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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

6月15日(月)〜6月19日(金)
今週は、「多摩ニュータウンの四十年」。
のんびりした田園風景が広がっていた多摩丘陵を切り開いて出現した近未来都市。
来年で、入居開始から四十年目を迎える多摩ニュータウンにまつわるエピソードをご紹介して参ります。

6月15日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「ニュータウン事始め」です。
東京の南西、多摩市を中心に、八王子、町田、そして稲城(いなぎ)、四つの市に広がっている日本最大のニュータウン、多摩ニュータウン。東西およそ14km、南北は広いところで4キロkm、面積にして2984ha…と申しますから、東京ドームにしておよそ638個分。現在はびっしりと建物が立ち並んでおりますが、以前は、のんびりした丘が連なっていたわけです。よくもこれだけの土地を開発したものだ、と驚かされます。小林旭さんのおなじみ「恋の山手線」。 多摩ニュータウンの建設は、この歌がヒットしていた 昭和三十九年(1964年)5月に、 東京都の「首脳部会議」で決定されました。 この新しい町が生まれた背景にあるのは、戦後の人口爆発。 長かった戦争が終わり、平和な時代が始まると、 堰を切ったようにベビーブームが訪れます。
現在では「団塊の世代」と呼ばれるこの年代の人々が、 社会に出て、それぞれの家庭を営む日が近づいていました。 高度経済成長による、地方からの人口流入も凄まじかった。 昭和三十年代、東京はいくらでも労働力を必要としており、 地方の中学を卒業したばかりの少年少女たちが、 集団就職列車に乗って続々と上京して参ります。 最初は会社の寮に住み込んでいても、やがて結婚、子どもができて家を買おう…という年代になってくる。とにかく、首都圏では、絶望的に住宅が足りなかった。二十三区内には、どんどん団地が作られましたが、それも焼け石に水といったところ。さらに差し迫った事情が、もう一つありました。
それは無秩序な開発を止めることです。昭和三十年代半ば、多摩丘陵にも宅地化の波が押し寄せつつありました。都市計画が定まらないうちに開発が進んでしまうと、道路や公共交通、生活環境などの整備がうまくいきません。また、自然災害への備えもおろそかになりがちです。東京都にとって、大規模なニュータウン建設は、避けては通れない重要な政策課題でした。こうした動きを不動産関係者も鋭く察知して、土地ブローカーなども暗躍を始めています。東京都首都整備局は、航空写真や地形図などを検討しつつ、極秘の現地調査も進め、現在のニュータウンの場所を絞り込んでいったのです。

6月16日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「ニュータウンむかしむかし」です。
明治維新の後、多摩地方の開発は、鉄道に沿って進んでいきました。 吉祥寺、三鷹、国分寺、立川、八王子…と、中央線沿いに 大きな町が出来上がっていったのです。 しかし、徳川家康が江戸にやってくるはるか昔… 縄文時代には多摩丘陵、現在のニュータウン周辺が、 多摩地方ではもっとも栄えた一帯だったのです。 もともとこの地域に遺跡が多いことはわかっていました。 東京ドーム600個分以上、広い広い地域の発掘調査は、 気の遠くなるような作業でしたが、 これをきちんとやらないことには、先へ進めません。 そこで、都と都の住宅供給公社、そして日本住宅公団は、 文化庁に相談し、任意団体「多摩ニュータウン遺跡調査会」を 発足させることになりました。 これが昭和四十年(1965年)9月のこと。 最初、開発地域の中の遺跡は243ヶ所でしたが、 工事が進むごとに次から次へと新発見が相次ぎます。 旧石器時代から近世に至るまで、 ニュータウンで発見された遺跡の数、実に964。 中でも多いのが、縄文時代の遺跡でした。
ニュータウンの遺跡の中でも、最大規模のものが、 八王子市堀之内にある「No・72遺跡」と呼ばれる場所。 京王堀之内駅から北へ、野猿街道を越えた、 堀之内芝原公園付近にあたります。 ここに人々が暮らしていたのは、およそ5千年前から 4千年前にかけての一千年弱の間。 開発前、まだ畑だったころから、歩くだけで土器のかけらに つまづいたという、想像を絶する大規模な遺跡で、 十三年に及ぶ発掘調査の結果、292の住居跡、 159の墓が見つかりました。 狩りに使うための巨大な落とし穴も発見されています。 この遺跡は、周囲の村よりも大規模で、おそらく地域の中でも もっとも重要な場所だったのでしょう。
なだらかな丘陵地で獲物も多く、木の実も多かった 多摩ニュータウンは、縄文人にとって最高の場所でした。 弥生時代に入り、水田での稲作が始まると、 人々は丘を降り、平野で暮らすようになります。 そして縄文遺跡は、二十世紀の終わりまで、 長い長い眠りに就くことになったのです。 ニュータウン全域の発掘調査で見つかった出土品、実にコンテナ4万箱。これらは、多摩センター駅近くの「東京都埋蔵文化財センター」に保管され、その一部はホールに展示され、見学することができます。

