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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

12月8日(月)〜12月12日(金)
今週は、「歌舞伎町と新宿コマ劇場」。ことし一杯での閉館が決まった新宿コマ劇場と、
歌舞伎町にまつわる話題をご紹介します。

12月8日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

初日のきょうは、「歌舞伎町物語」です。
わずか600メートル四方ほどの中に、 四千以上の劇場、映画館、飲食店、風俗店などが ひしめき合う、東京を代表する歓楽街、新宿・歌舞伎町。「歌舞伎町」という名前が生まれたのは、いま聞こえている笠置シズ子さんの「東京ブギ」がヒットした昭和二十三年、1948年のこと。ことしでちょうど六十歳、 団塊の世代の皆さんと、ほぼ同じ年月を過ごしてきたわけです。 昭和二十三年の三月まで、この地域は「角筈(つのはず)一丁目」と呼ばれていました。戦前、あたりのランドマークとなっていたのは、大正九年、1920年に建てられた東京府立第五高等女学校。今の姿からは想像もつかない、静かな文教地区だったんですね。ところがこの一帯、昭和二十年四月十四日の空襲で、焼け野原となってしまいます。女学校は焼け残った近所の小学校に移って授業を再開。戦後は、現在の中野富士見町近くに移転し、後に「都立富士高等学校」となって現在に至っております。
さて、学校のなくなってしまった角筈一丁目は、戦後、「興行街」…「お芝居、映画の街」として再生を目指すことになりました。その中心となったのが、当時の町会長だった鈴木喜兵衛(きへえ)さん。で、この方が、「荒れ果てた街を作り直すには、みんなが権利を主張してはダメだ。大きなコンセプトを立てて、それに従って、一から街づくりを進めていこうじゃないか…」と、訴えた。 鈴木さんの唱えた「コンセプト」が、 「芸能を中心にした街づくり」だったんですね。 鈴木さんの熱心さに、地主も協力することになり、 「角筈一丁目ブロードウエイ化計画」が現実的に。 構想の中心になっていたのが、第五高女の跡地に計画された、 本格的な歌舞伎のための劇場でした。新しい街には、新しい名前が必要だ…ということで、 歌舞伎の劇場ができるなら「歌舞伎町」でいいじゃないか…と、 当時の東京都の都市計画課長が名づけたのが、現在の名前です。
現在の街の再開発計画といえば、行政が旗振り役だったり、 あるいはゼネコンが中心になるものがほとんどですが、 ここ歌舞伎町は、住民たちが自分で考えて計画を進めた。とても珍しい例だったんですね。ところが、劇場を中心とした一大興行街の構想が公になり、本格的な工事に取り掛かろうとしたところで、事件が起きます。インフレ防止のための預金封鎖が起きて資金が不足し、また建築制限令が出たため、大きな建物が建てられない。せっかくの構想も、いったん頓挫してしまったのです。歌舞伎町はこの危機をどうやって乗り越えていったのか、続きは、また、明日。

12月9日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「小林一三(いちぞう)登場」です。
空襲で焼け野原になった街に、劇場や映画館を作って健全なアミューズメント・センターにしよう…そんな住民たちの計画からスタートした歌舞伎町プロジェクト。ところが、預金封鎖や建築制限令のおかげで計画は暗礁に乗り上げてしまいます。しかし、昭和二十五年に、この歌舞伎町を中心に、「東京文化産業博覧会」という大イベントが開催されます。この博覧会に使われた建物を映画館などに模様替えすることで、現在につながる興行街が形作られました。それでも、町の顔とも言うべき「劇場」は、まだ、ありません。そこへ登場したのが、 阪急電鉄や阪急百貨店などの創業者であり、宝塚少女歌劇や東宝映画の創始者としても知られる実業家、小林一三。
小林は、地元からの再三の訴えに重い腰を上げ、歌舞伎町の地に、まったく新しいタイプの劇場を建設することにしました。それが、新宿コマ劇場だったのです。小林は、古くから、演劇を特権階級のものではなく、ごく安い入場料で見られるようにして、一般市民たちに健全な娯楽を提供したいと考えていました。そんなプロジェクトの一環として、生涯最後に手がけたのが、新宿、そして大阪・梅田の「コマ劇場」だったのです。小林は、昭和十年(1935年)に視察旅行のため出かけた アメリカ、ブロードウエイで、度肝を抜かれました。 巨大なせり上がり装置にのって、およそ百人からなる フルオーケストラが、陽気な音楽を演奏しながら、 いきなり登場してきたのです。 いつか、こんな劇場を自分の手で作りたい。 およそ二十年を経て、小林は夢を実現させました。
舞台はデコレーションケーキのような三重の同心円状になって、それぞれが上下に動き、またコマのようにくるくると回転して、 バリエーション豊かな舞台効果を生み出します。もちろん「コマ劇場」の名前も、ここから来ているんですね。 また、ギリシャの劇場からヒントを得た、どこからでも見やすい円形の観客席もコマ劇場の特徴。 後に「コマの女王」的存在となる、 あの美空ひばりさんも、「歌いやすい」とお気に入りでした。 ひばりさんの立ち位置は、舞台の前から 2メートルほど、後ろへ下がった場所。 そこが、すべての客席を見渡して歌うことができるポジションだったからです。

