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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

4月6日(月)〜4月10日(金)
今週は、「祝! ご成婚五十周年」。
四月十日、日本中を喜びの渦に巻き込んだご結婚から、ちょうど五十周年を迎えられる天皇、皇后、両陛下。 お二人のご結婚までの歩みや、当時のフィーバーぶりをご紹介して参ります。

4月6日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「テニスコートの出会い」です。
日本を代表する避暑地といえば、軽井沢。 明治十九年(1886年)、イギリス人宣教師、 アレクサンダー・クロフト・ショウにより開かれました。軽井沢は、欧米の避暑地に気候や景色が似ており、水や空気にも恵まれているため、主に外国人たちに愛され、別荘地として発展していきました。この別荘地の自治組織として、大正五年(1916年)に生まれたのが、「財団法人 軽井沢避暑団」です。当時から徹底していたのが「飲む、打つ、買う」、ギャンブルや風俗営業の類を一切認めないということ。戦前の上流階級の皆さんが、健全な避暑地として、軽井沢を育てていこうと、力を合わせていたんですね。
そして、昭和十七年(1942年)に「軽井沢避暑団」は、「軽井沢会」へと、名前を改めました。軽井沢会には専用のテニス・コートが設けられており、 毎年夏には、親睦のためのトーナメントが開かれます。 昭和三十二年(1957年)、八月。 当時の皇太子さま、現在の天皇陛下は、 このトーナメントに出場することになりました。 ご学友の著書によれば、これは、妹にあたる、当時の内親王、 「おスタちゃん」こと清宮貴子(すがのみや・たかこ)さま、 現在の島津貴子(しまづ・たかこ)さんの薦めに従ったもの。 皇太子さまは、早稲田大学の石塚選手とペアを組みます。対戦相手は、十三歳のアメリカ人少年と、 聖心女子大を卒業したばかりのうら若き女性に決まりました。 これはどう見ても、皇太子ペアが有利だろう…と、 観客は誰もが思いました。
しかし、事態は思わぬ方向へと流れて行きます。 その女性は、皇太子ペアがどんなボールを入れても、 巧みに打ち返してくる。 結局、第一セットこそ、皇太子ペアが取ったものの、 第二セット、そして第三セットを女性と少年のペアが連取。 皇太子ペアは、試合を落としてしまったのです。 爽やかな笑顔が魅力的なあの女性は、いったい何者? 皇太子さまが、パートナーの石塚選手に尋ねたところ、 「日清製粉社長、正田英三郎(ひでさぶろう)さんの ご長女、美智子さんです」との答え。 聖心女子大を主席でご卒業され、英語も堪能、 そしてテニスは関東の大学対抗新人戦で優勝経験をもつ、文武両道の健康美人、美智子さま。 この日が、お二人の、運命の出会いだったのです。

4月7日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「昭和三十三年十一月二十七日」です。
皇太子さまとのご結婚が正式に決まった直後の、 正田美智子さん、現在の皇后陛下の記者会見の模様です。 「とてもご誠実で、ご立派で、」というお言葉は、 当時の流行語にもなりました。 このときのファッションは、アイボリーのドレスに ミンクのストール、白いハイヒールにハンドバッグ。 シックないでたちは、「プリンセス・ルック」、 あるいは「ミッチー・スタイル」などと呼ばれ、 若い女性たちの間で大流行することになります。
この日、午前十時、宮内庁三階の皇居仮宮殿で、皇太子妃を決めるための「皇室会議」が開催されました。第二次世界大戦中に空襲を受け、宮殿が焼け落ちてしまったため、昭和二十七年から十七年間、この場所が「仮宮殿」として使われていたのです。さて、会議では宇佐美宮内庁長官が、 「民間から皇太子妃が選ばれたことは歴史上から見て前例があり、必ずしも異例ではない」と説明しました。 皇太子のお妃さまは、それまで、宮家、あるいは、 「五摂家(ごせっけ)」と呼ばれる藤原氏の子孫に ほぼ限られており、これ以外の家柄から迎えられることは、 考えられない時代が長く続いていたのです。 敗戦を経て、日本は民主化され、この慣習が消えたとはいえ、 まだまだ民間からお妃さまを選ぶことに、 違和感を持つ皇室会議のメンバーもいたのです。
宇佐見長官の説明は続きます。 「正田嬢とはテニスコートで数回、 皇太子がお会いになったことはあります。 しかし一部に噂されたような恋愛関係はない」 この言葉に、出席者たちは大きくうなずいたとか。 戦前からのしきたりが、まだ色濃く残っていた時代ですから、 結婚は「見合い結婚」が当たり前、 「恋愛結婚」などもってのほか、というオトナも多かった。 それが、皇太子さまが「恋愛」の末に結婚、となると、 社会の秩序が崩れてしまう。 五十年前は、そんな考え方が、まだ一般的だったのです。榎本健一さん、エノケンさんのCMソングで有名な、 「渡辺のジュースのもと」。 この商品が売り出された、昭和三十三年の早春、 皇太子妃の候補は極秘のうちに一本化され、 正田家との交渉が進められていきました。 マスコミの取材合戦も過熱して大変だったのですが、 そのあたりのお話は、また、明日。