6月17日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「新しい町がやってくる」です。
聞こえております、加藤登紀子さんの「知床旅情」。 多摩ニュータウンへの入居が始まったのが、 この歌がヒットチャート1位に輝いていた、 昭和四十六年(1971年)3月26日のことでした。 新しい学校で新学年、新学期を迎える子どもたちが、 きちんと準備できるように…と、この日が選ばれたのです。 とにかく間に合わせなきゃ、ということで、 最低限のインフラだけは何とか整えましたが、 まだまだ未開発の地域が多く、道路の舗装も進行中。 新天地を夢見てやってきた人々は、土ぼこりの舞う、 まるで西部劇の舞台のような団地の姿を見て、 どんな感慨を覚えたのでしょうか。 それでも、まだ、引っ越してきた人々は、 できあがった真新しい住宅に住めばいいのですから、 ある意味、気楽です。 大変だったのは、三十万人以上にも及ぶ、 新しい人口を迎え入れることになる地元の自治体でした。 住民のほとんどが農業や林業を営んでいた、 のどかな田舎の村が、一転。
二十三区にも匹敵するような規模の 行政を行わなくてはならないわけです。 中でも深刻なのが、当時の「多摩町(たまちょう)」。 昭和四十三年当時の人口は2万2千人、 一般会計歳出予算が5億7千万円だったこの町に、 計画では、およそ4万世帯、15万人が移り住んでくる。 その頃の財政負担のルールのままで建設を始めると、 十年間で百億円の赤字が出て財政が破綻してしまいます。 切り詰めるところはできるだけ切り詰めるにしても、 厄介なのが、冒頭に触れた新しい学校の建設です。 子どもたちを待たせるわけにはいきません。 「ニュータウンを作るのはそっちが勝手に決めたことだ。義務教育にかかる費用はうちの財政能力を超えている。 なんとかしてくれないと、着工許可は出せない!」 ケツをまくっちゃったわけですね。
そこで日本住宅公団は、自分たちで学校施設を建設し、 自治体に貸し付ける…というとりあえずの妥協策が示され、 ようやく事態は解決へと向かいます。 昭和四十五年(1970年)4月、めでたく着工。 およそ一年後、現在の京王線・小田急線の永山駅南、 永山・諏訪地区を皮切りに、入居が始まったのです。 現地事務所の脇には「防虫 網戸取り付け」…という看板が見えている写真もあります。これが、夢のニュータウンの実態でありました。

