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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

12月15日(月)〜12月19日(金)
今週は、「赤穂浪士の足跡(あしあと)」。この番組、毎年十二月恒例の、元禄赤穂事件、忠臣蔵特集です。
今回は、討ち入りを目前に控えた浪士たちの、江戸近辺でのエピソードをご紹介します。

12月15日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
 初日のきょうは、「武州平間村(ひらまむら)」です。
元禄十五年 十二月十四日…といえば、赤穂浪士の討ち入り。 これを西暦に当てはめますと、 1703年1月の出来事、ということになります。 さて、いよいよ討ち入りが近づいて参りまして、 首謀者の大石内蔵助が江戸へ下って参ります。 十月二十一日。箱根神社で討ち入り成功を祈願。 このとき、仇討ちの大先輩である曽我兄弟の墓に詣で、 ツキをもらおうと、その墓石を少し欠いて紙に包み、 以後、肌身離さず持ち歩いたと言われております。 ギャンブラーが鼠小僧の墓を削り取るようなものですね。 続いて、十月二十二日には鎌倉、鶴岡八幡宮に参拝。 そして、川崎宿到着。 ここから東海道を辿れば江戸はもう目の前ですが、 大石は寄り道をします。行き先は、当時の「平間村」。 現在の川崎市幸区、JR南武線の鹿島田駅の近くです。 大石は十月二十六日から十一月五日まで滞在し、討ち入りの計画を練り上げました。 なぜ大石は、この平間村に立ち寄ったのか。
実は、ここには、旧・赤穂藩と縁の深い、軽部五兵衛(かるべごへえ)さんという方が住んでおりました。五兵衛さんは農民で、築地鉄砲洲、現在の聖路加国際病院のあたりにあった、浅野家の屋敷に出入りして、馬の餌である「まぐさ」を納め、また屋敷から出る下肥を引き取っていたそうです。 元禄十四年三月、浅野内匠頭が江戸城内で 吉良上野介に斬り付けるという事件が起きます。 内匠頭は、即日切腹。赤穂藩はお取り潰しとなり、 屋敷もすぐに立ち退かなければなりません。 現在の私たちにしても、引越しは一大事業でございまして、 狭いアパートの一部屋にしても、けっこうな準備が必要ですが、 大名屋敷ともなりますと規模が違います。
築地の上屋敷だけでも敷地九千坪、建物が三千二百坪! これを準備期間なしで即刻引き払うわけですから、 まあ、大パニックですよね。とにかく、人手がいる。 そうだ、平間村の五兵衛に頼もう…ということになりまして、 急の使いが川崎へと向かいます。 知らせを受けた五兵衛さんは、浅野様の一大事…というので、 馬や荷車、さらに人足まで用意して築地へ駆けつけ、 なんとか無事に引越しを終えることができた、というわけです。 行き場をなくした浪士たちは、その後も五兵衛さんを頼り、 懐が寂しくなるとご飯を食べさせてもらったりしていましたが、 後に、敷地の中に、会合などに使うための、小さな家を建ててもらいました。 で、この家に、大石がしばらく滞在したというわけなんです。十一月五日。大石は準備が整ったとして、ここから 渡し舟に乗って対岸へ。東海道の混雑を避け、 川崎大師への参道として使われていた旧街道、 「平間街道」を使って、いよいよ江戸に入ります。


