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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

1月26日(月)〜1月30日(金)
今週は、「雪の事件史」。 古(いにしえ)の江戸、東京、そして関東一円の
雪の日に起きた出来事を集めてお送りします。

1月26日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「鶴岡八幡宮の悲劇」です。
古今東西、雪の日に事件は起きやすい。 とりわけ、ふだんは、さほど雪の積もらない東京近辺に 雪が降ると、何かが起きそうな気がするものでございます。 史上、もっとも有名な雪の日の事件といえば、 あの「赤穂浪士討ち入り事件」でしょう。 こちらは、つい先日、特集してお送りしたばかりですので、 今週はそれ以外の「雪の日」の事件を取り上げます。
鎌倉幕府 三代将軍 源実朝。 建久三年 1192年、 初代将軍・源頼朝と北条政子の次男として生まれています。 父、頼朝が亡くなるのが、八歳のとき。 二代将軍となったのは、実朝の兄、頼家でしたが、 御家人たちの権力闘争に巻き込まれて将軍の座を追われ、 最後には殺されてしまいます。 そして、将軍の座は、弟、実(さね)朝(とも)のもとにやってきます。 時に、実(さね)朝(とも)、十二歳。 権力のためには、親戚であろうと、あるいは我が子であろうと、 情け容赦なく、殺す。そして一族を根絶やしにする。そんな血なまぐさい鎌倉の出来事には嫌気がさしていたのか、 実朝は、京の都に憧れ、歌の道に打ち込むようになります。 師匠は、百人一首の選者といわれる歌人、藤原定家 。もともと素質もあったのでしょう、実朝は数多くの優れた歌を詠み、その作品は「金槐(きんかい)和歌集」にまとめられています。小倉百人一首に採られた歌を、ご紹介しておきましょう。「世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも」
実朝は、短い人生の中で、たった一度だけ、夢を見ました。 物騒な鎌倉を離れて、中国、当時の宋(そう)に渡ろうとしたのです。 拝謁(はいえつ)を求めてきた中国人、陳和卿(ちんなけい)に、 「あなたは、中国の偉いお坊さんの生まれ変わりです」と言われ、海を渡るのもいいな、と、ふと思いつく。そして陳に、大きな船をこしらえるよう、命じたのです。 五ヶ月ほどの時間をかけて、船は完成します。 ところが、海水浴場でもおなじみの、あの鎌倉の海。 作ったはよいけれど、波打ち際に引いていくのが一苦労、 海が浅すぎて、どうやっても浮かべることができません。 結局、船は、このまま、海岸で朽ち果てていきました。
建保七年(1219年)、旧暦一月二十七日。鎌倉は、60センチほどの積雪、大雪でした。実朝は、この日、右大臣に任じられた祝賀行事のため、鶴岡八幡宮に出かけます。参拝を終えて、石段を降りてきたところを、大銀杏の陰に隠れていた、兄の息子 公暁に襲われました。「親のカタキ!」 背後にどんな陰謀が渦巻いていたのか、真相はわかりません。 公暁もこの後間もなく殺され、やがて、源氏の血を引く者は、 一人残らず、いなくなってしまったのです。