6月18日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「田舎のバスはガタゴト走る」です。
高度成長に伴う住宅不足を解消するため計画された、 「多摩ニュータウン」。民間による虫食い上の乱開発を防ぎ、 きちんとインフラの整った町を提供しよう… という狙いもありました。 ところが、昭和四十六年、入居が始まったばかりの町は、 それどころではありません。まだまだ開発真っ最中。広大な空き地で遊び回れる子どもはいいとしても、 生活基盤がきちんとしていない町に住まなければならない、 オトナにとっては大変なことが多かった。 新学期に間に合わせるはずだった学校のオープンも、 中学校は工事が遅れて7月に開校しています。 近くに大きな病院もなく、突然病気になったら…という不安も、 切実な問題でした。
公共交通の便も、寒々としたものです。 電車が来なければ、人は住みません。 でも、人が住んでいないところに線路を通すのは、 鉄道会社としては、できない相談です。 また、運行を始めたとしても混むのは朝の上りと夕方の下り。 反対方向の電車は、ほとんど空気を運ぶだけになります。 建設に必要なお金やその後の赤字を、誰がどう負担するのか… 長い長い交渉が続きます。小田急線と京王線が、 相次いで開通したのは、入居開始三年後の昭和四十九年。 それまで、ニュータウン住民の、唯一の足となったのが、 バスでした。
昭和四十六年、入居が始まった直後は、 まだまだ道路工事の真っ最中。 昔ながらの細い「鎌倉街道」を利用せざるを得ず、 ニュータウン内は舗装されていない部分も多かったので、 バスはガタゴト揺れます。 諏訪、永山地区から当時の最寄り駅である京王線、 聖蹟桜ヶ丘駅までは、およそ4キロの道のり。 もちろん朝夕のラッシュ時は、超満員です。 しかも、当時、京王線は高架になっていなかったため、 踏み切り待ちの大渋滞が待ち受けておりまして、 所要時間、およそ40分だったと申します。 体を動かす余地のないバスで40分、 しかも道路は絶望的に動かない。当時の新聞は、この実情を報じ「絶望的」と表現しています。本当に、ご同情申し上げます。

6月19日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「懐かしい多摩の記憶」です。
上々颱風の「いつでも誰かが」。 平成六年(1994年)スタジオジブリ制作、高畑 勲(たかはた いさお)監督の 長編アニメーション「平成狸合戦 ぽんぽこ」の主題歌です。 声の出演を見ると、今は亡き古今亭志ん朝師匠、 先代の小さん師匠、三木のり平さん…懐かしい名前が並びます。 ご存知の方も多いでしょうが、この「平成狸合戦ぽんぽこ」、 舞台になっているのが「多摩ニュータウン」です。 高度経済成長時代、美しい自然の地形をズタズタに壊し、 住宅地の造成を進めていく人間たちに対し、 狸たちがレジスタンスを試みるというお話です。 この映画を見た、古くから地元に暮らす人々は、 懐かしい風景があまりにもリアルに再現されているので、 思わず息を呑みました。 懐かしさのあまり、涙を流す人もいたそうです。 開発前の多摩丘陵がどれほど美しい場所だったのか、 いま、それを知るには、この映画を見るのがベスト。「となりのトトロ」を始め、ジブリ作品の多くで 背景美術を担当した男鹿和雄(おが・かずお)さんにとっても、 この「平成狸合戦ぽんぽこ」が、 もっとも思い入れのある作品なんだそうです。
造成中の多摩ニュータウン周辺は、 「ウルトラマン」など特撮モノにとっても、 欠かすことのできないロケ現場でした。 都内から比較的近い上、だだっ広い野原が広がっている。 ロケ地に困ったら、あそこへ行こう…というわけです。 中でもしばしば使われたのが「仮面ライダー」シリーズ。 ライダーが改造人間たちと死闘を繰り広げていたのは、 「平成狸合戦 ぽんぽこ」で描かれていたのと、 ほぼ同じ時期の出来事だったんですね。
開発が一段落した後、1980年代のニュータウンは、 一転して「おしゃれな新興住宅地」としてロケに使われます。 代表的なのが、1983年(昭和58年)制作の「金曜日の妻たちへ」です。今聞こえております、ピーター・ポール&マリーの「風に吹かれて」が主題歌。 中年に差し掛かった夫婦たちの姿を描く群像劇で、 「不倫」という言葉がここから流行ったものでした。 のどかな田園風景が荒涼とした原野へ、 さらにオシャレな住宅地へと変化し、 現在は高齢化が問題となりつつある「多摩ニュータウン」。 この先、どんな風に、その姿を変えていくのでしょう…?

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