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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

4月20日(月)〜4月24日(金)
今週は、「ミナト横浜文明開化」。 今年、開港から百五十周年を迎え、盛り上がる横浜。 幕末から明治維新にかけて、様々な西洋文化が流れ込んできた 当時のエピソードをご紹介します。

4月20日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「洋楽がやってきた!」です。
アメリカから黒船に乗って、ペリー提督が来日、 日本に開国を迫ったのが嘉永六年(1853年)。 そして五年後、安政五年(1858年)に、 「日米修好通商条約」が結ばれて、翌年、 長崎、函館と共に、横浜の港が開かれました。 というわけで、横浜開港百五十周年に当たる、今年。 4月28日に開幕予定の記念テーマイベント 「開国博 Y150」を始めとして、 いろいろな行事が予定されております。 さて、ペリーが最初にやってきたのは、横須賀でしたが、 その次の年、実際に条約締結交渉のため上陸したのは、 ここ、横浜です。 嘉永七年三月八日、午前十一時半。 艦隊の一行、四百名が二十七艘のボートに分かれ上陸。 綺麗に整列して並ぶと、その回りを日本の警護兵が取り囲み、最後にペリー提督がしずしずと日本の土を踏みました。 すると、その時。全部で十六名からなる軍楽隊の勇ましい演奏が始まりました。 トランペット、ホルン、トロンボーンなどの管楽器と、 大太鼓、小太鼓などの、いわゆる「ブラスバンド」。 関東の地に、初めて本格的な西洋音楽が鳴り響いたのです。
それでも、何が起きるか、わかったものではない異国での演奏。楽団員たちのポケットには短剣とピストルが忍ばせてあった。メンバーたちは、軍楽隊の演奏を聞いて、 奇妙な髪型のアジア人たちが怒り出しはしないかと、 内心ヒヤヒヤものだったわけです。 ところが、当の日本人たちは、ノリノリ。 交渉役の浦賀奉行伊沢美作守(みまさかのかみ)など、 リズムに合わせて思わず手足を動かしていました。 また、七百名ほどの野次馬も楽隊に興味津々で、だんだん演奏の輪に近づいてくるのです。 今も昔も、音楽は人の心を和ませるのですね。
交渉が始まってから十五日後の三月二十七日、 ペリー提督はポウハタン号に日本側の役人たちを招き、 盛大なパーティを開きました。普段は堅く見える 役人の皆さんも大喜びでハメを外し、悪酔いして、 アメリカ人たちを驚かせました。 その席上で演じられたのが、ミンストレル・ショウ。 当時のアメリカで大人気だった、わざと顔を黒く塗り、 歌とコントを演じるというものです。 おなじみの「おおスザンナ」も、もしかしたら、 この夜、演奏されていたかもしれません。

4月21日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「横浜写真物語」です。
幕末から明治維新にかけての横浜には、 次から次へと来日する外国人たちによって、 西洋文明の最先端が続々と持ち込まれました。 その一つに「写真」があります。 フランスのダゲールが、近代写真の元祖といわれる技術、 「ダゲレオタイプ」を発明したのが1839年のこと。 そして1840年代から50年代にかけて、 写真がヨーロッパに普及していきました。 横浜が開港したのが1859年ですから、 本当にできたてホヤホヤの最新技術だったんですね。 好奇心旺盛なヨーロッパの人々は、 この新しい魔法のような技術、「写真」を、 世界に向けデビューしたばかりの国「日本」に持ち込み、 自分の手で撮影したいという欲望にかられたのでしょう。 横浜、そして江戸では数多くの写真が撮影され、 今日まで伝えられています。
西洋人が操る不思議な術を、自分も身に着けたい… そう考えた日本人も、少なくありませんでした。 横浜や長崎で、1860年代の初めまでには、 何人かの日本人が写真の技術を習得し、 早くも明治維新の以前に、写真館を開くまでになりました。 その中の一人に下岡蓮杖(しもおか・れんじょう)がいます。 文政六年(1823年)、伊豆・下田の生まれ。 若い頃江戸に出て、狩野派の絵を学びますが、 ある日、オランダ渡来の「写真」を目にする機会を得ます。 「これからは、写真の時代だな…」 そう考えた若き日の蓮杖は、 故郷・下田に黒船がやってきたという話を耳にして帰郷。 写真術を学ぼうと、ロシア使節のプチャーチン、 次いでアメリカ公使のハリスとその通訳、ヒュースケンに接近。 ここでハリスに、 「身の回りを世話してくれる女を紹介してくれないか?」と 頼まれて、幼馴染だった、かの「唐人お吉」を紹介した。
そして、ヒュースケンから写真術の基礎を学んだ…と、 ご本人は語っておりますが、実は、これが、非常に怪しい。 この下岡蓮杖さん、大正三年(1914年)まで長生きして、 数多くの証言を残していますが、その多くが矛盾だらけ。 話は実に面白いのですが、歴史的には根拠が薄いものが多く、 先ほどの唐人お吉の話なども、どうやらフィクションらしい。 歴史学者の間では「ほらふき蓮杖」と呼ばれております。 もちろん、横浜にごく早い時期から写真館を開き、 数多くの写真を残した重要人物であることは確かなのですが、 新聞記者を楽しませようと言う、エンタテインメント精神に 溢れた人物だったのではないかと想像されます。 さて、この蓮杖さん、文明開化の横浜で、もう一つ、 大きな事業に手を出しておりますが、そのお話は、また、明日。

