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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

1月19日(月)〜1月23日(金)
今週は、「国技館の百年」。
明治四十二年、最初の国技館がオープンしてから、今年でちょうど満百年を迎えるのにちなんで、
相撲の歴史を彩るエピソードをご紹介して参ります。

1月19日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「アメ横物語」です。
江戸時代の相撲は、小屋がけ興行。 現在の国技館のように、常設の建物はございません。 たいがいは、どこかのお寺や神社の境内を借りて、 よしずで囲った仮設の小屋の中で、 熱戦が展開されていたものでございます。 たとえば市谷八幡、深川三十三間堂、浅草の観音様、 湯島天神、神田明神などなど、江戸のあちこちが会場となりました。ここ、文化放送のご近所でも、芝の大神宮や青松寺、西久保八幡といったところで相撲の興行は行われていましたが、時代を下るに従って、両国の回向院で集中して行われるようになっていきました。そして、天保四年(1833年)からは、年に二回、春と秋の場所が、決まって、回向院の特設土俵で開催される決まりとなったのです。
回向院の境内には、昭和十一年(1936年)に、歴代年寄の供養のために建てられた「力塚」があり、現在でも、若い力士たちの参拝が後を絶ちません。それにしても、なぜ、両国が選ばれたのでしょう?これは、当時、両国が、江戸でも一番の盛り場だったから。両国とは、武蔵と下総、二つの国をつなぐ場所という意味。現在、両国といえば、隅田川の東側を指しますが、その昔は両国橋の東詰、西詰を合わせて「両国」と呼びました。橋の両側には、火事の延焼を防ぐため、広い空き地が作られていたので、露店などが立ち並び、それは大変な賑わいだったと伝えられております。当時の相撲にとっての大敵は「雨」でした。 現在は、室内で行われますから、一場所は天候に関わらず 十五日間と定まっております。
ところが、江戸時代から明治の半ばにかけては、 カンタンな小屋の中での興行、雨が降れば当然、中止。 江戸の中ごろまでは「晴天八日間」、 のちに「晴天十日間」と改められ、これが長く続きました。 晴天十日間というのなら、雨が上がったら、すぐ翌日から 再開するのかと思えば、さにあらず。 いったん中止になると、再開するときは、その前の日、 「明日、相撲やりまーす」と触れ太鼓が回る。 ですから、一日おきに雨が降ってしまうと、 なかなか再開できず、一場所を終えるのに、 一ヶ月以上かかってしまうこともあったとか。 傘をもったお客様が小屋に入ろうとすると、 「なんだこの野郎、縁起でもねえ」と張り倒されたという、 ウソのような本当の話が新聞に載ったこともありました。

1月20日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「怪力梅ヶ谷(たに)現る」です。
江戸、そして明治維新後、その名が東京と改められた後も、 相撲の興行は、両国、回向院の境内で続いていました。 明治の初めごろは、相撲にとって、あまりいい時代ではありません。文明開化の世の中に、ふんどし一本の裸で取っ組み合う。こんな野蛮な見世物はいかがなものか…と、考える人が多かったんですね。ましてや、頭の上には昔ながらのちょんまげ。明治四年(1871年)に断髪令が出されると、お相撲さんたち、どんどん肩身が狭くなっていった。
しかし、伊藤博文を始めとする政府高官の中に、相撲好きな方が多かったせいで、お相撲さんのちょんまげはオーケーということになり、辛くも伝統は守られることになったのでございます。
それでも、明治の初めごろは、相撲に対する風当たりが強く、例えば九段の招魂社、現在の靖国神社の建設工事を手伝ったり、市内の消防活動を行うなど、社会奉仕活動を行っています。「愛される大相撲」になるべく、努力していたんですね。いずれにしても、人気は水モノでございます。 一人のスーパースターの出現で、そのジャンル全体が活気付く。 現在でもよくあることですね。 明治時代前半を盛り上げた土俵の人気者といえば、 明治十七年(1884年)に横綱免許を受けた、梅ヶ谷。 赤ん坊のときに石臼を引きずり、 お菓子よりもお酒を欲しがったという伝説の残る人物です。 四斗樽を片手で持ち上げたという怪力の持ち主、 だいたい百キロ近い重さということになりましょうか。 もちろん飲む方も凄まじく、千秋楽に飲み歩いたときは、 トータルで一斗といいますから十升、18リットルは 平気で飲み干してしまったそうです。
免許を受けた直後、芝・浜離宮で行われた天覧相撲では、 後に大関となった名力士、大達(おおだて)と対戦。 はっけよい、のこった! 左四つでがっぷり組んだ両者は譲らず、水入り。 二回の水入りを経て取り組みは続きましたが、両者譲らず。 当時は、こうなると引き分けが普通だったのですが、 陛下は「やんや、やんや」と大喜びでいらっしゃいますから、 なかなか終わらせるわけにも参りません。 結局、お許しを得て引き分けとなりましたが、 あまりにも力が入りすぎ、大達の指は梅ヶ谷のまわしに食い込んでしまい、行司が一本、一本、離していったそうです。梅ヶ谷ってのは、凄いらしいね…と噂になり、両国回向院の本場所には続々と客が詰め掛けていきました。こうなると、天候に左右される小屋がけ興行ではもったいない。なんとか、相撲専用の施設を作ろう…という機運が高まってくる…というところで、続きはまた、明日。

