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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
9月22日(月)〜9月26日(金)
今週は、「おもちゃの町 東京」。 徳川時代から明治、大正、昭和、そして現在まで、 江戸・東京の地場産業として栄えてきた「おもちゃ」、 その歴史を探ってまいります。

9月22日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「風流 江戸好み」の巻。
東京を代表する地場産業のひとつに、 「おもちゃ製造販売」があります。 小さいもの、かわいいもの、ちょっとシャれたものを愛でる。 日本人は、昔から、そうした特性をもっていて、 そんな好みがストレートに反映されているのが「おもちゃ」。 ですから、何よりも「風流」を好んだ江戸の旦那衆も、 「おもちゃ」が大のお気に入りでした。 実際には、ほとんど生活の役には立たない、 趣味の範疇に入る、コドモ向けのものだからこそ、 一流の職人を使って、素晴らしいものを作り上げる、 これが江戸の「粋」というものだったんでしょうねえ。 そんな伝統が脈々と息づいているからこそ、 戦前、戦後を通じて、おもちゃが日本の特産品となり、 長年にわたって外貨獲得にも貢献してきたわけです。
江戸時代に作られていたおもちゃには、 どんなものがあったでしょう? まだブリキもセルロイドもない時代です。 材料は、土、わら、紙、竹といった自然素材。 代表的なものの一つに、「今戸焼きの人形」があります。 浅草に近い、隅田川べりの町、今戸では、 質のいい粘土が取れたことから、 瓦や日常使いの陶器などが作られていて、 これらは、土地の名前から「今戸焼き」と呼ばれました。 「江戸名所図会」には、「今戸焼」と項目を設けて、 「このあたり、瓦師や焼き物師ありて、 これを『なりわい』とする家多し、 世に『今戸焼き』と称す」と説明があります。 人形は、京都の名物である「伏見人形」をお手本に作られ、 群青色と朱色を中心に、ごくあっさりと彩られたもの。 値段も安く、それでいてどこか洒落ている人形は、 「江戸一文人形」などと呼ばれ、人気が高かったようです。 今戸焼き人形の全盛期は、天保から安政にかけての 十九世紀半ばで、吉原のおいらんをモデルにした 「おいらん人形」など、百種類以上が焼かれました。
こうした「おもちゃ類」は、主に、それぞれの町内に設けられていた防犯組織である、 「自身番」の番人たちによって売られていました。 彼らは町の入り口にあった木戸の脇に住んでいて、 「番太郎」と呼ばれ、火の番など町内の雑用をこなす傍ら、 小さな店をもって、雑貨やおもちゃを商っていたのです。 このほか、夏は金魚、冬は焼き芋などを売っていたそうで、 いわば、ごく小規模なコンビニエンス・ストアといった 存在だったようです。 「自身番」の制度は、明治になって廃止されましたが、 「番太郎」の店は、その後も営業を続けて、 駄菓子屋のさきがけのような存在として、 いつも子供たちで賑わっていました。

9月23日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

コーナーはお休みしました。

9月24日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「仲見世オモチャストリート」の巻。
日本の代表的な子守唄である、 「江戸子守唄」をお聞きいただいておりますが、 歌詞に登場する「でんでん太鼓」や「しょうの笛」は、 江戸時代の代表的なおもちゃです。 「でんでん太鼓」は、皆様ご存知の、 柄をつけた小さな太鼓の脇に、糸で玉や鈴を結びつけ、 柄を回すと玉や鈴が太鼓に当たって音を出すもの。 また、「しょうの笛」は、伊勢神宮の土産物だったそうですが、 細い竹を切って、穴を開けただけの簡単な笛。この子守唄の歌詞からは、こうした「おもちゃ」が、当時、既に土産物としてポピュラーな存在だったことがわかります。江戸の町で、おもちゃは、主に、「番太郎」と呼ばれる、自身番の番人たちが、雑貨などと並べて売っていた…というお話を昨日いたしました。
一方、おもちゃの専門店も、神楽坂、人形町、銀座尾張町などの繁華街にありましたが、いちばん有名だったのは浅草・仲見世です。浅草寺境内の商店街が「仲見世」と呼ばれるようになったのは、およそ三百年前、十八世紀の始めごろのこと。江戸の地場産業としての「おもちゃ作り」が盛んになってきたのも、このころで、一時は、仲見世で扱われる商品のほとんどが、おもちゃだったという時代もあったそうです。仲見世、イコール「おもちゃ」というイメージは、明治、大正時代までも続いていました。泣き喚いている子供に、「仕方ねえなあ、観音様に連れてってやるから泣くな!」と言うと、たいていはピタッと泣き止んだそうです。
観音様、といえば、何かおもちゃを買ってもらえる場所だったんですね。明治維新前の仲見世について、かの有名な彫刻家、高村光雲はこんな風に話しています。「仲見世の両側は玩具店が七割ほど。 売り物は浅草人形といって、土をひねって色をつけたもの。 それ以外では、絵草紙、小間物、はじけ豆、紅梅焼き、雷おこしなど。雷門前の大道には、『飛んだりはねたり』のおもちゃを売っていた。 蛇の目傘が跳ねて、助六が出るなど、江戸気分のもので、 その頃のおもちゃには、なかなか暢気なところがありました」 光雲の話に登場する「とんだりはねたり」というのは、 割った竹にタコ糸をきつくまきつけて、 その上に小さな人形を置き、傘を被せておきます。 竹と糸の間に、棒をこじ入れて、 糸を弾くと、人形が空中に飛びあがって一回転し、 傘が外れて、中から人形が現れるという仕掛けのおもちゃ。この「とんだりはねたり」は、現在も、 仲見世のおもちゃ屋さんで、手に入れることが出来ます。

