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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
10月6日(月)〜10月10日(金)
今週は、「小江戸 川越ものがたり」。 江戸の面影を現代に伝える埼玉県・川越市。 来週末に行われる「川越まつり」を前に、 その歴史と文化にまつわるエピソードをご紹介して参ります。

10月6日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「川越むかしむかし」
海が見たいわ、と、川越の女の子がふと囁いたとします。 すると、川越の男の子は、クルマを…1時間半か、 2時間ほど走らせないと、 ロマンチックな風景にはたどり着けません。 皆様、ご存知のように、川越は内陸部の町でございます。 ところが、今から六千年ほど前の縄文時代では、 事情は違っておりました。 当時は、地球温暖化が最も進んでいた時代で、 東京湾が、関東平野の奥深くまで広がっていた。 そして、いちばん奥の入り江は、現在の川越まで達していたんです。川越でもっとも有名なお寺、喜多院のすぐ近くには、荒川流域で、河口からもっとも遠い貝塚である「小仙波(こせんば)貝塚」があります。この遺跡からは、シジミやカキ、ハマグリなどの貝殻が見つかっているんです。
縄文時代の川越は、今でいえば藤沢か、茅ヶ崎あたりの感じ。海に面していた時期があったという証拠が、この貝塚です。その頃、このあたりまで海があったことを示す伝説が、川越には伝わっております。そのころ、仙芳(せんほう)という仙人が、川越シーサイドの波打ち際にやってきた。すると、眼光鋭い老人が向こうから歩いてくる。これはタダモノではない、と見抜いた仙人が、「失礼ですが、あなたさまは、どなたですか?」と尋ねると、「わしは、このあたりの海の主で、龍神の化身じゃ」と答える。「さようでございますならば、一つ、お願いがあるのですが」「申してみよ」「どんな狭い土地でも結構ですから、 私にこの海の一部を分けてはくださいませんか? いま身に着けている、この袈裟を広げますから、 その場所だけで結構でございます」それくらいなら、ま、いんじゃないのォ…と龍神が頷くと、仙人は袈裟を脱いで海の上に放り投げた。
するとたちまち袈裟は数十里四方に広がっていき、青々とした水をたたえていた海は、あっという間に陸地になってしまったのです!驚いたのは龍神様です。顔面蒼白になり、ワナワナと震え、 「参りました」と、仙人の前に土下座。 「水がなくなると、私の住むところがなくなってしまいます。 どうか、私の居場所だけは残していただけませんか」 仙人は龍神を哀れみ、小さな池を残してやった。 これが今も川越市内に残る「竜ケ池弁財天」である…という、 そんな伝説でございます。 ダマシ討ちのような形で龍神の縄張りを奪い取る、 仙人のやり口。いかがなモノか、と思ってしまいますが、 ラジオをお聞きの皆様は、どうお考えになりますでしょうか。

10月7日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「川越城の悲劇」です。
川越近辺は、平安時代から、歌枕として名高い、雅な土地でした。このあたりの旧名を「三芳野(みよしの)の里」と申しまして、在原業平(ありわらのなりひら)作と伝えられる「伊勢物語」にも登場いたします。「みよし野の 田の面(も)の雁も ひたぶるに 君がかたにぞ 寄ると鳴くぬる」古くから、このあたりの田園風景の美しさは名高く、都にも風光明媚な名所として伝わっており、歌を愛する人々にとっては憧れの地だったわけです。江戸城を作った太田道灌も、その一人。室町時代の武将であり、そして歌人としても名高い道灌は、江戸城だけでなく、川越城の建築にも関わっていました。
どうせ城を建てるなら、おそらく、歌枕として有名な「三芳野」の地に建てたい…風流を愛した道灌、おそらく、こんなことを考えていたのではないでしょうか。先ほどの「伊勢物語」の歌にも登場したように、 このあたりは湿地帯で、雁など水鳥の住みかになっていました。 裏を返せば地盤が弱く、城を建てるのは難しい、 ということになります。 川越城の建設に当たっていた太田道灌、そして父親の道真(みちざね)の二人も、工事を始めてはみたものの、基礎工事がなかなか進められず、頭を痛めておりました。すると、道真の夢枕に龍神が現れます。「明日の朝、一番に顔を見せた者を人身御供にせよ。 さすれば、そなたの願いは成就するであろう」いつもは、朝一番早く現れるのは、飼い犬のポチでした。「不憫じゃが、許せよ」道真は、愛犬との悲しい別れを思いやって涙します。
ところが、その朝に限って…目の前に現れたのは、まな娘のヨネ姫だったのです。「ど、どうしたんじゃ、姫!」「父上、私を人身御供にさせてくださいませ…」聞くと、姫の夢枕にも龍神が立って、「お前が人身御供になるのじゃ」とのお告げがあったのです。「冗談じゃない、お前を人身御供になぞできるものか!」父は娘を思いとどまらせ、工事を続けました。しかし、どうやっても水は引かず、城作りは進みません。このままでは、未完成のうちに、敵に攻められてしまう。もう、こうなっては、仕方がありません…。苦しい立場の父を救おうと、自ら龍神の淵に身を投げた姫。 すると嘘のように工事を邪魔していた水はすっと引き、 道真・道灌の親子は無事に城を作り上げることができました。 …という、悲しいお話で、ございます。

