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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

2月2日(月)〜2月6日(金)
今週は、「落語の舞台を訪ねる パート2」。
お話の中に「実際に存在する場所」が登場する、 古典落語を紹介して参ります。

2月2日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「夢金」です。
季節は、真冬、しんしんと雪の降る夜でございます。 浅草、山谷堀… 現在の桜橋のあたりで、隅田川に注ぎ込んでいた掘割です。 落語ではおなじみの地名でございまして、 主に、吉原に通うための水路として利用されておりました。 一軒の船宿に、なんとなく訳アリ風な若い武家と、 その妹だという、妙齢の美女が訊ねてまいります。 深川まで、屋根つきの船を一艘頼みたい、という武家。 もちろん、そんな天気ですから、船頭は出払っておりまして、 残っているのは、欲張りでどうしようもない熊蔵、ただ一人。 主人は何とか断ろうとしますが、酒手ははずむ、 ぜひに…という言葉に、船を出すことになります。
当時の隅田川は、それこそ歌の文句ではありませんが、 上り下りの船人が行きかう、江戸の水運の大動脈。 船の上での描写など、リアルタイムで聞いていた人々には、 とても身近に感じられたことでしょう。 さて、話をしんしんと凍える雪の夜に戻しましょう。 船の中、武家は船頭の熊蔵にとんでもない話を打ち明けます。 実は、この娘は妹ではない。男を追って家出してきたのを、「居所を知ってるから」と騙して、ここまで連れてきたのだ。大きな店屋の一人娘だから、金はたんまり持っている。殺して、山分けしようじゃないか…と、言うのです。この船の中で、グサリと…という武家に、冗談じゃない、血がついたら困る。この先に中洲があるから、そこでやりましょう、と、熊蔵。武家が泳げないことを聞いた熊蔵が、とっさに頭を働かせ、 置き去りにして、娘を助けるという話。
江戸時代の隅田川付近の地図を見てみますと、 けっこう沢山の中洲があったことに驚かされます。 中でも大きなものが、現在の地名でいう「日本橋中洲」。 隅田川沿いに上流から走ってきた高速道路が、ここで陸地の上にコースを変える、現在の浜町ランプの手前あたり。 実は、隅田川からそれた高速道路は、そこから昔の、 埋め立てられた「箱崎川」の上を通っています。 いまマンションが立ち並ぶ、「日本橋中洲」は、その昔は、隅田川と、分流の箱崎川に挟まれた、文字通りの「中洲」。ヨシの生い茂る、寂しい陸地だったんですね。

2月3日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「鰍沢」です。
お話の舞台は、東京から中央高速経由でおよそ2時間半の、 現在の行政区分で申し上げれば、山梨県南巨摩郡鰍沢町。 その昔は、険しい山と、富士川の急流に囲まれた、 とても交通が不便な土地だったそうです。 ところが、今から四百年ほど前。 徳川家康の命を受けた京都の商人、角倉了以(すみのくらりょうい)という方が現れます。太平洋側の駿河の国と、この甲斐の国を結ぶ、物流ルートを確保するため、富士川の流れを変える工事に取り掛かったのです。船の行く手をジャマする大きな岩を熱して砕いたり、また、急な流れを緩やかなものに変えるため障害物を置く。二度にわたる開削工事の結果、それまで馬で三日かかった鰍沢と、太平洋岸の岩淵との間が、僅か半日で結ばれるようになったのです。以後およそ三百年の間、富士川の水運は、沿岸部と内陸部を結ぶ大動脈として栄えることになりました。そして鰍沢は、日蓮上人の聖地である身延山参拝の拠点としても、知られるようになったのです。さて、そんな「鰍沢」を舞台にした落語は…
冬の夜。身延山にお参りした旅人が帰り道で道に迷い、 もうこれまでか…とあきらめかけたところ、人家の灯が見える。 一夜の宿を願うと、出てきたのは、年ごろ二十八、九、 旅人は、はて、どこかで見たことがあるような…と思いつつ 中に通されます。囲炉裏にあたって、四方山話をしているうち、相手が昔、吉原で出会った花魁だということに気づく。驚いて訳を聴くと、好いた男と江戸を逃げ出し、この山奥で細々と暮らしている…と答える女。体が温まるから…と勧められた玉子酒を飲むと、気持ちよくなって、眠くなってくる…。
ところが、その酒は、毒入りでした。暮らし向きに同情した旅人が、お金を恵んだところ、その胴巻きがずっしりと分厚いことを見た女が、殺して金を取ってやろう…と、企んだのです。気づいた男は、命からがら逃げ出そうとします…。冬の山奥の、しんしんと冷える様子が、 リアルに伝わってくる、名作でございます。

