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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

5月25日(月)〜5月29日(金)
今週は、「江戸東京 裁判ものがたり」。 いよいよスタートした裁判員制度にちなんで、
江戸時代から戦前までの「裁判」をめぐる エピソードをご紹介します。

5月25日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「実録・大岡越前」です。
「名奉行」といえば、いの一番に名前が挙がるのが、 大岡越前こと、「大岡忠相(ただすけ)」。 誰にも公平で人情味溢れる判決のことを 「大岡裁き」と呼ぶほど、その名前はポピュラーです。 その典型的なものを、ご紹介しましょう。 お聞きいただいておりますのは「三方一両損」。 大工の吉五郎さんが、三両の入った財布を落とします。 で、これを拾ったのが、正直者の左官、金太郎さん。 中を見るとハンコと書付があったので落とし主がわかる。 で、金太郎さんは吉五郎さんのところに届けるんですね。 ところが吉五郎さんは、ハンコと書付は受け取るけれども、 金は拾ったお前のものだ、くれてやる…と受け取らない。 金太郎さんも江戸っ子ですから「冗談じゃねえや」、 金がほしくて届けたわけじゃない、とケンカになります。
これがとうとうお白州に持ち込まれて、大岡様の出番。 「くれてやる」「いらねえや」と言い争う二人を前に、お奉行様。 財布から一両小判を取り出して、 そこにあった三両に加え、お金は全部で四両になりました。「この四両を、その方らまれに見る正直者二人に、二両ずつ褒美としてつかわす。 二人とも、素直に受け取っていれば三両手に入ったものを、 一両ずつ損して、二両。 そしてこの大岡越前も、一両損しておる」 三人がそれぞれ一両損して丸く収まる…というわけで、 これが「三方(さんぼう)一両損」というお話です。 落語、講談には、こうした「大岡裁き」が しばしば登場しますが、その多くはフィクション。
では、実際の大岡越前守は、どんな人物だったのでしょう。 名奉行として後々まで語り継がれているわけですから、 やはり、相当の人物だったことは間違いないようです。延宝(えんぽう)5年(1677年)に、 旗本の四男として生まれた越前さん、 町奉行になったのは四十一歳のとき。 町奉行のポストに就くのは、たいてい五十代から六十代の方が 多かったそうですから、かなり出世が早い方なんですね。 奉行の仕事は、訴訟、裁判関係だけではなく、 現在で言えば「都知事」のような役目でもありました。 いろは四十八組の町火消しの制度を設けたり、 貧しい者のための病院、小石川養生所を設けたり。 たいへん江戸の人々に尽くし、慕われた人物だったので、 講談や落語の主人公にまつりあげられた、というわけです。

5月26日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「奉行所をのぞいてみよう」です。
実は、大岡越前守の仕事場、 南町奉行所は、現在の有楽町駅前にあったんですね。 2005年、千代田区教育委員会が、 複合施設、有楽町イトシアの工事に取り掛かる前に、この奉行所跡の遺跡、「有楽町二丁目遺跡」を調査しています。すると、書記官の仕事部屋だった付近から、「大岡越前守」と書かれた木製の札が発掘されました。これは、奉行の側近が、伊勢神宮の神主に依頼して書かれた物。越前が町奉行になる前、伊勢神宮周辺の奉行を務めていたことと関係があるのでは…と、推測されています。イトシア周辺には、このときの発掘調査で発見された遺物がいくつも展示されており、奉行所の昔を偲ぶことができます。ちなみに、北町奉行所があったのは、現在の東京駅、八重洲口の辺りです。
お聞きいただいておりますのは、これもまた「大岡裁き」を ネタにした落語の一つである「大工調べ」。 因業な大家に大切な道具箱を家賃のカタに持っていかれ、 困った与太郎と棟梁が訴え出る…というお話ですが、 お話のクライマックスが、この「お白洲」の場面です。 皆様、ご存知のように、「お白洲」は奉行所の中にある法廷。 南町奉行所の場合、有楽町イトシアの南側の一角にありました。 テレビの時代劇では、お白洲は屋外ですが、 実際には屋根をつけるか、あるいは土間に砂利を敷いてあるか、 そのどちらかだったようです。 また、引き出された人々を威嚇するために、 拷問用の道具なども置かれていました。
このお白洲で、判決が言い渡されるわけですが、 実際には、訴訟の件数が多く、奉行はかなり忙しいので、 代理の者が務めることも多かったようです。 裁判官は、奉行の仕事のほんの一部分。 このほかに、江戸市内を守る警察や消防の役割や、 上水の整備や道路工事などの土木、養生所など保健衛生… などなど、現在で言えば、一人で都知事をやりながら 裁判所、警察、消防のヘッドを兼ねていた…というわけです。 そのため、町奉行の任務についている間は、 自宅があっても帰ることなど不可能、 朝起きてから寝るまで仕事に追われまくり、 奉行所に住み込むことを余儀なくされたのです。 そのため、在職中の死亡率が他の奉行職に比べて、 格段に高かった。それほどの激務だった、というわけです。