10月8日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日お話は、「川越が小江戸になったわけ」です。
この季節になってまいりますと、よく耳にする落語、 「目黒のさんま」。 鷹狩り先の目黒の里で食べた下々の食べ物、「サンマ」にいたく感激した殿様。 お城でも「サンマを食べたい」と、家来を困らせる、 おなじみの話でございますが、実は、この殿様のモデルが、 誰あろう、徳川三代将軍 家光であるという噂があります。 実際、このお殿様、しばしばお忍びで江戸の町へ出て、 家来を困らせたんだそうですが、 実は、「家光が生まれた部屋」が、川越にあります。 では、家光は川越生まれか…といえば、そうではありません。 ちゃんと、江戸城で生まれております。 「家光誕生の間」があるのは、川越の有名なお寺、喜多院の中。 ここにはまた、家光の乳母、春日局が暮らしていた部屋も、 残されています。
徳川家康の信任が厚く、江戸の街づくりにも大きく関わったといわれる名僧、天海僧正が住職だったことから、徳川家は喜多院を大変敬っていました。寛永十五年(1638年)、大火事が起き、喜多院の建物は、ほとんどが焼け落ちてしまいます。そこで、知らせを聞いた家光が、「余の別邸を、喜多院に移すように」と命令を出す。江戸城内、紅葉山にあった建物を解体して、大切に川越まで運び、再び組み立てて再現し、お寺の客間、そして書院として使うようになったのです。後に、江戸城内の建物は、火事などにより、ほとんどが失われてしまい、創建当時の姿を現在でも見ることが出来るのは、ここ川越、喜多院に残されているものだけです。
聞こえているのは、川越名所のひとつ、「時の鐘」の音です。 高さおよそ16m、木造三階建ての塔の上に、 時刻を知らせる鐘を取り付けたこの建物。 最初に建てられたのは、喜多院に江戸城の建物が移されたのと同じ頃、寛永年間です。江戸の街で、鐘を鳴らして時を告げていたのに習い、時の川越城主、酒井忠勝が自らの領地に建設したものです。 現在の塔は明治時代に再建されたものですが、 江戸情緒を今によく伝えています。 江戸城の名残り、そして時の鐘。川越の町が「小江戸」と呼ばれるのも、このあたりに理由がありそうです。