2月4日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「鼠穴」です。
昭和の名人、三遊亭圓生師匠が昭和二十九年に埋もれていた噺を発掘。それ以来、幅広く演じられるように
なったのが、この「鼠穴」でございます。 江戸に出て、商売で成功し、大店(おおだな)を構える 兄のもとへ、田舎から弟が訪ねてまいります。 …遊びで身を持ち崩し、田畑も人手に渡ってしまった。 兄さんの店で、働かせてもらえないだろうか? おずおずと、そう切り出す弟に、兄は、 それより商売でもしたらどうだ、元手を貸してやる…と、 お金の入った財布を渡します。 いったい、どれくらい入っているだろう、五両か十両か、 とりあえず今夜は酒でも飲もう…と、 帰り道、中身を探ってみると、出てきたのはたった三文。 なんだこれは、イヤがらせか? と頭に来た弟。 よーし、こうなったらこれを元手に商売をして、 立派に稼いで兄を見返してやろうじゃないか。 一念発起して寝る間も惜しんで働き始めます。
弟が、店を構えることになった、「深川蛤町」。 山本一力さんの直木賞受賞作「あかね雲」の 舞台にもなった所ですが、これは、現在の、門前仲町のあたり。 当時から深川不動、そして富岡八幡の門前町として栄えておりました。江戸でも有数の商業地だったわけで、 ここに店があるということは、一つのステイタスなんですね。さて、とある、冬の夜。財産を築いた弟は、十年ぶりに兄を訪ねます。喜んで出迎えた兄は、こう話します。「さぞや恨みに思ったことだろう。 だが、あの時のお前に五両、十両貸したところで、 半分は酒に化けてしまったに違いない。 そんなことでは、商売など、とてもおぼつかない。 それで三文しか渡さなかったのだ。許してくれ」 「いえ、謝らなくちゃいけないのは、私のほうです…」と、弟。 二人は酒を酌み交わします。
江戸時代末期の深川蛤町あたりの地図を見てみますと、 複雑に水路が入り組んでいて、 現在の門前仲町の整備された町並みからは想像もつきません。 もともとは、このあたり、隅田川河口のデルタ地帯で、 埋め立てを行ったのが深川八郎右衛門という方。 江戸にやってきた徳川家康が、八郎右衛門をお召しになって、 「このあたりの地名は、何というか」と尋ねたところ、 「埋立地なので、まだ名前がございません」との答え。 「ならば、その方の名をとって深川とせよ」 と、そこから深川の地名が名づけられたんだそうです。

