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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

11月17日(月)〜11月21日(金)
今週は、「結婚式物語」。明治から平成の現在に至る結婚式の変遷、
そして話題を呼んだ結婚式にまつわるエピソードをご紹介します。

11月17日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「神前結婚式の始まり」です。
神殿の前に並んだ新郎新婦。 おごそかな雅楽の中、三々九度の盃を交わす…。 おなじみの「神前結婚式」のひとコマです。 いかにも、大昔から続いている儀式のように思われますが、 実は、この「神前結婚式」、意外に歴史は浅いということ、 皆様、ご存知でしょうか? 民間人が始めて、神前結婚式を行ったのは、 明治三十年(1897年)といわれておりますが、 これが広まるきっかけとなったのは、三年後、 明治三十三年、当時の皇太子殿下、後の大正天皇のご成婚。 祭壇の前に海の幸、山の幸を置き、 その前で夫婦固めの盃を交わす、この婚礼の儀式は、 古くから存在していましたが、 さほど、一般的なものではありませんでした。
ところが、文明開化の世の中となり、 欧米から入ってきた新しい価値観と、 古くからの日本の歴史をうまく折衷させた、 新しい時代の儀式が求められるようになってきた。 そんな結婚式のモデルとされたのが、当時の皇太子殿下と、 九条節子姫が挙げた神前での式だったのです。 この儀式は宮中で行われましたが、 それをモデルにして、一般庶民にも神前式を普及させたのが、 当時の日比谷大神宮、現在は場所を移って飯田橋にあります、 「東京大神宮」です。 で、ここで行われた儀式が、次第に全国に広まって行ったのが、 今日の「神前結婚式」というわけなんですね。 この式、十年ほどでかなりポピュラーなものになったようで、 大正元年に発表された夏目漱石の小説「行人(こうじん)」にも、 大神宮で行われた結婚式の模様が登場いたします。
「…そのうち式が始まった。巫女(みこ)の一人が、途中から腹痛で引き返したというので介添がその代りを勤めた。 自分の隣に坐っていたお重が「大兄さんの時より淋しいのね」とささやいた。その時は簫(しょう)や太鼓を入れて、巫女の左右に入れかう姿も蝶のようにひらひらと華やかに見えた。『御前の嫁に行く時は、あの時ぐらい賑かにしてやるよ』と自分はお重に云った。お重は笑っていた。…」それまでは、自宅で行われていた結婚式を、 神社で行うという画期的な変化がこの時起きました。 ところが、結婚式に付き物なのが「披露宴」。 神社での式はおごそかでよいけれども、衣装を着た一同が 披露宴の会場に移動するのも大変です。 それなら逆に神様を呼んでしまえばよい…ということで、 ホテルの一画に、神殿が設けられることになりました。 その第一号が「帝国ホテル」。三年前の十一月、紀宮清子さまと、 黒田慶樹(よしき)さんの結婚式がこのホテルで行われたのも、 歴史的なイキサツを考えると、実に意義深い出来事だったと いえるのではないでしょうか。

11月18日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「世紀の国際結婚」。
昭和十二年、1937年 4月3日。 当時の満州国・皇帝の弟、愛新覚羅溥傑さんと、 嵯峨公勝(さねとう)侯爵の娘、浩(ひろ)さんが、 結婚式を挙げられました。 場所は、東京・九段の軍人会館、現在の「九段会館」です。 杉並区大宮、現在は杉並区郷土資料館となっている場所にあった、嵯峨侯爵邸を出られた浩さんは、 沿道に並んだ人々の祝福を受けながら、九段に到着します。昭和十二年といえば、大陸では盧溝橋事件が起き、 日中戦争が本格化していった年。重苦しい戦争の影が次第に広がっていく中、この国際結婚のニュースは、つかの間、 人々を明るくさせました。 とはいうものの、「満州国」は、皆様ご存知の通り、 日本の軍部がこしらえた「傀儡政権」。 皇帝の弟、溥傑さんと日本の名門の娘、浩さんのこの結婚も、 「日満親善」を広く印象付けるため、半ば軍の主導で進められたものではありました。 当日の模様を、新聞記事からご紹介しましょう。
「この喜びに輝く日、溥傑氏は帝国ホテルで準備成り、 満州国中尉の軍装もりりしく、午後0時半、 媒酌人本庄大将並びに大使館員と共に、晴れの松竹梅の飾りも床しい軍人会館三階の式場へ。 「六時から二階大宴会場で披露宴を開く。 溥傑氏と洋髪に裾模様に着替えた浩姫をメインテーブルに、 本庄大将の挨拶、林首相、謝大使の祝辞。 最後に佐藤外相の発声で乾杯し、絢爛と歓喜に輝く 日満親善譜は高らかに奏でられた。 かくて、同十時、新郎新婦は帝国ホテルに引き上げ、 蜜月の第一夜が送られた…」 日本が国を挙げ、この結婚を成功させようとしていたことが、 よくわかる記事です。この後の話は、ドラマにもなりました。 ご存知の方も、多いことでしょう。
ご夫妻は幸福な日々を送り、二人の娘に恵まれますが、 戦争の終結と共に、溥傑さんはソ連に抑留され、 後に戦犯として、中国で服役することになりました。 一方、浩さんは苦労の末、日本に帰国しますが、 長女が恋人と心中して亡くなる悲運に見舞われます。 後に、溥傑さんは釈放され、浩さんも中国に渡って、 二人は北京で仲睦まじく、晩年をすごされたということです。