1月27日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「桜田門外の変」です。
雪の日の大事件、本日は幕末編です。 大老、井伊直弼が殺害された、桜田門外の変。 井伊直弼は、風雲急を告げる、内外の情勢を乗り切ろうと、 諸外国との通商条約に調印したり、 また反対派に激しい弾圧を加えるなど、 いささか強引とも思える手法で、政策を推し進めていきます。 こうしたやり方は、どうしても反発を買ってしまうもの。 とりわけ、激しく弾圧された、水戸藩の急進派の藩士たちは、 「井伊を討とう」と、テロを企てることになったのです。
NHK大河ドラマ第一作「花の生涯」。 昭和三十八年、(1963年)、井伊直弼の生涯を描いた作品でした。 直(なお)弼(すけ)を演じたのは、二代目・尾上松緑。 当然のことながら、クライマックスは、桜田門外の場面です。安政七年3月3日。 この日は、大名の登城日に当たっていましたから、 彦根藩主である井伊直弼も、確実に江戸の市中を通ります。 とはいうものの、井伊家の屋敷は、桜田門からわずか500m。 このごく短い距離の間に、襲わなければなりません。早朝、愛宕山に集まった襲撃犯たちは、 降りしきる雪の中、桜田門の手前に陣取ります。 当時は、大名行列を見物するのは手軽なレジャーで、 さほど怪しまれることもなかったんだそうです。現在の時刻にして、朝の9時ごろ。 屋敷の扉が開き、槍を先頭に行列が出発します。駕籠を警護する人数は、六十名あまり。 一方、襲撃犯の総勢は、十八名。 うち十七名が水戸、残る一名が薩摩の浪士でした。 一人の浪士が、大老に直訴(じきそ)を装って駕籠に近づく。 「いかんいかん、離れろ」と制止する警護の武士に向かって、 いきなり刀を抜いて斬りつけた。
すると突然起きる一発の銃声。パーン! これを合図に浪士たちが一斉に刀を抜いて切りかかる。 通常であれば、人数に勝る井伊家のほうが有利でしょうが、 あいにくとこの日は、雪。刀を袋に納めていて、 取り出すのに時間がかかった上、合羽(かっぱ)を身に着けていたため、 身動きが自由になりません。激しい斬り合いとなりますが、 捨て身の浪士たちの攻撃に防御は破られます。 真っ白な雪の上に、飛び散る鮮血。 そして、ついに駕籠から引きずり出された井伊大老は、 首を打ち落とされてしまったのです。 襲撃した浪士たちは、現場で一人が死亡、 重傷を負った四名が自刃。 江戸幕府の終りを予感させる、むごたらしい事件でした。

1月28日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「昭和十一年の大雪」です。
昭和十一年(1936年)は、雪の多い年でした。 二月四日、東京で31・5センチの積雪。 そして二月二十三日、同じく35・5センチを記録。 四日の大雪では、交通は途絶え、帰宅できなかった人々が 劇場に仮の宿を求めるなど、市内は大混乱に陥りました。 二十三日の積雪量は、四日をさらに上回りましたが、 三週間前の教訓を生かして、比較的平穏だったようです。 ただし、気温が上がらなかったため雪は溶けず、 しばらくの間、そのまま残っていました。 そして三日後、二月二十六日。この日も、朝から、雪模様でした。
永井荷風は、日記「断腸亭日乗」に、 「灰の如きこまかき雪降り来り見る見るうちに積り行くなり。」と、記しています。 午前五時。ちらつく雪の中を、軍隊が動き始めました。 歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊らの兵、 1500名あまりを率いた青年将校たちが、クーデターを企てた。2・26事件の始まりです。ちなみに、歩兵第一連隊は、現在の東京ミッドタウン、 歩兵第三連隊は、国立新美術館、そして近衛歩兵第三連隊は、 TBSの場所にありました。 ターゲットとなったのは、首相官邸、警視庁、朝日新聞社、 そして閣僚たちの住まい。 六本木、赤坂あたりから出た軍隊が、 永田町、霞ヶ関あたりで大騒ぎを起こしたというわけです。 岡田(おかだ)啓(けい)介(すけ)首相は、いったん、死亡が伝えられましたが、 後に生存が確認されました。 しかし、高橋是清大蔵大臣、齋藤実内大臣、 渡辺錠太郎教育総監、そして、 警護に当たっていた警察官らが命を落としています。
クーデターの背景にあったのは、陸軍内部の派閥抗争でした。 行動を起こした青年将校らが要求したのも、 対立する派閥の将校を追放し、 自らの派閥を、軍隊の中で重要な位置に置くこと。 陸軍の内部にも、彼らの動きを容認する流れがあり、 いったんは成功するかに思われました。 しかし、昭和天皇が、テロに対し、深い怒りを覚えたことから、 3日後の2月29日、討伐命令が出されます。 反乱軍に駆り出された兵士たちに対しては、 「今からでも決して遲くはないから直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。そうしたら今迄の罪も許されるのである」と、 ラジオでメッセージが流され、飛行機でビラが撒かれます。 この工作が功を奏して、ほとんどの兵士は原隊に復帰。 首謀者の将校たちは全員逮捕され、事件は幕を閉じました。