9月25日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「ブリキの時代 セルロイドの時代」の巻。
江戸時代のおもちゃは、粘土を使った焼き物や、 木や竹、紙などを材料に使ったものがほとんどでした。 これが、明治時代になってくると、ブリキやセルロイド、ゴムといった、新しい材料が登場してきます。 おもちゃ作りの現場は、相変わらず浅草あたりが中心でしたが、 この頃から現在の江東区、足立区、江戸川区といった 東京・下町一帯に広がっていくようになりました。 ブリキは、明治7、8年ごろにイギリスから。 セルロイドは、明治10年ごろにドイツから、 そしてゴムは、明治14〜15年ごろに、 ドイツやアメリカから入ってきます。 また、そうした素材を使ったおもちゃも、ほぼ同時に輸入され、 腕自慢のおもちゃ職人たちの意欲を、大いに刺激しました。 素材としてのブリキが輸入されるのは、 いまお話したように、明治7〜8年ごろです。
ところが、それに先立つ1〜2年前から、ランプに使う燃料である、石油の容器に使われていたブリキの空き缶を利用して、おもちゃ作りは行われていたようです。ブリキを使って最初に作られたのは「ガラガラ」でした。このほか、カマドやタライなどままごと用の玩具や、ネズミ、亀、魚などの動物おもちゃが次々に作られます。これ、要するに、それまで木や紙を使っていたものを、材料を変えて作ってみた…という感じなんですね。 さらに、明治の初めごろは、時代を象徴する「サーベル」や、 西南戦争で盛んに使われた「兵隊ラッパ」などのおもちゃが、 ブリキを使って作られるようになっていきます。 このころは、パーツの一つ一つを色づけしなければならず、 かなり手間がかかっていましたが、 明治の終わりごろに、ブリキ用の印刷機が導入されると、 おもちゃのバリエーションは一気に豊かになっていきます。
そして、精巧なからくりおもちゃや、 自動車、ロボットなどが作られるようになり、 現代のコレクターたちに、高値で取引されるように なっていく…と、こういうわけでございます。さて、一方のセルロイドはどうだったか? 原料である「樟脳」が日本の特産品であったこと、 また加工がカンタンで量産しやすく、 見た目がきれいで、洗えるため清潔だったこともあり、 キューピーなどを中心に、生産はどんどん伸びていきました。 全盛期は、昭和の始めごろで、生産高は世界一でした。 ただし、セルロイドは、引火しやすいという弱点があり、 そのため、昭和30年にはおもちゃの原料としては、 使われなくなってしまったのです。

9月26日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「メイド・イン・ジャパン」の巻。
日本のおもちゃ産業の始まりは、江戸時代、風流好みの旦那衆が、腕利きの職人たちに作らせた、 精巧な細工ものでした。 そんな「遊び」の伝統が生きていることもあったのでしょう、 日本の「おもちゃ」は、明治以降、世界中で愛され、主要な輸出産業の一つとなったのです。そして、その生産の中心地が、東京・下町でした。当初は、主にイギリスからバイヤーがやって来て、小さな日傘や、柄に笛のついたうちわなど、欧米人が喜びそうなおもちゃを買い付けていましたが、明治の中ごろになると、最初から輸出することを目的としたおもちゃが、たくさん作られるようになります。現在でも、おもちゃ屋さんで見かけることがある、ブリキ製の金魚なども、この頃、輸出用に考え出されたもののひとつ。
そして、日本のおもちゃ産業が、世界に飛躍することになったきっかけは、大正3年に始まった「第一次世界大戦」でした。ヨーロッパ全土が戦場になったこの戦争で、当時のおもちゃ王国、ドイツが大きな被害を受けます。そこで、ドイツに負けず劣らず、精巧なおもちゃを作れる、日本のおもちゃに白羽の矢が立った、というわけ。この間、輸出額は毎年倍倍ゲームで伸びていきました。おもちゃ作りの技術が頂点に達したのは、戦前、昭和10年から12年ごろにかけてのこと。火花が出たり、音楽が鳴ったり、複雑な動きをしたり、芸術品といってもいいようなおもちゃが量産されました。しかし、その直後、戦争が激しさを増していき、原材料が手に入らなくなる。そして、空襲を受けて下町がほぼ焼き尽くされ、東京のおもちゃ産業は壊滅的な打撃を受けてしまったのです。戦後、おもちゃ産業は、いち早く復活しました。
それは、進駐軍の政策によるものでした。 「長い戦争で、アメリカの子供たちはおもちゃに飢えている。 我々は、一日も早くおもちゃを与えてやりたい」 進駐軍は、おもちゃの材料として、燃料などが入っていたブリキの空き缶を、優先的に業界に払い下げました。生き残ったおもちゃ職人は、自分の家族や友人に爆弾を落とし、 家を焼き尽くしたアメリカ人のために、 必死になっておもちゃを作るハメになってしまったのです。 しかし、おもちゃ業界が必死に励んだおかげで、 アメリカは大量の小麦粉を、見返りとして日本に輸出。 多くの国民が、飢餓から免れることになりました。
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