4月22日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「馬車道ストーリー」です。
昨日は、日本の商業写真の元祖といわれる下岡蓮杖、 別名「ほらふき蓮杖」をご紹介いたしました。 もちろん、カメラマンとしての腕は一級品で、 現在では立派な写真集も編まれておりますので、誤解なきよう。 蓮杖さん、慶応三年(1867年)には、 横浜市内の一等地に写真館を構えます。 この写真館が面していたのが「馬車道」。 伊勢佐木町から、関内を通って万国橋へと至るこの道は、 国の重要文化財である旧横浜正金(しょうきん)銀行、 現在の神奈川県立歴史博物館を始め、日本興亜馬車道ビル、 旧富士銀行横浜支店など歴史的建造物が集中しており、 横浜観光には欠かすことのできないスポットであります。
横浜が開港され、市内が外国人居留地となった当時、 メインストリートだったこの道は、日本では珍しかった 「馬車」がひっきりなしに往来していた、 それが「馬車道」の名前の由来であると言われております。 「馬車というものは、ヒジョーに便利なモノだなあ…」 店から外を眺めながら、蓮杖さん、そんなことを考えていたのかも知れません。 で、明治になって新規事業に手を出すことになります。 何を始めたのかといえば…東京と横浜を結ぶ「乗合馬車」。西部劇によく出てくるヤツですね。 着飾った紳士淑女が乗り込んで、西部の荒野を、 土ぼこりを立てながら走っていく。 もちろん、当時はアスファルト舗装などされておりませんから、 正に、あの西部劇のような光景が、東京・横浜間で 見られたものと思われます。
下岡蓮杖が、知人を誘い、共同経営で乗合馬車の会社、 「成駒屋」を始めたのは、明治二年(1869年)5月。 これに先立つこと、3月にはランガンとジョージという、 二人の外国人が同じルートの乗合馬車を始めていますし、 さらに複数の業者が参入したと言われておりますから、 なかなか儲かる事業だったんでしょうね。 馬車は二頭立て、定員は6人で、所要時間4時間。 ちょっと乗ってみたかった様な気もいたします。 しかし、隆盛を極めた「乗合馬車」も、 明治五年(1872年)、新橋・横浜間に鉄道が通ると、 ほどなく廃業に追い込まれていきました。 こちらは所要時間、僅か五十三分だったそうですから、 まあ、仕方のないことかもしれません。

