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ONAIR REPORT
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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

11月3日(月)〜11月7日(金)
今週は、「神田神保町 今昔物語」。世界一のブックタウン、
神田神保町の歴史にまつわるさまざまなエピソード、そして現在の神保町の姿をご紹介して参ります。

11月3日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「2008年の古本まつり」です。
先週からスタートして、きょう、十一月三日まで続いている、 「神保町古本まつり」。 今年で四十九回目を迎えました。神保町交差点付近で行われるワゴンセールを始め、 街のあちこちに古本がドーン! と溢れ出し、その数なんと百万冊。 ふだんでも人出の多いこの街ですが、 「古本まつり」の期間は、さらに込み合って大変な騒ぎ。 天気がよければ、歩道を歩くのもひと苦労です。
もともとこのあたりには明治時代から大学が多く作られ、 そこで学ぶ学生相手に本を売る店が多く出来たのが、 書店街の始まりだったんだそうです。 現在では、古書店、新刊書店、あわせておよそ二百店。 また出版社もおよそ四百社がこのあたりに集中しています。 「広辞苑」や「岩波文庫」でおなじみの岩波書店も、 もともとは古本屋さんでした。 当時は、本屋さんからスタートして、 次第に出版に手を広げていくというケースが多かった。 それで、この界隈に、本屋さんだけでなく、 出版社もどんどん増えていくことになったのです。

11月4日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「すずらん通り盛衰記」。
神田神保町のメインストリートといえば、靖国通り。 この大きな通りの両側に、たくさんの本屋さんが並んでいます。 ところが、明治の終わりごろまでは、 書店街の中心は、靖国通りの南側に並行している、現在の「すずらん通り」にありました。明治三十九年(1906年)に、靖国通りに市電が通ることになり、それをきっかけに、街の姿が少しずつ変わっていくことになったのです。
「すずらん通り」の名前がいつ付けられたのか、はっきりした記録は残っていませんが、おそらく大正の終わりごろ。
このころ、名前の由来になったといわれる、すずらんの形をした電灯=「すずらん灯」が流行。各地の商店街が競うように取り入れて、「すずらん通り」があちこちに誕生したのです。

11月5日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「カレータウン 神保町」。
神保町は、本の町であると共に、学生の町でもあります。 学生にとって、本屋さんと共に欠かせないのが、 喫茶店や、安くておいしい食べ物屋さん。 この界隈には、古くから続く、有名な飲食店が、 数限りなくありますが、中でも多いのが「カレー屋さん」。 なぜ、神保町でカレーなのか? 一説によりますと、買ったばかりの本を、 パラパラとめくりながら食べるのに、 片手でも食べられるカレーがぴったりだったから、 専門店が増えた…とのこと。ありそうな話ですよね。
神保町周辺には、欧風カレーから、 アジア風のお店、また高級店から安くて量の多い店まで、 たくさんのカレー屋さんが集まっています。 皆さんもぜひ、お気に入りの一軒を見つけてください。

11月6日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「神保町チャイナタウン」。
きのうは、神保町の名物、カレー屋さんのお話をお送りしました。 もう一つ、この界隈で目に付くのが、中華料理のお店。 神保町に、なぜ中華料理のお店が多いのか? 実はこれ、深い歴史があるんでございます。 明治二十七年から、翌年にかけての「日清戦争」で、 日本は中国、当時の「清国」と戦い、勝利を収めました。 清国は、西洋風に近代化された日本の姿に驚きます。 ウチも、積極的に西洋文明を取り入れなくてはならない。 しかし、直接ヨーロッパに出かけるよりは、 それをうまくアジア風にアレンジして取り入れた、 日本で学ぶ方が手間が省けるんじゃないか? …というわけで、今からおよそ百年ほど前、 清国から沢山の留学生が日本にやってくることになりました。 留学生の行き先といえば、大学。 大学がある場所といえば、神田神保町。 そこで、この近くに、中国人留学生のための施設が設けられ、 またそうした学生たちに故郷の味を提供するための、中華料理のお店もたくさん出来てきたという訳です。
当時の留学生の中には、後に新しい中国の担い手となった学生も数多くいました。中の一人が、周恩来。戦後成立した中華人民共和国で、毛沢東主席の右腕として活躍し、首相を務めます。昭和四十七年(1972年)の日中国交回復の時には、日本側の田中角栄首相と共に、共同声明に調印した、有名な政治家です。
彼が来日したのは、大正六年(1917年)。当時、神保町にあった中国人留学生のための予備校、東亜高等予備学校に通い、学生会館に顔を出しては、近所の中華料理店で懐かしい味を楽しみました。 しかし、猛勉強して受験に挑んだものの、 東京高等師範学校、そして旧制第一高等学校、 どちらも不合格という残念な結果に終わっています。 周恩来は、およそ二年、日本に滞在しますが、 この間、マルクス主義に出会い、興味を持つようになります。 そして帰国後、革命運動に身を投じていったのです。 現在、周恩来が学んだ東亜高等予備学校の跡地は、 千代田区立の「愛全公園」という小さな児童公園になっており、 その一画には「周恩来ここに学ぶ」という、 立派な石碑が建てられています。

11月7日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「ザッツ神保町エンタテインメント」。
神田神保町、今でこそ「本の町」として、 どこかインテリジェンスの漂うイメージがありますが、 戦前は東京を代表する盛り場の一つ。 現在の神保町から神田駅あたりにかけては、 全盛期には二十箇所以上の寄席があったそうです。 中でも有名だったのが、すずらん通りから、さらに南側に入った場所にあった「神田花月」。名前から分かりますように、吉本興業経営の寄席で、関東大震災後、「川竹亭」という、もともとあった寄席を買収して作られたそうです。当時、吉本興業は、東京にいくつもの劇場や寄席を持っていました。浅草花月は、レヴューも演じられるハイカラさが売り物の小屋でしたが、こちらの神田花月は、本格的な寄席だったんです。古今亭志ん生は、この神田花月で毎月独演会を開催。人気がブレイクするきっかけとなりました。吉本が買収する前の「川竹亭」時代には、落語だけではなく、薩摩琵琶などの興行が打たれ、明治四十五年(1912年)には、当時人気絶頂の娘義太夫が登場しています。
で、このとき、あまりにも観客が詰め掛けたせいで、二階の桟敷席がドーン! と、下に落ちてしまい、一人が重態となる惨事が起きたんだそうです。
神保町には、寄席だけでなく、映画館もたくさんありました。 昭和三十年代の映画黄金時代に、 もっとも栄えたのが、靖国通り沿い、 現在のタキイ種苗のところにあった「神田日活」。 裕次郎、アキラ、エースのジョー、そして吉永小百合。 ヒーロー、ヒロインたちの活躍に、小屋は連日大入り満員。 後に、スター軍団の一員となる二枚目俳優・和田浩治は、 神保町に実家があったので、中学生の頃、神田日活で映画を見ては、現在も続く喫茶店「さぼうる」で、 やるせない青春のときを過ごしていました。 「嵐を呼ぶ男」を上映したとき、上野の日活で溢れた客を、 この神田日活まで大型バスで運んできては映画を見せ、 また上野まで送り返す…なんてこともあったんだそうです。

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