11月19日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「教会でハッピー!?」。
さて、既に結婚されている皆さん、あるいはされたことのある皆さんに、お伺いします。あなたの結婚式は、「なに式」でしたか?現在、行われている結婚式は、およそ6割から7割が「キリスト教式」。そして、およそ2割ほどが「神前式」、ほぼ同じ割合で「人前式」。このほかの「仏前式」などになると、ぐっと少なくなります。かつて、高度成長期から70年代にかけては、「神前式」が主流でした。それが、80年代ごろから、ぐっとキリスト教式の割合が、増えていくようになりました。その、決定的なきっかけとなったのが…そう、昭和五十五年(1980年)、今から二十八年前の きょう、十一月十九日に行われた、赤坂・霊南坂教会での、 山口百恵・三浦友和夫妻の結婚式でした。 それまで、結婚式を挙げる若いカップルたちは、 「自分たちは、クリスチャンじゃないのに、 教会で結婚式なんかして、いいものかしら?」という 心理的な戸惑いがありました。 また、当時は、まだまだ明治生まれの方が現役だった時代。 ご両親、おじいちゃん、おばあちゃんたちの プレッシャーも強かったように思います。 しかし、あの霊南坂教会に現れた世紀のカップルの、 あまりのカッコよさに、そうした戸惑いやプレッシャーは、 一気に吹き飛んでしまったのではないでしょうか。
百恵さん自身は、引退記者会見で、 「教会で牧師さんに会って、私達はクリスチャンじゃないので、 どういう気持ちで式に臨んだらいいのか、伺いました。 遊びとか冗談で結婚するわけじゃないんですけど、 本当に大事に、その瞬間を迎えなければならないんだな…って、実感しました」と話しています。 結婚式は午後三時スタートでしたが、当日は朝6時ごろから ファンが詰め掛け、昼過ぎには三千人が教会を取り巻きます。 警官隊も人出が足りず、機動隊が応援に駆けつける騒ぎ。 閑静な住宅街は怒号と悲鳴に包まれ、百恵・友和の二人は、 その中を披露宴会場の東京プリンスホテルに移動しますが、 ふだんならほんの十分で行くところを、なんと三十分も かかったんだそうです。友和さんは、この時の取材陣のことを、 「夏の海水浴客で賑わう海岸に放たれたジョーズのような存在に思えた」と語っています。
霊南坂教会は、百恵・友和から七年後、昭和六十二年の 六月十二日、郷ひろみ・二谷友里恵ご両人の結婚式で 再び脚光を浴びますが、その後、一般人への門戸を閉ざします。 現在は、ここで挙式できるのは、教会員やその家族だけですが、 虎ノ門、六本木界隈の散歩には欠かせないスポット。 アメリカ大使館のすぐ裏、赤レンガの美しい建物です。