2月5日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「阿武松(おうのまつ)」です。
能登の国と申しますから、現在の石川県。能登半島の中ほどに、 鳳至郡(ふげしごおり)七海村(ひつみむら)という、 小さな村がありました。 この村に、それは体格のいい、長吉という少年がおりました。 江戸に出て、相撲取りにさせよう、という話になり、 名主が紹介状を書いて、武隈という関取に入門いたします。 ところがこの長吉少年、とにかくご飯を食べる食べる。 こんなにおまんまを食べられたんじゃたまらない、 ヒマをやるから国へ帰れ、と、破門されてしまうんですね。 で、トボトボと、中仙道を北へ向かいます。 板橋宿を越えて、荒川、戸田の渡しまでやってくると、 あいにく、船は向こう岸へ向けて出発したばかり。 来し方行く末を思い、ああ、いっそのこと、 ここで身投げしてしまおうか、と長吉は悩みます。
戸田の渡しは、江戸を守る最後の関門の一つ。 橋が架かったのは、明治になってからです。 川が荒れると、普段は1・2mほどの水深が、 5・5mにまで達したということで、こうなると川留め。 旅人たちは、天候が回復するのを待つしかありませんでした。 渡しがあったのは、現在の戸田橋の下流、 およそ百mほど行ったところ。あの皇女・和宮も、この渡しを使って、将軍の待つ江戸へと向かっていったのです。 さて、大飯ぐらいの長吉は、その後どうなったでしょう? いよいよ身投げしようか…と胸の前に手を合わせると、 フトコロに入った一分というお金に気づきます。 これ、親方が餞別にと持たせてくれたもので、 そうだ、死ぬ前にこの一分で食べられるだけおまんまを食べ、 それから死ねばいい…と、板橋宿へと引き返します。 当時の板橋は、現在のJR板橋駅あたりから、環七にかけて、1・7キロも続いていたそうで、それは大きな宿場町でした。
旅籠に入って、ご飯を頼む、その余りの食いっぷりのよさに、驚いた主人が話を聞きます。実はこのご主人、大変な相撲ファンだったんですね。身投げするなんて、とんでもない。私が食い扶持を保証するから、別の親方に入門しなさい…と、再び角界に身を投じることになった長吉少年が、後の大力士、六代横綱 阿武松へと出世するお話でございます。

2月6日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「首提灯(くびぢょうちん)」です。
今週の歴史探訪は、落語の舞台を訪ねて、 浅草山谷堀から日本橋中洲、甲州の鰍沢、深川蛤町、 そして板橋宿と戸田の渡しをご紹介して参りましたが、 最後は、やはり文化放送の地元、芝、増上寺の登場する 落語「首提灯」で締めたいと思います。 寒い寒い、冬の夜。酔っ払った江戸っ子が、 増上寺の境内、現在の芝公園の中を歩いている。 そのころ、芝山内(さんない)と呼ばれていたこのあたり。 現在でも、夜、お酒を飲んだ後に歩いていると、何となく物寂しく、ゾクゾクっとするような感じがありますが、 幕末のころは、追いはぎや辻斬りが出没して、 それは物騒な場所として有名だったんだそうです。
麻布への道を教えてくれと言う田舎侍に、 江戸っ子が「なんだこの野郎」と毒づいていると、 最初は丁寧だった侍も、堪忍袋の緒が切れて、 シュパッ! と刀を抜き、江戸っ子の首を切る。 これが非常に切れ味のよい刀だったので、 江戸っ子は、しばらく切られたことに気づかない。 首が微妙にズレる様子を、噺家の皆さんが、 仕草で上手に表現するのが、見どころでございます。 で、この後、近所で火事が起きて、ドヤドヤと人が出る。 ぶつかって落ちてはいけない、と、 ひょいと自分の首を持って「ごめんよ。ごめんよ…」と、 人ごみを抜けていく…という、シュールなSF調のお話です。 現在、増上寺の近くに、 この落語を紹介した説明の看板が立っておりまして、 文句が面白いので、ちょっとご紹介しましょう。
「江戸時代、芝山内(さんない)と呼ばれた増上寺境内は、 暗がりで、落語『首提灯』の舞台となりました。 侍と喧嘩した職人が、首を切られても、 あまりの切れ味のよさに気がつかず、 そのまま首を提灯がわりにして、火事見物に行く… というお話は架空のことですが、 当時のありさまをよく示しています」 …これ、架空のことじゃなかったら、 相当、怖いと思うのですが、皆様、いかがでしょうか?



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