1月21日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「国技館の誕生」です。
明治の初め、文明開化の波に押され、衰えかけた相撲人気も、怪力・梅ヶ谷の出現で客足が戻って参ります。
また、日清、日露と戦争が続き、「兵士を鍛えるのに相撲は役立つ」ということで、その存在価値が認められたことも大きかった。せっかくお客さんも安定してきたことだし、そろそろ専用の施設を作ろうじゃないか、という話が盛り上がります。これが明治三十年代の末。当時も相撲の興行は、相変わらず両国・回向院の境内で行われていましたから、雨が降れば日程は伸び伸びになります。明治三十八年(1905年)の五月場所、…ちょうど日露戦争の「日本海海戦」が行われたころですが、この場所は晴天十日間の興行が天候に恵まれず、二十四日間もかかってしまったんですね。戦争も勝ったし、景気もいい、やるなら今だ!翌年、明治三十九年の一月場所のあと、建設の話が具体化し、この年、五月から国技館の建設がいよいよ始まります。
相撲常設館の建設地に選ばれたのは、同じ回向院の境内、 日本橋側から隅田川を渡ってすぐ右側、現在は「両国シティコア」が建っている場所です。建設委員長となったのが、引退して「雷(いかづち)」親方となっていた、人気力士・梅ヶ谷。建設委員長…といえば聞こえはいいですが、要するに資金調達の責任者というわけですね。梅ヶ谷の雷親方は、自らのタニマチ、後援者に借金のお願いに出かけていくことになります。そして、もとの本所区長で、当時、安田銀行…現在のみずほ銀行の本所支店長だった、飯島保篤(いいじま・やすあつ)という方から、四十万円という大金を無担保で融資してもらうことに成功。これ、現在のお金にすれば、だいたい百億円に当たるそうで、いやはや、太っ腹な方もいらっしゃったものです。お金の算段が出来たとなると、次は設計です。設計を担当することになったのは、東京駅や日本銀行本店を手がけた辰野金吾と、その弟子、葛西万司(まんじ)。柱を使わず、三十二個の弓状の鉄骨が中央に集まる、ドーム型の建物は、直径およそ60m、高さ24m。客席は四階まで、収容人員1万3千という立派なものでした。
オープンは、今から百年前、明治四十二年(1909年)5月。建物の名前は「相撲館」「尚武(しょうぶ)館」などが
有力候補に挙げられていました。ところが、作家・江見水蔭(すいいん)が依頼されて書いた、開館挨拶文の中に「相撲は日本の国技なり」という一文があったんですね。これに目をつけた当時の尾車親方が、「そうだ、国技館がいい!」と思いついて提案したところ、「いいんじゃないの〜」と親方連中も賛同。今日まで続く「国技館」の名前が定められたのです。