10月9日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日お話は、「川越夜舟とサツマイモ」です。
皆様、「川越」といえば、何を思い浮かべますか? 十人中、七人か八人の方は、 「イモ」とお答えになるんじゃないでしょうか。 今でこそ、全国的に「サツマイモ」と呼ばれるように なっておりますが、江戸の町では、これ、 「川越イモ」と呼ばれていたんだそうです。 別名「十三里」とも申しまして、 これは川越と江戸の間が、ちょうど十三里およそ50キロの距離だったこと。 そして甘みの凝縮されたイモは、栗よりも旨いということで、 「栗(九里)より(四里)うまい十三里」。 野暮な説明をさせていただけば、「九里」と「四里」を 合計すると「十三里」になるという、 いかにも江戸っ子らしい「シャレ言葉」からのネーミングです。
川越でサツマイモの栽培が始まったのは、 十八世紀の半ばごろだと言われております。 天明三年(1783年)、浅間山の大噴火などが原因で起きた 「天明の大飢饉」のとき、川越産のイモが 江戸の町人たちの命を救ったことから評判となりました。 十八世紀になると、「焼き芋〜 焼き芋〜」と、 江戸の町に焼き芋屋さんが登場。 手軽でおいしい「おやつ」として、 人々に親しまれるようになっていったのです。 この季節、川越の観光農園で「芋ほり」を楽しまれた 経験をお持ちの方も、たくさんいらっしゃることでしょう。川越の芋を江戸に運んだのは、船でした。 江戸時代、城下町・川越は、物流の拠点として大いに栄えていたのです。遠く、信州や甲州から届いた農産物や炭などは、川越の新河岸川沿いに集められ、ここから船で江戸へと運ばれて行きました。
船のスピードは四種類あって、並舟、早舟、急舟、飛切。 いちばん早い「飛切」は、江戸でとれた新鮮な魚を、 夕食のおかずにするため、その日のうちに川越まで運びました。 また、人を乗せる「早舟」は、夕方に新河岸を船出して、 翌朝千住に着き、お昼ごろ終点の花川戸へ到着していた、 まあ、現在でいう夜行バスのようなものですね。 船頭さんは、眠気覚ましと客へのサービスを兼ねて、 歌を歌っていたそうです。 「川越舟歌」あるいは「千住節」と呼ばれ、 江戸で親しまれていました。 どこか艶っぽいのが、この舟歌の特徴です。 池波正太郎作「鬼平犯科帳」の中で、主人公・長谷川平蔵が、 この「千住節」を歌う場面があるのですが、その歌詞。 「千住女郎衆は、碇か綱か、今朝も二はいの船とめた」 情緒満点でございます。

10月10日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「川越まつりカウントダウン」。
毎年、十月半ばに行われ、およそ百万人もの人出で賑わう「川越まつり」。もともと、慶安元年(1648年)に、当時の城主の松平信綱が、氷川神社へ御輿や獅子頭、太鼓などを寄進したことがきっかけで始まったお祭り。今年は三百六十周年にあたります。江戸に近く、人やモノの交流も盛んだった川越だけに、山王祭や神田祭などの影響も大きい。さまざまな工夫が凝らされた勇壮な山車が練り歩くのは、もともと江戸の祭りが起源だったそうですが、首都・東京では明治維新や関東大震災、戦争などの影響で、大規模な山車が練り歩くスタイルの祭りは廃れ、現在のような御輿が中心の形に変わっていきました。つまり、川越まつりは、古の江戸の祭りを偲ぶことができる貴重なお祭りというわけ。これもまた、川越が「小江戸」と呼ばれる理由の一つなのでしょう。
現在、市内の各町内に、合計二十九台の山車があり、年ごとに、そのうちの何台かが交互に引き回されますが、今年の祭りに登場するのは十五台。それぞれの山車は一番下の車輪部分の上に台座があり、お囃子の皆さんが乗る舞台が作られ、太鼓が置かれています。舞台の後ろ側は幕で覆われていますが、実はここに、二階部分が隠されており、さらにその中にご神体である人形が入っている。祭りの盛り上がり具合や、その時の山車のポジションなどによって二階が現れ、さらにそこから人形がニュッと飛び出してくるという趣向。人形は、下から見上げて迫力が出るように、頭が大きく、また視線も下向きになっているなど、工夫が凝らされています。現在、川越に残っている山車には、江戸末期から明治にかけ、当時の名人上手が手がけたものが十台あり、これらは埼玉県の文化財に指定されています。
地面から人形の頭のてっぺんまでは、およそ7mから8m。この凄まじい大きさの山車が市内を練り歩くわけですから、迫力もハンパなものではございません。それも、コースや時間を決めて動くわけではないので、四つ角などでほかの山車に出会うと、回り舞台が回ってお互いに正面を向け合い、競い合うように囃子を打つ。これが、川越まつりの最大の見所といわれる「ひっかわせ」です。何台もの山車が一度に出会うと、お互い前後左右に激しく動きながら、回り舞台があちらを向いたり、こちらを向いたり、めまぐるしく動くのが特徴。一大スペクタクルが展開され、ギャラリーの興奮が絶頂に達する瞬間です。今年のまつりは、来週の土曜と日曜、10月18日と19日の2日間、行われます。
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