12月10日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「紅白歌合戦1958」です。
いよいよ閉館が近づいてきた新宿コマ劇場。 最後の最後に使われるのは、今年の大晦日、 テレビ東京系列「年忘れにっぽんの唄」の生放送です。 紅白歌合戦と同じ時間帯に放送される番組の中でも、 老舗的存在ですよね。 で、一方、そのNHK「紅白歌合戦」ですが、 実は、六十年近い歴史の中でたった一度だけ、 この新宿コマ劇場で生放送を行ったことがあります。 奇しくもちょうど半世紀前の昭和三十三年、 1958年の大晦日。司会は、白組が、高橋圭三アナウンサー。 「どうも、どうも…」…似てませんね。そして紅組は… はい、実は、黒柳徹子さんだったんです。凄いですね。 この年は紅白も人気絶頂を迎えていた頃で、 民放各局も「紅白にならえ!」と、同じような番組を 生放送していました。
歌手の皆さんはかけもちが大変で、 次から次へと局を移動する「神風タレント」という言葉が 生まれたんだそうです。この年の出場者は紅白二十五組ずつの合計五十組。 初出場は九組いらっしゃいまして、たとえば白組は神戸一郎さん、ダークダックスの皆さん。紅組はシャンソンの大御所である石井好子さんといったメンバーが目を引くところですが、中でも一番の大物は! 三波春夫さん、もう亡くなられてしまいましたが、 初出場だったんですね。
曲はこの「雪の渡り鳥」。 ちなみにこの年、もっとも評判をとったのは、 同じく初出場組のマルチタレント、フランキー堺さんでした。 この方も「神風タレント」の代表格で、当日は白バイの先導で コマ劇場に飛び込んできたんだそうです。もともとジャズミュージシャンのフランキーさんですが、 役者として、またコメディアンとして人気絶頂でした。 いまリメイクで話題のドラマ「私は貝になりたい」もこの年。 また森繁久弥さん、伴淳三郎さんと共演したヒットシリーズ、 東宝の「駅前シリーズ」が始まったのもこの昭和三十三年。 この年の出場者のうち、今でも現役でバリバリの方、 本当に数えるほどになってしまいました。