11月20日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「ご成婚大フィーバー」。
「黄色いサクランボ」がヒットした昭和三十四年、(1959年)四月十日の、現在の天皇陛下、 当時の皇太子殿下と、現在の皇后陛下、当時の正田美智子さんとの結婚、これに尽きるのではないでしょうか。 それまで、天皇陛下のお后となる方は、皇族や公家の出に限られていました。ところが、美智子さんは、ごく一般の民間人でしたから、 マスコミは驚きをもって迎えたのです。 しかも、二人の出会いの場が、「軽井沢のテニスコート」というロマンティックな場所だったことも、 フィーバーを一段と盛り上げることになりました。 いわゆる「ミッチー・ブーム」が巻き起こったのです。
美智子さんが身に着けていた白いVネックのセーターや、 ヘアバンドといったファッションが大流行。 ミッチー・ファッションは白が基調で、 初めて宮中に参内されたときの服装も白。 実際に身に着けていたのは、白というよりは、 アイヴォリー、象牙色だったそうですが、 当時のテレビは白黒ですし、もちろん新聞写真も白黒。 実際の微妙な色など、伝わるはずもございません。 ミッチーが白なら、私も白よ…というわけで、昭和三十三年から翌年にかけ、女性たちの服装は、 見渡す限り白、白、白…といった按配でした。お二人の晴れ姿を一目見ようと、 テレビの契約台数が飛躍的に伸びたのは有名な話。 ご婚約が発表された当時は、およそ百万台だったのが、 それから結婚式までのわずか五ヶ月で、 倍の二百万台になったという、これ凄い数字ですよね。
テレビ局も、なんとか工夫を凝らして見せようと、 大規模なクレーンを導入したり、 沿道にレールを敷いてカメラを移動するなど、 さまざまな技術革新が行われました。 四月十日は、すべてのテレビ局が、朝から晩までご成婚特番。 あさ6時半、美智子さんが実家を出発する所から中継が始まり、 皇居に到着するまでの一部始終が伝えられます。 結婚式は十時からスタート、そしてパレードは午後二時半から。 二重橋から皇居を出て桜田門、半蔵門を左に曲がって、 四谷見附へ。聖イグナチオ教会では祝福の鐘が鳴り、 聖歌隊がお祝いの歌を歌う中、そのまま新宿通りを四谷三丁目まで直進、そして外苑東通りを左折、 信濃町から神宮外苑を抜け、青山通りを経て国学院大学近くの 東宮仮御所まで9キロを50分、馬車に乗ってのパレード。 沿道には露店が立ち並んで、大変な賑わいでした。 実際にテレビで見た、あるいは沿道でご覧になったという方も、 たくさんいらっしゃるのではないでしょうか?

11月21日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「日比谷 夢のあと」。
晴海通りと日比谷通りの交差点にそびえる高級ホテル、 ザ・ペニンシュラ東京。去年の九月、華々しくオープンして 話題となりましたが、実はこの場所には、かつて、 戦後を代表する有名なホテルが建っておりましたペニンシュラ東京の場所に、かつて建っていたのは、 「日活国際会館」。 昭和二十七年(1952年)に竣工したこのビルディングは、 地上9階、地下4階建て。三角形の優美なスタイルが印象的な建物でした。 一階にあった「アメリカン・ファーマシー」は、 リアルなアメリカを感じさせる店として、オープン後、 たちまち、若者の人気スポットとなったんですね。 で、この最上階にあったのが「日活国際ホテル」。
オープンから二年後には、いま歌声が聞こえております、 マリリン・モンローが宿泊し、地下の宝石店で、首飾りをお買い上げになったというエピソードも残っています。 人気絶頂のハリウッドスターが泊まる、 そんな高級ホテルだったわけです。 そして、このホテルは、日活が誇るニ大スターが、 結婚式を挙げたことでも、歴史にその名を残しています。一組目は、石原裕次郎、北原三枝(現在の石原まき子)夫妻。 昭和三十五年(1960年)十二月二日、 神前でおごそかに結婚式を挙げました。 まき子夫人は、三々九度の盃を持つ裕次郎の手が、 かすかに震えているのを見ていたそうです。 前の日は、クレージーキャッツのハナ肇と、 朝まで飲み明かしていたという裕次郎、 やはり、かなり緊張していらしたようですね。 そして、シルバールームに移動しての盛大な披露宴。 力道山、三船敏郎、長嶋茂雄、もう、スポーツ、芸能、 ありとあらゆる大スターが集まりました。
ちなみに、天井まで届くかと思われる巨大な ウエディングケーキは、この裕次郎の披露宴から、 流行が始まったんだそうです。 二人は、日活国際ホテル650号室で初夜を迎えました。二組目は、やはり日活の誇る大スター、小林旭と、 昭和歌謡の女王、美空ひばり、世紀のカップル。 こちらは二年後、昭和三十七年(1962年)の 十一月五日、やはり裕次郎に負けず劣らずの ゴージャスな華燭の典を挙げました。 裕次郎・まき子夫妻とは違って、こちらは、わずか 一年半ほどの結婚生活に終わっています。 日活国際会館は、昭和四十四年、映画の斜陽化と共に売却され、 「日比谷パークビルジング」と名前も変わってホテルも閉鎖。 そして建物そのものも、5年前に解体され、 跡地にザ・ペニンシュラ東京が建設されました。


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