4月23日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「むかしむかし、根岸の森で」です。
きのうは横浜・馬車道、そして横浜・東京を結んでいた 「乗合馬車」のお話をいたしました。 当時、日本にやってきた欧米人たちは、 馬が大好きだったようで、とにかく横浜には、 馬にまつわるエピソードがたくさん残されています。 もちろん、こういう施設も、すぐに作られました。そう、競馬場です。 現在の元町や中華街あたりにコースが作られ、 欧米人の中に日本人も混じって、 しばしばレースが行われていたんだそうです。 しかし、居留地にどんどん外国人が増えてきて、 手狭になってくると、おいそれと競馬を開催するわけにもいかなくなってくる。なんとか、常設の競馬場を作ってはもらえないだろうか、…そんな要望が寄せられるようになった頃、事件が起きました。遠乗り中の四人のイギリスが、島津公の先を横切ったため、薩摩藩士に殺傷された、「生麦事件」です。
この事件に怒ったイギリスは、幕府にいろいろな要求を突きつけるのですが、その中の一つに「競馬場の建設」がありました。 英国紳士の皆さん、本当に競馬がお好きなんですね。 こうして作られたのが「根岸競馬場」です。横浜市内を見渡すことのできる、 大変見晴らしのよい場所に作られたこの競馬場は、 慶応ニ年(1866年)にオープンしています。 当時は、現在のようなスタイルの競馬のほかに、 日本人厩務員によるかけっこや、人力車の競争なども 余興として行われていたんだそうです。 ところが、当時、そうした職業に就いていた人たちは、 フンドシ一丁の裸同然スタイルが当たり前でしたから、 これに怒ったのが、警備に当たっていた日本人の警官たち。 その頃、文明開化に合わせて、人前での裸や放尿、混浴などを禁じる条例が定められたばかりだったのです。
ところが、逆に、この警官たちに怒ったのが、競馬場の運営に当たっていた外国人たち。悪名高い「不平等条約」で、「治外法権」が認められていたため、「ニッポンジンのオマワリ、ヒッコンデロ!」と、追い出してしまったんですね。まあ、取り締まろうとした警官も、追い出した外国人も、どっちもどっちかな…というエピソード。現在、根岸競馬場の跡地は森林公園として整備されています。

4月24日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「公園とアイスクリーム」です。
横浜には「日本で初めて」というエピソードが、 実にたくさん、ございます。 今から百五十年前に港を開き、東京よりも先に、 外国人たちがどんどん入ってきて、 欧米の最先端の技術や流行を伝えたわけですから、 考えてみれば、当たり前の話です。 以前、この時間でも「横浜はじめて物語」として、 ビール、テニス、新聞などをご紹介いたしました。 今日ご紹介する「公園」も、その一つ。 京浜東北線に乗って、石川町駅から山手駅へ向かうと、 すぐトンネルに入りますが、このトンネルの上あたりにある、 「山手公園」が、日本で初めてのヨーロッパ式公園です。 オープンしたのは明治三年(1870年)。
居留地のリフレッシュ空間として、外国人たちが奔走し、 寄付を集め、崖の上の荒地を整備して公園としたのです。 きのう、競馬場開設のきっかけとなったのが「生麦事件」というお話をしました。この山手公園も、事件後の外国人へのケアとして、当時の幕府が開設を約束したもの。もともとこの場所は、妙香寺(みょうこうじ)という徳川幕府から三十石の扶持を与えられていたお寺の土地でした。 明治維新後、新政府が公園をどこにしようか…と考えたとき、 そうだ、妙香寺は徳川と関係が深い寺だから、 あそこの土地を取り上げてしまおうという話になって、 決まったんだそうです。お寺にしてみれば、いい迷惑ですよね。
さて、公園で食べたいモノといえば、 これからの季節、やっぱりアイスクリームですよね。 先ほどのシカゴ「サタデイ・イン・ザ・パーク」の歌にも、 アイスクリーム屋さんが登場して参ります。 アイスクリームが、日本に初めてお目見えしたのも、横浜。 慶応元年(1865年)、アメリカ人リズレーが、 外国人居留地の103番地(現在の山下町103番地)辺りで、 アイスクリーム・サロンを開業。これが記録に登場する アイスクリーム製造販売の日本における第一号です。 そして明治二年(1869年)には、馬車道通りで、 町田房蔵が「氷水屋」を開業。 ここで売り出した「あいすくりん」が、日本人が製造販売した アイスクリームの第一号、とされています。 開業記念日である5月9日には、毎年、 当時の味を再現したアイスクリームが配るイベントが開かれ、 大変な人気を博しています。

 

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