12月16日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「赤垣源蔵 徳利の別れ」です。
元禄十五年、十二月十四日。 本所松坂町 吉良上野介邸に討ち入った赤穂浪士は四十七人。 これだけの人数がおりますから、 もう、江戸のそこら中に、彼らの足跡は残っております。 我らが文化放送の地元、浜松町も例外ではありません。 このあたりにあった、「檜物屋」さん… 「ひもの」と申しましても、アジの開きではございません。 「ひのき」という字に、「もの」、物体の物ですね、 「ひのきもの」と書いて、「檜物」。 ひのきや桜、樺などの薄い板を曲げて、 いろいろな器を製造販売していたお店のことです。 この「檜物屋」の「惣兵衛」さんの長屋に、 浪士の赤埴(あかばね)源蔵、矢田五郎右衛門の二人が住んでおりました。赤埴源蔵…といえば、浪曲や講談などでおなじみ、「徳利の別れ」で知られる赤垣源蔵のモデルとなった方。
おなじみの物語ではございますが、一応、ご紹介して参りましょう。日ごろから、お酒が大好きだった源蔵は、赤穂藩が取り潰され、浪人となったあと、しょっちゅう兄の家に顔を出しては飲んだくれ、兄嫁に疎まれていました。…とはいうものの、酒に酔うのも敵を欺くため。こんな酔っ払いの男が、仇討ちなど考えているはずがない…と、吉良の間者に思わせるのが目的でした。
討ち入り前夜。源蔵は、世話になった兄夫婦に別れを告げようと、家を訪れますが、あいにく、兄は用事があり外出しています。兄嫁は、日ごろの酔っ払いぶりから源蔵を嫌っており、顔を出そうともしません。部屋に上がりこんだ源蔵。えもんかけに吊るされた兄の羽織を前に、深く一礼。「兄上、大変お世話になりました。 永のお別れの前に、ひと目、ご挨拶したかったのですが、 あいにくお留守とのこと。 今は、この羽織を兄上と思い、一献」しばしの間、一人静かに酒を飲み、兄との別れを惜しんだ…という、これが有名な「徳利の別れ」のエピソード。 翌日、兄夫婦は討ち入りの知らせを聞き、 たいへん後悔した…というお話でございます。 実際の源蔵に兄はなく、また下戸だったそうで、 これは完全にフィクション…ではございます。 それにしても、討ち入りの前には、こうした別れの場面が、 江戸のあちこちで見られたことでしょう。

12月17日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「両国橋の出会い」です。
両国といえば、相撲の町。浅草橋交差点から靖国通りを東へと向かい、 両国橋を渡れば、国技館は、もう、すぐそこですし、 あたりには相撲部屋もたくさんございます。 で、本所松坂町、吉良上野介の屋敷も、目の前です。 討ち入り前夜。 浪士の一人、大高源吾は、煤竹売りに変装して、 吉良邸の様子を探っておりました。 煤竹…と申しますのは、煤払い、 今でいう「大掃除」のような年末の恒例行事に使う道具です。 長い竹の先のほうだけ、葉っぱを残してあるもので、 これで天井にたまった煤を落としたんだそうで、 「煤竹売り」というのは、江戸の年の暮れならではの 風物詩だったんですね。
貧しい町人姿に身をやつし、竹をかついだ大高源吾が、 雪の両国橋に差し掛かる。 と、向こう側から古いなじみの俳人、宝井其角がやってきた。 実は、源吾も俳句では名人として知られ、 子供の「子」に、葉っぱの「葉」と書いて、 子葉(しよう)という俳号も持っていたんですね。 かつては赤穂藩の武士として、 立派な身なりで俳句の世界に出入りしていた自分が、 今ではこんなみすぼらしい姿…。 一方の其角は、宗匠頭巾に襟巻き、 暖かそうな綿入れの羽織を着込んでおります。 できればそのまますれ違いたいと思った源吾でしたが、 相手に気づかれてしまいました。 「子葉さんじゃありませんか」 「これは、其角先生…お恥ずかしい姿をお目にかけます」 昔なじみの落ちぶれた様子を哀れに思った其角は、 源吾に綿入れの羽織を着せてやります。
そして、即興で一句を詠む。 「年の瀬や 水の流れと 人の身は」 すると、源吾は、こう返します。 「あした待たるる その宝船」 二人はそのまま、別れていきました。 其角は、「あした待たるる その宝船」を、 また別の殿様に仕えたいという意味に取りましたが、 もちろん、源吾がその句に込めた気持ちは、 「明日の討ち入りが待ち遠しくてならない」ということ。 翌日、其角は、吉良邸の隣で催された茶会に出席し、 夜半、討ち入りの物音に目覚め、ようやく源吾の真意を知る… 浪曲やお芝居でおなじみ、「両国橋の出会い」の物語です。 残念ながらこのお話、完全なフィクションのようですが、 大高源吾が俳句をたしなんでいたのは、本当のこと。 現在も両国橋東詰めには、源吾の句碑が建てられています。 「日の恩や たちまち砕く 厚氷」

