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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

5月18日(月)〜5月22日(金)
今週は、「イキのいい話」。
江戸の台所を支えた魚河岸、 そして威勢のいい魚屋さんたちの物語を集めてお送りしてまいります。

5月18日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「初鰹の季節」です。
「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」 山口素堂(そどう)の余りにも有名な句でございます。 口にすれば七十五日寿命が延びる、といわれる 「初物」の中でも、初夏の風物詩、「カツオ」は特別な存在。 今から二百年ほど昔、江戸っ子たちが「初鰹」を食べるために、 それこそ凄まじい出費をしていた…というお話は、 この時間でも何度かご紹介いたしました。 先ほどの「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」をもじって、 「目と耳は タダだが口は 銭がいり」 こんな川柳もございます。
青葉を見たり、ほととぎすの声を聞くのはタダだが、 初鰹はけっこうな金がかかる、というわけですね。 これも、よく紹介される話ですが、 文化九年(1812年)3月25日…と申しますから、 現在にすれば4月の20日ごろ。 魚河岸に十七本の初鰹が入荷いたしました。 このうち六本は、将軍家がお買い上げ。 八本を魚屋さんが仕入れて、これはまあ、 どこかのお殿様かお金持ちの所に流れたのでしょうが、 そのうち一本をお買い上げになったのが、当時の名優、 三代目・中村歌右衛門。歌右衛門さん、三両の身銭を切り、この飛びっきりの上等な鰹を、 大部屋俳優の皆さんにふるまったということで、 一躍、男を上げたんだそうです。 現在のお値段にすれば、五十万円ほどにもなりますでしょうか。
さて、この文化九年の初鰹十七本。 残りの三本を仕入れたのが、江戸を代表する有名な料亭、 「八百善」でした。 当時、浅草、山谷にあったこのお店は、 谷文晁(たにぶんちょう)や大田蜀山人(しょくさんんじん)ら、 当代一流の文化人が集うサロンでもあったのです。 この中の一人、画家の酒井抱一(さかいほういつ)が、 八百善である年、初鰹を食べたときのエピソード。 刺身を一枚、口にした抱一が、そこで箸を止めて 料理人を呼びました。 「酒井様。お呼びで…」 「うむ。お前、この刺身、 研ぎたての包丁で切りはしなかったかね」 「お、おっしゃる通りですが…」 「刺身に研石の香りが残っておる。 研いだ後は、しばらく井戸水に漬け置かねばならんぞ」 刺身を一枚食べただけで、包丁が研ぎたてだとわかってしまう 凄まじい感性! ある意味、怖ろしいですよね。 鎌倉から届いた初鰹を前に、抱一が詠んだ句を 最後にご紹介いたしましょう。 「魚の背に 鎌倉山の 青みかな」

5月19日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「魚河岸の朝」です。
江戸の魚屋さんといえば、 なんといっても威勢がいいのが身上です。 今のように冷蔵技術なんてものはございませんから、 河岸に上がった魚は、一刻も早くお客さんのもとに 届けなければいけない。 悠長なことはしてられない、というわけで、 気が短くなるのも、道理です。 現在、魚河岸といえば築地ですが、江戸の昔は日本橋。 三越本店から道を挟んだ反対側の一帯に、 関東大震災までは魚河岸が広がっておりました。 家康と共に上方から移ってきた漁民たちが、 幕府に納めた残りの魚を販売する許可を得て、 このあたりで商売を始めたのがきっかけとなって、 日本橋一帯が魚河岸の町、ということになったのです。 当初は戸板の上に魚を並べていただけでしたが、 後には「板舟」といって、魚の鮮度を保つため、 水を張ったショウケースが用いられ、鯛やヒラメなど高級魚は生簀に入れられるようになりました。 江戸三千両と申しまして、一日千両のお金が落ちる場所が 三つある。猿若三座の芝居町、ご存知吉原遊郭、 そしてこの日本橋魚河岸。 正に「江戸の台所」というわけですね。
江戸時代の時刻を大まかに説明いたしますと、 夜明けが「明六つ」、日暮れが「暮六つ」。 つまり、季節によって、時間の長さが変わっていたわけです。 ですから、きょう、五月十九日を例に挙げれば、 午前四時三十三分が日の出ですから、ここが「明六つ」。 そして午後六時四十二分が日没で「暮六つ」。 日本橋魚河岸が商売を始めるのが、明六つ。 江戸中から魚屋さんたちが集まって参ります。 テレビや映画の「一心太助」でおなじみでしょう。 天秤棒の両側に盤台と呼ばれる大きなたらいを取り付け、 そこに売り物の魚を入れて行商を行うわけです。 こうした魚屋さんたちは「棒を手で振って歩く」ところから 「ぼてふり」と呼ばれておりました。
問屋・仲買がひしめき合う狭い通路を、 大きな荷物を抱えた魚屋さんたちが行きかうわけですから、 当たった当たらないは日常茶飯事。何だこの野郎、 てめえの方が悪いんだろう……とケンカが始まります。 かの有名な広重作の浮世絵「東海道五十三次」 日本橋の図にも、手前左側に、四、五人の「ぼてふり」が これから商売に出て行く様子が描かれています。