12月11日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「コマの女王」です。
新宿コマ劇場の出し物といえば「お芝居と歌」。 このやり方が定着することになったのは、 昭和三十九年(1964年)六月、 東京オリンピックの直前に行われた、美空ひばりさんの初公演から…と言われております。 コマがオープンしたのは昭和三十一年の十二月で、 最初は映画が上映されました。 実演が始まったのは翌年からで、 第一回公演は、菊田一夫がプロデュースしたミュージカル。 エノケン、ロッパ、トニー谷という豪華な顔合わせでした。 コマ劇場、よく出かけたわ…という方、機会があれば、新宿コマ劇場のホームページをのぞいてみてください。昭和三十二年以降の、詳細な上演記録が載っていますので、いろんなことが思い出せると思います。
上演記録を眺めていると、サーカス団に女剣劇、 ボリショイ・バレエが出たかと思えば新派大悲劇があり、レニングラード・フィルの来日公演まで行われている、何でもありのラインアップ。 なかなか「コレ!」という決め手が見つからなかったんですね。 で、そんな流れを止めて、コマといえば、「お芝居と歌」、 これを始めたのが美空ひばりさんだったんです。 ひばりさんがいなければ、現在のコマは存在しなかった、と、 言ってもいいかもしれません。 新宿コマ劇場は、開場当時と比べて、いくつか手直しされていますが、それは、ひばりさんサイドのリクエストによるものが多いんだそうです。たとえば、三階の楽屋の奥にある、舞台と客席が見える小部屋。これは、ひばりさんのお母さん、喜美枝さんが、娘の歌や演技をチェックするための部屋だったとか。
また、舞台両袖に作られた花道も、ひばり物件。昭和四十年に作られた三階の完全防音ベビールームも、「赤ちゃん連れのお客様にも安心して見ていただきたい」と ひばりさんと喜美枝さんのアイデアで設置されました。ひばりさんは、スタッフにも大変厳しかったことで有名です。 舞台の下から、スルスルせり上がってくるマイク。 高さの調整は、手作業で行われているんですね。 タイミング、高さ、ほんの少しズレてもNG。 照明も同じで、クライマックスのその一瞬に、 顔にめがけてピンスポットをパッ! と当てる。 コツをつかもうと、照明の担当スタッフは、 毎日、朝から、何度も何度も練習を繰り返したそうです。 そして音響もしかり。担当者が変わって音が変わるのが ガマンできないひばりさんは、鶴の一声。 「私の担当、代えないでちょうだい!」 これ以来、ひばり担当スタッフは、公演中、 休むことが出来なくなりました。 しかし、ひばりさんに鍛えられたコマのスタッフたちは、 プロ中のプロとして、今でも高い評価を得ています。 もし、ひばりさんが、まだご存命だったら… コマ劇場の寿命、もう少し、延びたかもしれませんね。

12月12日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「エレベーター物語」です。
一度でも、新宿コマ劇場の舞台を踏んだ方なら、 誰もが「あれは凄い…」と口を揃えて絶賛するものがあります。 それは、楽屋と舞台を行き来する「エレベーター」。 昭和初期に作られた、オーチス社製のクラシカルな一品。 きのうもご紹介した、「コマの女王」美空ひばりさんも、 大のお気に入りで、 「このエレベーターだけは、何があっても残して」と、 常々、話していらっしゃったんだそうです。 衣装や床山部屋のある地下1階、 ステージにつながる中2階、そして楽屋のある2階、3階。 出演者やスタッフを乗せて、一日四百回近く上下するんですが、 常にスタッフの方がついていて、手動で動きます。 レバーを右に動かせば上へ、左なら下へ。
建物側についている扉に書かれている階数を見て、 ドンピシャの場所でエレベーターを止め、扉も手で開きます。 舞台に出るタイミングが一瞬でも遅れてはいけない。エレベーターのスタッフの皆さんは、台本を隅々まで読み、 セリフや歌詞、効果音などのきっかけを頭に覚えておいて、 「この音が鳴ったら、誰を迎えにいく」と、 公演中の動きをすべてシミュレーションしておくんだそうです。 また、あまり仲のよくない役者さんが共演している時は、 エレベーターで会わないよう、微妙にタイミングをずらす、なんてこともするんだそうで、。 ここにもまた、プロフェッショナルの技が息づいています。 わずか2メートル四方ほどの狭い空間。 小林幸子さんの衣装の早代わりでは、ここで6人のスタッフが待ち受けて、頭のてっぺん、カツラから履物までを数秒でチェンジ。F1レースのピットクルーに勝るとも劣らない、見事な職人芸。エレベーターを動かすのもプロなら、衣装を代えるのもプロの仕事なんですね。
ことし九月、最後のコマ座長公演を行った北島三郎さんも、 このエレベーターを愛した一人。 フィナーレで歌われたのは、「まつり」でした。 サブちゃんのコマでの公演回数は、39回。 女王、ひばりさんの30回を抜いて、ダントツの一位です。「どんなに疲れていても、楽屋を出てエレベーターに乗ると、 本名の大野穣(みのる)から、北島三郎に変わっていく。 そんな俺を、エレベーターは、ずっと見ていてくれた。ありがとう、また会おうじゃないか」と、 話していらっしゃいます。 日常と非日常、現実と夢の国とをつなぐ、不思議な箱。 それが、新宿コマ劇場のエレベーターなんですね。

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