5月27日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「公事宿の人々」です。
日本橋馬喰町…この地名は、かつてこのあたりに厩舎があり、 大勢のウマ関係者の皆さんが住んでいたことに由来します。 江戸時代も中ごろになってまいりますと、馬喰町は、 「公事宿の町」として知られるようになりました。 「公の事」と書いて「公事(くじ)」、 これは現在で言う訴訟のことです。 公事宿とは、訴訟、裁判のため江戸にやってきた人々を 宿泊させるための施設でした。 たいていの人々は、裁判など一生に一度あるかないか。 裁判のシステムや決め事など、わからないのが普通です。 そこで、この「公事宿」では、訴状を作ったり、 手続きの代理人を勤めたり…と、現在で言う 司法書士や弁護士のような役割も勤めていたのです。 また、物事をお白洲に持ち込んでしまうといろいろ面倒なので、 この公事宿が仲裁を行って、和解に持ち込んでしまう…と、 そんなことも多かったようです。 公事宿の中には、訴訟を行う者だけでなく、 一般の客を宿泊させるところもありました。 いま聞こえている落語「宿屋の冨」も、そんな馬喰町の宿屋が 舞台となっております。
落語はノンキでホノボノとしておりますが、 かつて、この馬喰町の公事宿の皆様に、大変な難儀が ふりかかったことがありました。 1791年(寛政三年)のこと。馬喰町で公事宿を営む 十四人が南町奉行所に呼び出されました。 「いったい何のことか…」と人々は不安に怯えます。 実は、公事宿が金儲けのため、いたずらに宿泊期間を引き延ばし、また法外な手数料を取っている…という話があり、不正を一掃すべく、奉行所が乗り出した…というわけでした。中には本当に悪事を働いていた人もいるのでしょうが、この日、ここに呼び出された十四人は、身に覚えのない人がほとんどだったそうです。それでもお上は、「見せしめのため」と、追及の手を緩めず、多くの人々が拷問を恐れるあまり自白、無実なのに罪を着せられ追放された人も多かった。
二度、三度…と奉行所に呼び出されるたびに不安が募り、夜は眠れず、食事も喉も通らず…といった苦悩の日々を、石川雅望(まさもち)という人が詳細に記録しています。結局、雅望は七度目の呼び出しで「家財没収、江戸払い」の判決を受け、青梅街道に近い成子(なるこ)村…現在の新宿副都心にほど近い辺りで長く暮らすことになります。当時はこのあたり、江戸のうちに入っていなかったんですね。