4月8日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「その日まで」です。
お聞きいただいておりますのは、正に五十年前の今日、 宮中で行われていた儀式の実況です。さて、皇太子妃の候補が、一本化されつつあった昭和三十三年。 それまでおよそ五年、お妃選びを取材してきたマスコミ各社は、 いよいよ決定は近いと嗅ぎつけ、それまで以上の、 激しい取材合戦を繰り広げるようになりました。 候補と目された女性や、その家族のもとに記者たちが殺到、 正常な市民生活が脅かされ始めていたのです。これでは、まとまる話もまとまらなくなってしまう。 そう考えた「お妃選びチーム」は、各新聞社に、 「決定まで報道は差し控えてくれないか」と要請し、 報道協定が敷かれることになりました。
各社とも、夏ごろまでには「正田美智子さん」という名前を つかんではいましたが、この協定のため、 名前が表に出ることはありませんでした。 しかし、最終的に、十一月の初めにこの縁談がまとまると、 美智子さん、そして正田家に対して、 凄まじいまでの取材合戦がスタートすることになりました。五反田駅の北側、NTT東日本関東病院の裏手にあった 正田邸の周りは、報道各社の車で埋め尽くされ、 四六時中の張り込みが続けられました。そして十一月十八日。 聖路加病院で健康診断を受けるため、美智子さんとお母様が 外へ出て、自動車へ乗り込んだところ、 四方八方からカメラマンが駆け寄ってきます。 勝手にドアを開けて、バチバチとフラッシュをたく。 なんとか走り出しても、赤信号で止まると、また周囲からカメラマンが飛び出して、 身動きが取れなくなってしまう。 こんな有様では、築地までたどり着くのは不可能です。
「もう帰りましょう」とお母様。「あんな怖いところへは帰れません」と美智子さん。そうだ、目と鼻の先の広尾にある、母校、聖心女子大に 逃げ込めばよい…と車を走らせました。 立ち入り禁止の女の園に逃げ込めば一安心…と思いきや、 いきり立った記者たちはどこまでも追いかけてくる。 「逃げるのか」「待て」と怒号が飛び交う中、 学内のシスターが「何ですか、あなたたち!」と記者を一括。 ようやく騒ぎは収まりました。 しかし、晴れて婚約発表を迎えるまでには、 まだ九日もの時間が残っていたのです。

