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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

5月11日(月)〜5月15日(金)
今週は、「永井荷風という生き方」。   
大学教授を勤め、文化勲章を受章した文学者でありながら、戦後は浅草のストリップ劇場に入り浸り、
独身生活を謳歌した文豪、永井荷風。その死後五十年にちなみ、 興味深いエピソードを
ご紹介してまいります。

5月11日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「若き日の荷風」です。
文化勲章を受章した文豪、永井荷風。 胃潰瘍による大量吐血と、それに伴う心臓麻痺が原因で、 この世を去ったのが、昭和三十四年(1959年)、 四月三十日午前三時ごろ。 亡くなってから、今年でちょうど半世紀ということになり、 書店にも関連の書籍がたくさん並んでおります。 永井荷風・本名壮吉(そうきち)は、明治十二年(1879年)十二月四日、東京・小石川の生まれ。 生まれた家は、地下鉄丸の内線の後楽園と茗荷谷の間、 神田川をはるか下に臨む丘の上にありました。 父、久一郎(きゅういちろう)は、洋行帰りの高級官僚で、 後に日本郵船に勤め、上海支店支配人などを歴任した人物。 この小石川の家には、丘の上と下、二つの庭があり、 鬱蒼と樹木が生い茂って、狐が現れたそうです。
また、後に引っ越した新宿区の余丁町、 現在の曙橋近くの邸宅は、敷地が千坪もあったそうで、 いやはや凄まじいスケール。 荷風は戦前まで、父親の残した株券の配当や利息で生活し、 お金を稼ぐこととは無縁の生活を送っていました。 父親は、長男である壮吉に後を継がせ、 官僚や実業家となることを望んでいたのです。 しかし、幼い頃から文学や芸事に親しんでいた壮吉は、 いかにも「明治の男」である父親に激しく反発し、 まったく勉強に身が入りません。 それどころか、二十歳の年になると、 とんでもない行動に出てしまうのです。
当時活躍していた 「六代目 朝寝坊むらく」の落語家、 壮吉青年、「人情噺がやりたい」と、 なんと、この「むらく」に弟子入りして、 毎日寄席に通って、甲斐甲斐しく身の回りの世話を焼き始めた。 父親が日本郵船の仕事で上海駐在中だったため、 好き勝手な行動に出てしまったんですね。 しかし、九段の寄席にいるところを使用人に見つかって家に連れ戻され挫折。さらに、後には…歌舞伎の作者となることを志し、拍子木を打つところから 修業を始めますが、これも様々な事情で挫折。 父は次第にこの放蕩三昧の長男を持て余すようになります。

5月12日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「ニューヨークの荷風」です。
高級官僚の家に生まれながら、厳格な父親に反発し、 芸事に現を抜かす青年、永井荷風。 病弱だったこともあり、勉学になかなか身が入らず、 旧制第一高等学校の入試に落第してしまいます。 「会社にしろ役所にしろ、将来ずっと上のほうに行くには、 肩書きがなければいかん! 貴様みたような怠け者はダメだ、もう学問などよしてしまえ!」 激怒する父に、荷風青年はますます反発し、落語家、 朝寝坊むらくに弟子入りして「三遊亭夢乃助」を名乗ったり、 歌舞伎作者を志して楽屋に出入りしたり、やりたい放題。 世間体を気にする父親は、この放蕩息子に手を焼き、 一つの提案を行います。「アメリカに行かせてやるから、 向こうで実業の勉強をしてきたらどうだ…」
かねてからフランス文学に憧れ、洋行を願っていた 二十三歳の荷風にとっては、願ってもない話でした。 明治三十六年(1903年)、太平洋航路に乗り込みシアトルへ。 そこから大陸を転々とし、ニューヨークに到着。 日本の銀行の支店で働くことになったのですが、 もちろん、実業の勉強などほとんど興味がありませんから、 文学を始めとした芸術三昧の日々を送ることになります。 で、ここで夢中になったのが、音楽でした。荷風がニューヨークに滞在した二十世紀初頭は、 オペラの絶頂期でした。中でも1883年にオープンした 「メトロポリタン歌劇場」には、カルーソーを始めとした 一流歌手が連日出演。もともと邦楽に親しみ、 人一倍優れた耳の持ち主だった荷風は、あっという間に オペラに夢中になり、連日の劇場通いが始まったのです。
「オペラ作者になりたい…」 荷風はそこまで思いつめるようになり、後に昭和十三年、 友人である作曲家・菅原明朗(めいろう)に作曲を依頼し、自作のオペラ「葛飾情話」を上演、夢を実現しました。舞台稽古の様子を、作家・安藤鶴夫が書き残しています。 「あとにもさきにも、自作を上演される事の喜びを、あれほどまでに思い切りむき出しにして見せた作家を、私は見た事がない。世にも幸福そのものであった。客席の若い女優たちに一人一人サンドイッチを配って歩くかと思うと、立見席と立見席の柵と柵の間に両腕を突っ張っては、鶴のように美しい長身を、子供のようにぶらさげてみたり。青年のような身軽さで舞台を通り抜けてゆくかと思うと、道具の飾ってないまる見えの楽屋で、踊り子達と声を立てて笑ったりしていたその夜の荷風散人を、私は生涯忘れぬであろう。

