと伝えられております。で、噂は、当然、日本にも流れていくわけで、 昭和七年(1932年)、十六の年に初めて来日したところ、 各レコード会社の凄まじい争奪戦がスタート。 翌年には、全国津々浦々を回るツアーに出て、 海を渡ってソウルでも公演を行い、 どこでも大入り満員を記録した…ということです。 例の、脚が頭の上までらくらく上がってしまうという 見事な「ハイキック」を始めとする、 アクロバティックなダンスを始め、 どこか憂いを含んだような歌声も素晴らしいエンタテイナー。
一度、生のステージを見たかったですね!彼女のキャリアの絶頂は、昭和8年(1933年)の大晦日。 この日、こけら落としを行ったあの「日劇」で、 主役を演じたのです。一月十二日まで続いたこのショウで、 彼女は、構成とダンスの振り付けを担当し、 唄って踊って八面六臂の大活躍だったと伝えられています。 日劇出演後は、映画に主演したり、中国大陸ツアーを行ったり。 戦前、ジャズがもっとも盛んだった時代を駆け抜けた 川畑文子は、昭和十四年に、結婚し、引退。 戦後はアメリカに戻って、表舞台に出ることなく、 去年の一月、九十一歳の天寿を全うされました。
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