4月9日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「ミッチー・ブーム到来」です。
島倉千代子さんの「からたち日記」、 ちょうどこの歌が大ヒットしていた昭和三十三年の晩秋。 皇太子さまのご婚約が発表されると、 世間の目は、一気に「新たなプリンセス」、 正田美智子さんへと注がれることになりました。 当時の朝日新聞に掲載されたプロフィールをご紹介しましょう。 「昭和九年十月二十日、東京本郷の東大病院で生まれた。 東京渋谷の聖心女子大学英文科を卒業。 高等科から優等生で通し、卒業式では答辞を読んだ。 試験になると目のふちが黒ずむほどがんばる努力型だが、 ふだんはなかなかのいたずらっこ。 小学校から高校までリレーの選手、「カモシカ少女」と、 あだ名がついたこともある。1m61センチ(五尺三寸)、 五十キロ強の中肉中背、色白な顔にお化粧はクリームと 口紅だけ。お白粉はほとんどつけたことがない、という。 愛称は『ミッチ』」。
戦後十三年を経て、日本もようやく立ち直り、 高度成長を目前に控えた明るい時代。 テニスコートで出会い、愛を育んだ若い二人が、 幾多の困難を乗り越え、めでたくゴールイン…という物語は、 とりわけ若い女性たちを引き付けたのです。 女性雑誌、女性週刊誌は競って美智子さんを取り上げ、 彼女のニックネームにちなんだ「ミッチー・ブーム」が 巻き起こされることになりました。ご婚約発表の年、ヒットしていたドメニコ・モドゥーニョ「ヴォラーレ」です。この歌が巷に流れていた頃、 昭和三十三年、秋の流行色は「赤」。 どこを見回しても、赤い服を身に着けた女性ばかりが 目に付いたものでした。
ところが、ご婚約が発表されるや否や、一転して白、ベージュ、紺など、 シックな色合いが流行色になってしまったのです。美智子さんが身に着けていた白いVネックのセーターやヘアバンド、ストール、 テニスシューズなどは瞬く間に人気アイテムとなり、 店頭から飛ぶように姿を消していきました。 またロイヤル・カップルにあやかろうと、 結婚に踏み切るカップルも続出。中には衣装まで真似て、 十二単で式を挙げた花嫁さんもいたそうです。

4月10日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「昭和三十四年四月十日」です。
昭和三十四年(1959年)、四月十日。 当時の皇太子さまと美智子さまの結婚から、 早いもので今日でちょうど半世紀を迎えることになります。 この一大イベントと切っても切れない関係にあるのが、テレビ。 二人の晴れ姿、そしてパレードを一目見ようと、 五ヶ月の間に百万台ものテレビが売れました。パレードには、五十万人もの人が繰り出しましたが、 面白いのは、沿道近くに住んでいる人でも、 実際に足を運ばず、テレビを見ていた人が多かったこと。 「パレードは一瞬だが、テレビなら一部始終を見られる」 「解説がついているのでわかりやすい」といった理由で、 ブラウン管をじっと見つめていたのです。
さて、TVに加え、もう一つ元気だったメディアが「週刊誌」。 当時は史上空前の週刊誌ブームでしたが、「週刊文春」のように、皇太子ご成婚に合わせて創刊される雑誌もありました。なにしろ、当時のキャッチコピーが、「あさっては皇太子さまのご結婚・きょうは週刊文春の発売日」 というものだったそうですから、これは凄い。 表紙は、着物姿の美智子さんの写真でした。 ミッチーを追いかける、といえば、女性週刊誌も負けてはいません。 中でも熱心だったのが「女性自身」。 取材班は正田家の庭に面した民家の二階に陣取り、 結婚式の五日前、庭でお父さんとキャッチボールを楽しむ、 美智子さんの姿を撮影することに成功しています。 いま、ここに、グローブを手にした、 現在の皇后陛下の写真がありますが…
当日、パレードの沿道では、大学写真部員を大量動員し、 重要なスポットに配置。 撮影済みのフィルムを一本千円で買い入れたと言いますから、 いかに力を入れていたかがよくわかります。 ちなみに当時の国鉄初乗り運賃は、十円でした。日本全国が幸福な気分に包まれたあの日から、 今日でちょうど五十年の節目を迎えました。 当日、あさ6時半、皇后陛下が出発されたご実家、 旧・正田邸は、六年前、惜しまれつつ解体されました。 現在、跡地は品川区によって整備され、 「ねむの木の庭」という名前の小さな公園になっています。

 

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