5月28日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「北原白秋不倫事件」です。
懐かしい童謡「この道」。詩を書いたのは、北原白秋です。 有名人が法廷に立つことになると、マスコミは大騒ぎするものですが、これは昔も同じ。明治四十五年(1912年)、当時二十五歳の白秋が訴えられ、裁きを受ける身になると、新聞紙上には、興味本位の記事がテンコ盛りになりました。この売出し中の青年詩人がどんな罪を犯したのか?それは「姦通罪」。戦前の刑法では、第353条に、「有夫ノ婦姦通シタル者ハ六月以上二年以下ノ重禁錮ニ處ス其相姦スル者亦同シ」とあります。 わかりやすくいえば、人妻がほかの男とできちゃった場合、 6ヶ月から2年の重禁錮刑。また、その間男も同罪…と、 こういうことになるわけです。原宿に住んでいた白秋青年が、隣の家に住んでいた美貌の人妻、松下俊子と、情を通じてしまった。実はこの俊子さん、DVに苦しむなど、夫から虐待されており、白秋がそれに同情したことから、恋が始まってしまったんですね。
姦通罪は、妻が浮気した夫が訴えなければ成立しません。たちの悪い俊子の夫が、二人がねんごろになった証拠をつかみ、「おおそれながら…」と、訴え出たのです。当時の新聞には、「北原白秋は詩人だ、詩人だけれど常人のすることを逸すれば他人から相当の非難もされよう、昨五日東京地方裁判所の検事局から北原隆吉として起訴された人は雅号白秋其の人である、起訴されたのは忌むべき姦通罪というのだ」 という記事が掲載されています。姦通は社会悪でした。二人は囚人馬車に乗せられて、市ヶ谷の未決囚を入れる監獄に送られました。先日、この番組で永井荷風を取り上げたとき、荷風が牛込余丁町の大邸宅に住んでいたお話をいたしましたが、この市ヶ谷監獄は、その荷風の邸宅のすぐ近所。現在、富久町児童公園となっている場所の一角には監獄で死刑を執行された人々の慰霊碑が立てられています。
俊子の夫が狙っていたのは、示談金でした。 白秋の弟が奔走して金を集め、三百円という大金を用意。 公判は開かれましたが、告訴は取り下げられ、 白秋は無罪となりました。放免されたときの歌です。 監獄いでてぢっと顫(ふる)へて噛む林檎林檎さくさく身に染みわたる 白秋と俊子は後にめでたく結婚しますが、ほどなく離婚。 そのつかの間の幸福な時期に書かれたのが、 いま聞こえている名作「城ヶ島の雨」でした。

5月29日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「モダン東京の陪審裁判」です。
裁判員制度がスタートするにあたり、かつて日本でも、 陪審裁判が行われていた事実に、 スポットが当てられるようになりました。 日本で陪審制度が取り入れられていたのは、 昭和三年(1928年)から十五年間。 制度の導入を考えたのは、大正七年(1918年)、最初に政党内閣を組織し、 民主的な政策を推し進めた首相、原敬(はらたかし)です。 議会の議員は選挙で選べるけれど、 司法の分野に一般市民が関わることはない。 陪審制度の導入が、開かれた司法の実現に役立つはず… 原は、こんな風に考えていたのです。 三年後、東京駅でテロリストに襲われ、 原は不慮の死を遂げますが、志は引き継がれ、 大正十二年(1923年)、陪審制度の導入が決まりました。二村定一の歌う「アラビアの歌」。陪審制度のスタートした昭和三年(1928年)に、大ヒットしていた曲です。当時の新聞を見てみますと、「陪審裁判第一号」を巡り、大変なフィーバーが起きていたことがわかります。
全国的な陪審制度の第一号は大分の傷害事件でしたが、東京での第一号は、この年十二月に公判が行われた事件。被告は、保険金目当てに自宅に火をつけた…という疑いをかけられている二十一歳の女性でした。 陪審員に選ばれたのは、酒屋さん、こんにゃく屋さん、そば屋さん、干物屋さん、農業の方、会社員…などなど、さまざまな職業の男性ばかり十二人。当時の陪審員は、直接国税3円以上を納めている男性だけで構成されていたのです。法廷では、証人の警察官に指紋を採取できなかった理由を尋ね、「被告の陳述が秩序立っているのに反し、あまりに物足りない。もっと我々がナルホド、と頷けるように答弁できぬものか…」 と追及するなど、弁護士も真っ青の場面が見られたそうです。
三日間の審理の末、陪審員が導いた結論は「無罪」。ちなみにこの被告、大変な美人だったそうです!陪審裁判は、十五年で484件開かれましたが、年を追うごとに件数が減り、昭和十八年には停止されました。理由はいくつか考えられていますが、まず、陪審員の結論に拘束力がなかったこと。陪審員の結論が気に入らなければ、裁判官は何度でも裁判をやり直すことができたのです。また。被告は陪審裁判か一般裁判かを選べたのですが、陪審裁判の場合、結論が不服でも控訴できなかったことも、大きな理由の一つと考えられています。

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