1月29日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「なぜか雪の降る日」です。
東京オリンピックの開会式が行われた十月十日が 「晴れの特異日」であるように、雪にも特異日があります。 それは、現在のセンター試験、 かつての、共通一次試験が行われる日です。第一回目の、共通一次試験が行われたのは、 ちょうど三十年前の昭和五十四年、1979年。 アリスの「チャンピオン」が、 大ヒットしている真っ最中の出来事でした。 もともと、日本の「受験」は、真冬に行われるもので、 それ以前から雪によるトラブルは付き物。 しかし、共通一次試験は、全国120の国公立大学が参加し、 34万人もが一斉に受験するという、かつてない規模の試験だっただけに、 雪による影響も、かなり大きいものがあったのです。
試験の初日、1月13日。 この日、八丈島付近にあった低気圧が、 時速55キロのスピードで東へと進み、この影響で、 関東・甲信地方の幅広い地域で雪となりました。 午前九時現在で横浜、千葉で2センチの積雪。 東京でも、正午には、同じく2センチの積雪を記録しました。 実施する側も、受ける側も、まったく初めてという共通一次試験でしたから、あちこちでトラブルが発生しました。中でも、試験開始時間が遅れて問題となったのが、 東大・本郷キャンパスの受験場です。 この日の試験開始は、十二時。 開門は十時四十分と、充分な余裕があったはずですが、 あまりにも構内が広いため、迷ってしまう受験生が続出します。 また、折からの雪で、傘を差しているため行列が長くなり、 受験票のチェックに思ったより時間がかかったこともあって、 結局、この会場だけ、試験開始が二十分遅れたのです。
東京大学の、井出広報委員長のコメントです。 「開門を早めればよかったという見方もあるが、 教室に試験問題を運ぶ都合などもあり、できなかった。 来年からは、再検討が必要だと思う」共通一次試験は、平成元年(1989年)まで十一回続き、次の年から「センター試験」へと衣替え、現在に至っています。国公立大学に加え、多くの私立大学も参加し、また実施される科目数も増えるなど、試験の内容はこの三十年で大きく変わりました。変わらないのは、当日、相変わらず雪が降りやすいことです。

1月30日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「昭和五十九年・雪の年」です。
この三十年で、東京にもっとも雪が降ったのは、 昭和五十九年、1984年のこと。 この年、1月・2月だけで18日間雪が降り、 4月まで合わせると合計29日。 わらべ「もしも明日が」が、 チャートの1位に輝いていた、1月19日。 早朝から降り始めた雪は、夜まで続き、 22センチもの積雪を記録しました。 高速道路は全面閉鎖、 列車のダイヤも大きく混乱したことが伝えられています。 スリップなどによる交通事故が、452件で、 これは通常の四倍以上の数字でした。 また、雪道に慣れない都民だけに、転倒事故も続出。 翌日の読売新聞によれば、ケガ人が237名、 うち113名が骨折などのため入院しています。 当日、蔵前国技館では初場所の真っ最中。 千代の富士、隆の里、北の湖の三横綱と、 朝青龍の師匠、現在の高砂親方の朝潮が、 優勝争いを繰り広げていました。
一方、公共交通のマヒで、三人の力士が取り組みに遅刻、 不戦敗となりました。 深刻なのは野菜の値上がりで、大根が2倍、 白菜、サトイモなども軒並み高値を記録しています。 開港以来始めての大雪に見舞われた成田空港は大パニック。 出発便、到着便、合わせて99便の乗客、 4700人あまりがロビーや機内で一夜を過ごすことを 余儀なくされました。 空の便よりひどかったのは、道路事情です。 日本自動車連盟、JAFにはひっきりなしに出動要請が届き、 てんやわんやの大騒ぎ。 「坂を上れず、ズルズル下がって後ろの車に当たった」 「スリップして電柱で横腹を打った」など、 雪道に慣れないドライバーの悲鳴が殺到しました。

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