5月20日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「魚河岸ケンカ物語」です。
火事と喧嘩は江戸の華、と申します。 それでなくても喧嘩っ早い江戸っ子の中でも、 とりわけ気が短いのが魚河岸関係者の皆様方。 鮮度が命の魚を取り扱っている商売ですから、 ま、これはある程度仕方がない側面もあったようですが、 とにかく「喧嘩」は魚河岸のもう一つの名物だった。 で、これもシーズンがあるようで、初夏、五月。 木の芽どきともなりますと、現在でも、いろいろ、 あちこちで妙な出来事がたくさん起きてくるものですが、 江戸時代も同じだったようで、 「喧嘩月」といえば「五月」のことを言ったんだそうです。
元・江戸奉行所与力で、後の社会事業家、 原胤昭が魚河岸の喧嘩について書き残しております。 何しろ江戸っ子は喧嘩が好きで好きでたまらない。 「喧嘩っばェーなア、俺っちの地金(じがね)だ、 おまんまよりゃー、好きなんだ」と、 喧嘩があると聞くと、わざわざ遠回りして駆けていく。 喧嘩を見物するのも、江戸の人々の大きな楽しみだった… てんですから、これは面白い時代といえば時代です。 原さんが思い出に残っているのは、幕末、文久年間…と 申しますから、今からおよそ百五十年前の喧嘩。 新大橋と両国の間の大川端に、かたや魚河岸のアニイ連、こなた浅草観音の顔役身内が顔を揃えて、大喧嘩が始まります。「ニ、三日前から河岸が揉めている。 喧嘩ができるだろうと、噂が噂を呼んで大評判だった。 私は見に行きたくってたまらない、そわそわしていた。 この日、稽古から帰ってくると、往来のそっちこっちに 人が立って話している。今もうじきに、出るそうだ、 なんぞと。『おっかさん、遊びに行ってまいります』 木刀を片手に、玄関を駆け出した。
そっちからもこっちからも人が出てくる。 橋の上は、人で黒山になった。 喧嘩に行く魚河岸のアニイたちが三々五々かけてくる。 くりからもんもん、鯉の滝登り、総彫り物肌脱ぎもあれば、 雪のような白い素肌もあり。魚屋半纏に腹掛け、 額の突先(とっさき)へ向こう鉢巻、素手、素足。 ちょっと白木綿で刃もとを巻いた出刃包丁、 手元を突っ込む鯵切りは、そっと懐中に忍ばせて、 外に輝く大ダンビラ、種々のマグロ包丁。 てんでんに、ふだん使い慣れている獲物獲物を、 小脇に抱え込み繰り出してくる。 河岸のアニイたち、見るからに気持ちのよい勇み男の決死隊」 いなせなお兄さんたちが、大挙して江戸の町を駆け抜けていく、 さぞや見ものだったことでしょうねえ。