1月22日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「流転の国技館」です。
明治四十二年(1909年)にオープンした初代・国技館。 古代ローマのアンフィシアターを思わせるといわれた、 美しい円形の建物は、下町のランドマークとなったのです。 この国技館完成と同時に、それまでなかった「優勝制度」が 設けられ、土俵はより一層の盛り上がりを見せました。 相撲が、単なる興行から、スポーツとしての要素を 強めていくようになったのです。 さて、この初代・国技館は、しばしば災難に見舞われました。 オープンからわずか八年後の大正六年(1917年)、 火災に遭って全焼。相撲協会は早速再建に取り掛かりますが、 工事中、強風で鉄骨が倒れ、十数名の死傷者が出る 悲惨な事故に見舞われます。それでも、およそ二年後には、リニューアル・オープンを果たしました。
ところが! それから三年後には、関東大震災で、またまた焼失。 まったく、ツキがないとしか、言いようのない建物です。 しかし、不屈の相撲協会は、すぐに修繕に取り掛かり、 次の年の夏場所は、再び国技館で開催されています。昭和に入り、戦争が激しくなってくると、 国技館もまた、その影響を受けずにはいられません。 太平洋戦争の末期、昭和十九年の一月場所を最後に、 建物は軍部に接収されてしまいます。 日劇、帝劇などと同じく、「風船爆弾」の工場として、 使われることになったのです。 これは、冬の偏西風を利用して、爆弾つきの気球を、 アメリカ本土まで飛ばそうとしたプロジェクト。 東京の主な劇場や国技館を使い、巨費を投じて、 敵に一矢を報いようとしたこの計画。 およそ9千個の気球が飛ばされたうち、 アメリカに到達が確認されたのは285個で、死者6人、小さな山火事2件、停電1件という結果でした。
昭和二十年、三月十日の東京大空襲で、国技館は三たび焼失。 戦後、なんとか修復されましたが、今度は進駐軍に接収され、名前も「メモリアル・ホール」と変えられてしまったのです。当初、本場所だけは使わせてもらえる約束になっていましたが、途中から方針が変わり、相撲は締め出されてしまいます。両国を追われた大相撲の落ち着き先は、明治神宮外苑。現在の第二球場のあたりにあった相撲場で、興行が行われましたが、やはり露天は辛い。観客動員もままならない…というわけで、新たな国技館の建設が迫られることになったのです。

1月23日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「蔵前から両国へ」です。
戦後、両国国技館を進駐軍に取られてしまった大相撲は、 明治神宮外苑で露天興行を行います。 そして、昭和二十四年(1949年)には、 浜町公園に仮設の国技館を建てますが、 公有地であったために常設とすることができず、 たった二場所使っただけで取り壊しの憂き目に。 次に国技館が移転することになったのが、蔵前でした。 もともと、接収中の旧国技館の土地が手狭だったことから、 将来、移転することを考えて協会が持っていた土地に、 海軍の工場で使われていた鉄骨の払い下げを受けて建物を建て、 昭和二十五年一月、仮設のままオープンしています。それまで土俵の四隅に立てられていて、「見にくい」と評判の悪かった四本柱が取り除かれたのは、仮設時代、昭和二十七年九月のこと。これ以降、観客席のどこからも土俵が見やすくなり、相撲人気が盛り上がる一因となりました。柱が支えていた屋根は、天井から吊り下げられることに。テレビの相撲中継のタイトルバックなどで、皆様よくご存知の、あの吊り屋根です。
さまざまな工事が終わり、蔵前国技館の正式な開館式が 行われたのは、昭和二十九年九月のことでした。昭和二十九年(1954年)といえば、菊池章子さんの「岸壁の母」が発売され、大ヒットした年。寒々とした戦後の風景が、まだまだ残っていた時代です。しかし、大相撲の黄金時代は、この蔵前で築かれました。栃錦と若乃花の「栃若時代」。大鵬と柏戸の「柏鵬時代」、そして北の湖と輪島の「輪湖時代」。亡くなった初代・貴の花が大活躍したのも、蔵前国技館でした。私と同年輩の相撲ファンの皆さんは、国技館といえば蔵前…という方が多いのではないでしょうか。(邦丸さんの蔵前時代の思い出は?)数々の名勝負を生んだ蔵前国技館でしたが、もともと、海軍の古い鉄骨を使って作られていたため、老朽化が激しく、昭和五十九年(1984年)九月場所を最後に、その歴史を閉じることになりました。現在、跡地には、東京都の下水処理場が作られています。
一方、旧両国国技館は、進駐軍の接収が解除された後、日本大学に譲渡され、日大講堂となりました。ボクシングやプロレスなどの興行にもよく使われましたが、こちらも老朽化のため、昭和五十八年に解体され、跡地は複合施設「両国シティコア」として利用されています。そしてこのキョンキョン「スターダストメモリー」が ヒットチャートの1位に輝いていた昭和六十年一月、懐かしい両国の地に、新国技館が完成、現在に至ります。移転から数えて二十五回目の初場所も、今日を入れてあと三日。賜杯は、誰の手に輝くのでしょう?

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