12月18日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「南部坂雪の別れ」です。
忠臣蔵の物語に、なくてはならない小道具が「雪」。 討ち入り前後の名場面の数々も、 雪がなければ魅力は半減してしまいますよね。 もし、討ち入りが真夏の出来事だったとしたら、 物語がここまでポピュラーになったか、どうか。 本日ご紹介するエピソードも、雪あればこその名場面です。 赤坂、南部坂。現在で言えば、 全日空ホテル、アークヒルズから六本木通りの反対側を 少し入ったあたり。 浅野内匠頭の未亡人、瑶泉院(ようぜいいん)が暮らしておりました。 住まいは、実家である、三次(みよし)浅野家の下屋敷。 現在の赤坂、氷川神社のある場所でございます。 十二月十四日、昼。 大石内蔵助は、報告のため、瑶泉院を訪ねます。 今夜、にっくき吉良の屋敷に討ち入り、 亡き殿の恨みを晴らします…と言いたいところでしたが、 怪しい女中の姿がある。 さては、ここにも吉良の間者が! 大石はとっさに、「西国の大名への仕官が決まりました。 今日はいとまごいに参りました」 これはつれづれに書き綴った旅日記でございます…と、 浪士一同の連判状を差し出した。 内蔵助の真意がわからない瑶泉院は何も言えない。 去っていく内蔵助の背中を、雪の中見送る…という名場面です。
このお話、内蔵助が、活動資金の収支決算書を、 瑶泉院の用人に提出した、という事実が脚色されてできた フィクションだと考えられています。 なぜ収支決算を瑶泉院に報告する必要があったのか。 実は、赤穂藩が取り潰され、討ち入りまでのおよそ一年半の活動資金に、 瑶泉院の持参金を使っていたからなんですね。およそ七百両の資金、使い道は、内匠頭の法事の費用、浅野家の再興のための運動資金、浪士たちの旅費、生活費、家賃、そして武器の調達費用など。瑶泉院に提出したこの詳細な帳簿は、後に箱根神社に奉納され、現在も大切に保存されています。
討ち入り当日、残っていたのは七百両のうち、およそ二十両。資金もつきかけていました。そうした意味で、十二月十四日の討ち入りは、ギリギリのタイミングだった…と言うこともできるのです。

12月19日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「本所松坂町」です。
赤穂浪士たちは、首尾よく敵、 吉良上野介を討ち果たしますが、その陰には、 たくさんの協力者たちの存在がありました。 代表的なのが、大石内蔵助一族の親戚に当たる、 大石無人(むじん)と、その次男、三平の親子です。 無人は、かつて赤穂藩に仕えていましたが、後に浪人。 討ち入りのメンバーに加えて欲しいと望んだものの、 断られ、裏方に廻って、浪士たちを支えました。 浪士のひとり、大石瀬左衛門の伯父でもあり、 お金に困った瀬左衛門の暮らしを助けることもあったようです。 また、息子の三平は、吉良邸の情報を集め、 討ち入りの日取りを決めるのに大きな助けとなりました。 決行すれば、世間は大騒ぎすること間違いない大事件ですから、 日程は慎重の上にも慎重に決めなければならない。 もしも失敗したら、二度とチャンスはありません。 しかも、上野介は、ほとんど息子、上杉綱憲(つなのり)の屋敷で寝泊りしており、自宅に戻るのは茶会を催すときだけ。赤穂浪士は、吉良邸の茶会の日取りを突き止めなければならなかったのです。
茶人、山田宗偏(そうへん)の弟子であった三平は、 吉良家に出入りしていた文化人、羽倉斎(はくらいつき)から 「彼方の儀は、十四日のようにチラと承り候」 との手紙を受け取り、これを直ちに浪士たちに通報。 同じ情報が大高源吾からも届き、内蔵助はこれによって、討ち入りを十二月十四日と定めたのです。十二月十四日、深夜。 大石無人、三平の親子は、吉良邸の周りに槍をもって立ち、 討ち入りを邪魔するものがあれば、 それを阻止すべく、警備を続けたと伝えられています。 そして、この親子をモデルにしたといわれるのが、 あの三波春夫さんの歌謡浪曲でおなじみ、俵星玄蕃。 浪士の一人、蕎麦屋に身をやつした杉野十平次に槍を教え、 そして討ち入り当日、吉良邸近くに駆けつけたという、 おなじみのエピソードでございます。


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