5月21日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「高座の魚河岸」です。
江戸の魚河岸を代表する有名人…と申しますと、 やはりこの方、一心太助…ということになりましょう。 三河時代から徳川家康に仕え、 のちに「天下のご意見番」と異名を取るようになった 大久保彦左衛門と、出入りの魚屋・一心太助。 この名コンビが、江戸に巣食う悪党どもをやっつけていく、 痛快無比なストーリーは、講談や時代劇でおなじみです。 太助は、悪いやつを見つけると、たとえ相手が大名だろうと、 天秤棒片手に、屋敷に乗り込んで大立ち回り。 まあ、江戸時代にはこんなことあり得ないわけですから、 架空の人物だと思われている方が多いでしょう。 ところが、この「一心太助」のお墓が実在することを、 皆様、ご存知でしょうか?
場所は、港区白金、地下鉄白金高輪駅から歩いてすぐのお寺、 立行寺(りゅうぎょうじ)。 このお寺、大久保彦左衛門が建立した寺で、 彦左衛門のお墓もあるのですが、太助の墓はそのすぐ隣。 寄り添うように立っております。 伝えられるところによれば、一心太助は、 もともと三河の農民でしたが、彦左衛門に見出され、 侍となって共に江戸に参ります。 ある日、彦左衛門の屋敷で大きな宴会があった際、 一人の腰元が誤って家宝の皿を割ってしまった。 「手打ちにしてくれる!」と怒る彦左衛門の前で、 太助は「ふざけんじゃねえ、人の命と皿とどっちが大事だ」 と、残った皿を全部叩き割ってしまう。 彦左衛門は自ら恥じて腰元を許しますが、 太助も、殿様に逆らったからにはもう武士でいられない、と、 すっぱり町人となって魚屋稼業を始めることになった… というものです。 石塔に寄れば、太助が亡くなったのは延宝2年(1674)年 …とのことです。
講談に登場する有名な魚屋さんは一心太助ですが、 落語でいえば、この「芝浜」、勝五郎でしょう。 酒飲みが過ぎて、貧乏暮らしの勝五郎さんは、 早朝、芝の浜辺で五十両の入った革財布を拾います。 友人を集めて大宴会、気分よく寝て目が覚める。と、女房に 「なに寝ぼけてんだい」、夢を見てるんじゃないよ…と、 いわれ心を改めマジメに働き始める、おなじみのお話。 講談といい、落語といい、魚屋さんが重要な人物として 登場することが大変多いんですね。江戸の町で、 この仕事が、いかに人々と身近な存在だったかがわかります。

5月22日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「魚河岸最大の危機」です。
時は幕末、慶応四年(1868年)。薩長連合軍が、西から江戸を目がけて進んでくる。もはや、戦は避けられない。二百六十年以上続いた、江戸の平和な日々も、風前の灯となっていた、ある日のこと。町奉行所から、魚河岸に呼び出しがかかります。いったい何のことだろう、と、出かけていったアニイたちに、とんでもない難問が突きつけられました。「いよいよ薩長がこの江戸に迫ってきておる。 万一の場合は江戸防衛のため立ち上がり、 勇ましい気性を見せてもらいたい」なんと、魚河岸のおアニイさんたちに、防衛軍を組織してレジスタンス活動を依頼してきたわけです。
実は、このアイディアを思いついたのは、勝海舟。
もし薩長の軍勢が江戸に攻め入って来たならば、江戸市内に火を放ち、火消しや、遊び人たち、さらにこの魚河岸連中といった威勢のいい連中を集めて大混乱に陥れようというプランを練っていたのです。 魚河岸の皆さんは、頭を抱えてしまいます。 普段の喧嘩は娯楽みたいなもので、どうということもない。 しかしこれは本式の命のやりとり、 しかも相手は大砲もあれば銃もある、刀も使い慣れている。 こいつは一筋縄ではいかないぞ…と、誰もが押し黙る。 そこへ口を開いたのが、代表の相模屋武兵衛(たけべえ)。 「我々は慶長の昔から将軍家のもとで生きてきた。 今日、こうして商売ができるのも徳川様あってこそ。 今こそ恩返しをする時じゃないか。だいたい薩長のイモ侍に、この江戸を踏みにじられて たまるもんか!」とアジ演説をぶちました。 感じ入った魚河岸連中は「そうだそうだ」 「ぶちかましてやれ」と途端に威勢が良くなり、 防衛隊を組織することに決まったのです。
こうなると、江戸っ子ですから、もうお祭り騒ぎが始まる。 詰め所に行けば炊き出しが行われ、もちろん酒が出ます。 すると、普段から寄席へ通い、講談で覚えた戦の話を思い出し、 計略を練るものまで現れるという始末です。 この様子を見届けた勝海舟は、西郷隆盛と会談します。 「もし官軍が戦いをやめないと言うのなら、 魚河岸や火消しの連中、さらに遊び人の仲間たちが、 江戸を燃やし、メチャクチャに叩き壊すことになる。 こうなると国を立て直すのも大変だよ」 スムーズな新政府の船出にとって、それは得策ではない。 …と、勝との会談で悟った西郷は、停戦を決意。 ここに江戸城の無血開城が決まり、魚河岸の危機は去りました。 まあ、おアニイさん達もホッとしたんでしょうが、 ボソッと口にしたのは、江戸っ子らしい、こんな一言だったんだそうです。 「なんだ、つまらねえなあ」



 

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