5月13日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「パン、ショコラ、コーヒー」です。
明治三十六年(1903年)、アメリカに渡り、 そこからフランスを経て明治四十一年にようやく帰国した荷風。 もともと「食い道楽」でしたが、五年間の欧米生活を経て、新たな好物が加わりました。それはパンと、ショコラ。若い頃、ごく短い結婚生活を送った以外は、ほぼ生涯、 独身を貫き通した永井荷風は、一人暮らしの達人でした。 大正八年(1919年)、一月一日の日記。 「九時ごろ目覚めて床のうちにて一碗のショコラを啜り、 一片のクロワサンを食し…」 ほとんどの人々が家族で集い、雑煮を食べている元旦に、 寝床の中でショコラとクロワサンを食べる男。 もちろん、荷風先生にとってはごく普通のことなんでしょうが、 一般の人々にとっては「奇人」と見えても仕方がない。 ちなみに、荷風の好んだクロワサンは、 銀座・尾張町「ヴィエナ・カッフェー」のもの。
また、食パンは築地精養軒と決まっておりました。 大正八年(1919年)十二月八日の日記。 「精養軒食品売り場にて明朝の食パンを買うに、 焼きたてとおぼしく、携うる手を暖むることカイロの如し」パンとショコラだけでなく、荷風はコーヒーも大好きでした。 それも、たっぷり砂糖を入れた、甘い甘いコーヒー。 戦前、まだモノが自由に手に入った時代には、 角砂糖を三つ落とし、さらにコニャックかキュラソーを注いで 飲むのが大好きだったそうです。 飲み終えた後のカップには、溶けきらなかった砂糖が べっとりと残っていたとか。
空襲の危険が迫る昭和二十年二月の日記には、 こんな記述があります。 「隣人来たり、米国飛行機何台とやら襲来するはずなれば 用心せよ、と告げてされり。心何となく落ち着かねば、 食後、秘蔵せし珈琲をわかし砂糖惜しげなく入れ、 パイプにこれも秘蔵の西洋タバコを詰めおもむろに煙を喫す。もしもの場合にも、この世に思い残す事なからしめんとてなり」 晩年の荷風は、 「粉になってるのは、お湯さえ入れれば溶けちゃう。 あれがいちばんいいですよ。残るのがないから」と、 当時高級品だったインスタントコーヒーを愛用していました。

5月14日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「20世紀のプレイボーイ」です。
永井荷風、昭和十二年(1937年)の作品、「墨東綺譚(ぼくとうきだん)」。 隅田川の左岸、玉の井に暮らす娼婦「お雪」との出会い、 そして別れを描いた荷風の代表作です。 このほかにも、「腕くらべ」や「おかめ笹」など、 荷風には数多くの花柳界を舞台にした作品があり、 さぞや女性たちとの深い深い交流があったんだろうな、と、 想像を逞しくさせられます。 実際のところはどうだったのか? もちろん戦前の男性ですから、十八の年に初めて 吉原に足を踏み入れてからというもの、 数え切れないほどの女性と親しく交わりをもたれた。 しかも「素人の女には絶対に手を出さない」という徹底ぶり。 昭和十一年一月三十日の日記に… 荷風先生、この年、五十六歳になっているわけですが、 それまで関係をもった女性の名前を列挙されています。 その数、十六人。もちろん、これだけで足りるわけはなく、 「このほか臨時のもの、挙ぐるにいとまあらず」と、 記してあります。
荷風が親しんだ数多くの女性のうち一人をご紹介しましょう。 松平晃(あきら)の「サーカスの唄」が ヒットしていた昭和八年(1933年)ごろ、 盛んに会っていたのが「黒澤きみ」という女性。 初めて出会ったのは、日本橋の小さな待合でした。 「年のころ二十四五の美人煙草をふかしゐたるを見たれば、 そっと女将を呼びて様子を聞くに、去年頃まで 高島屋呉服店の売り子なりしが今は人の妾となり、 内々にて春をひさぐという。値を問うに十円なりという」 この後、新橋駅で二人は偶然再会し、 荷風は暇を見つけては彼女との密会を重ねるようになります。
なじみになってからは、月に五十円の手当てを 支払っていたといいますが、現在の金額にすれば、 五十万円ほどにもなりますでしょうか。それでも、 流行作家である荷風にとっては、安いものだったのでしょう。 昭和八年十一月七日の日記にはこんな記述があります。 「閨中秘戯絶妙。しかも欲心なく廉価なり」 ものすごいテクニシャンだけど、欲張りじゃなくて、お買い得。 …というわけですが、この黒澤きみさん、 いったいどんな技を使っていたんでしょうね!?

5月15日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「市川の日々」です。
三月十日の東京大空襲で麻布の家を焼け出され、 東中野のアパートに移った荷風ですが、 なんとそのアパートも五月二十五日の空襲で炎上。 ほうほうのていで岡山に疎開すると、三たび空襲に遭遇、 それでも何とか生き残ることができて、荷風先生、 戦後、東京へと戻って参ります。 居を定めたのは、江戸川を渡った千葉県市川市。 最初はいとこである長唄の名人、杵屋五叟(きねや・ごそう)と同居。後には、フランス文学者 小西茂也(しげや)の家に間借りすることになりますが、いずれもうまく行かず。部屋の中で七輪で煮炊き、そこら中に焼け焦げを作ったり、下駄や靴をはいたまま歩き回ったり、全財産の入ったカバンを持って風呂に入ったり、トイレに行くのが面倒で部屋の窓からオシッコしたり…と、これでは共同生活などできるはずがありません。
それでも、戦後、一躍売れっ子作家となった荷風ですから、結局、家を購入して一人住まいを始めるようになります。 そして、昭和二十三年頃からは、浅草通いが始まります。戦後、いち早く復興して、娯楽を求める人々が殺到した ショウビジネスの町、浅草。 中でも荷風先生のお気に入りはストリップ劇場でした。 戦前からの知り合いだった支配人に招待されると、 ズカズカと楽屋に上がりこみ、 たちまち踊り子たちの人気者となってご満悦。 劇場がハネると、お気に入りの女の子を誘って食事に出かけ、 満足して市川の家に帰るという毎日だったようです。
それでもお金にはシビアだった、永井荷風先生。 半藤一利さんの目撃談によれば、ある店で先生が食事中、 「おまちどおさま!」と踊り子二人が入ってきた。 しばし談笑の後、お勘定ということになりましたが、 一人の踊り子が怒り出したんだそうです。 「先生、私の分は?」「ダメ、君は呼んでないから」… 「ケチンボ!」どんなに大声で怒鳴られようと、 声をかけて誘った女性の分しか払わなかったそうです。 奇人、変人といわれるのも仕方ないかな、というエピソードでございます。ストリップ劇場、ロック座のヌード嬢オーディションで、 審査委員長を務め、誰よりも早く会場に現れて細かく指図、大いに張り切っていたのは、昭和二十六年。文化勲章を受章する前の年の出来事でした。



 

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