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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

7月13日(月)〜7月17日(金)
今週は、「夏だウナギだスタミナだ!」。こんどの日曜日、7月19日は「土用の丑の日」。毎年恒例、ウナギ受難の日を前に、大昔から日本人に愛されてきたこの美味なる魚をクローズアップして参ります。

7月13日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「うなぎの正体発見!」。
いよいよ、夏・本番。体力を消耗しがちなこの季節、スタミナ食といえば、やっぱり「うなぎ」ですよね。この季節、牛丼チェーンでも「うな丼」がメニューになるほど、ポピュラーな「うなぎ」。ところが、この魚の一生については、まだまだ謎が多いんです。いったい、どこで卵を産み、どうやって育つのか?誰もうなぎの卵を見たことがない。それどころか、うなぎの交尾さえ目撃されたことはない。そこで、出てきたのが「うなぎ=山芋説」だったのです。川のうなぎ、陸の山芋。どちらも「ぬめり」を帯びた、パワフルな食べ物です。
江戸時代の人々は、山芋がある程度の年齢になると、形を変えて「うなぎ」になる…と考えたのでした。そういえば、どちらも、円筒形をして、長さも手ごろです。この説、半ば本気に信じられていたようで、さまざまなエピソードが伝えられているんです。たとえば、こんな話。江戸に住む甚六という男が、故郷の遠江、現在の静岡県に里帰りしました。すると、イカダ乗りの男が慌しく駆け込んできて「大井川の川上で、山芋が半分鰻に化けかかって、岩の間から首を出して泳いでいるから早く行ってみな」という。
これは面白い、というので、甚六が出かけると、果たして半分芋、半分鰻の生き物が動いている。これは江戸にもっていけば見世物で大儲けだ! と甚六、山芋鰻を岩ごと切り取って江戸に送ります。ところが、江戸までの道中で、水が足りなくなったせいか、荷物を開けてみると山芋鰻は元の山芋に戻ってしまっていた。高い早飛脚の料金を支払った甚六は大ショック!…というお話です。江戸時代には、学者でも、この鰻=山芋説を信じていた人が多いようで、いかに鰻の生態が不思議がられていたかがわかります。鰻は、日本の川や河口付近で5年から10年ほど暮らし、ある程度の大きさになると海へ下り、産卵して一生を終えます。鰻の産卵場は、東京大学海洋研究所の調査船、白鳳(はくほう)丸の長年に渡る調査により、マリアナ諸島の西側付近であることが突き止められました。
去年の調査では、成熟した親ウナギの捕獲に成功。産卵場の特定まで、あと一歩というところです。初夏に生まれた鰻の稚魚は、半年ほどかけて日本に到着。養殖鰻は、この、長旅を終えたばかりの稚魚を捕まえて、育て上げられたものなのです。ちなみに日本の鰻養殖、発祥の地は、東京・深川。いま東京都現代美術館のある場所の北側あたりに、2haもの広い広い養殖池をこしらえて、明治十二年(1879年)から行われていました。

7月14日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「蒲焼って何?」。
鰻は、江戸時代からスタミナ食として親しまれており、落語の中にもたくさん、登場して参ります。いまお聞きいただいている「後生鰻」も、その一つ。鰻屋さんが鰻を裂こうとしていると、ご隠居が通りかかって、「私の目の前で殺生はやめておくれ」と、買い取って、川へ逃がしてやった。これに味をしめた鰻屋さん、ご隠居が通りかかるたびに生き物を殺そうとして、小遣い稼ぎをする…という荒っぽいお話です。さて、現在の私たちにとって、鰻のポピュラーな食べ方は、「蒲焼」。裂いた鰻に串を打ち、白焼きにした後、蒸して、さらにタレをつけて焼き上げる。大変手の込んだ、おいしい料理法ですが、さて、「蒲焼」の名前の由来。皆様、ご存知でしょうか。実は、これ、本当のところはわかっていないのですが、有力なものとして考えられているのが、「鰻一本焼き」説。
現在、鰻は裂いてから料理するのが当たり前ですが、その昔は、技術が発達していなかったこともあり、鰻の口からお尻まで、一本の太い串を通して焼いていた。この姿が「蒲(ガマ)の穂」に似ていたことから、蒲(ガマ)焼といわれるようになり、それが転じて、「蒲焼」となった。後に、現在のように鰻を裂いて、身を平たくした後、焼き上げるようになっても、昔の名前で呼ばれ続けている、…というわけです。こうした調理法が一般的になったのは、江戸時代の半ば、十八世紀の始め頃、およそ二百年前のこと。もっとも最初は、味噌や塩、酢などで味をつけていたそうです。「串打ち三年、裂き五年、焼き一生」という言葉があります。鰻を料理するのが、どんなに難しいかが、よくわかります。こうした鰻職人の技術が洗練されてきたのが、十八世紀の半ば。時を同じくして、醤油や、みりんといった調味料が出回るようになって、おなじみの蒲焼が生まれたのです。
鰻のタレ、基本は、醤油とみりん。このどちらかが欠けても、あの絶妙な味は出せません。みりんは、もともとお酒の一種で、江戸の始め頃は、濁っているのが普通でした。ところが、江戸時代の半ば、現在の千葉県、流山で澄んだみりんが醸造されるようになり、「これは便利だ」「しかも旨い!」と、調味料として重宝されるようになったのです。当時から残る流山のみりんに「万上」があります。現在はキッコーマンのブランドとしておなじみですね。

7月15日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「元祖江戸前」。
おなじみの落語「素人鰻」。明治維新で仕事がなくなり、昔なじみの鰻職人の勧めで、鰻屋を始めることになったお侍さん。この職人の金さんが、お酒を飲むと人が変わってしまい、とうとう店を飛び出したまま戻ってこない。仕方がないので、お侍さんが鰻を料理することになる、珍妙なエピソードが描かれております。鰻ほど、素人の手にはおえない、難しい食材はない…ということがよくわかるお話でございます。さて、現在、私たちが食べております鰻。ほぼ100%が、養殖モノです。先日もお話いたしましたが、鰻養殖が始まったのは、明治になってからのことですから、江戸時代に食べられていた鰻は、すべて天然モノということになります。
当時の鰻は「江戸前」…つまり、江戸の前、大川や多摩川の河口付近で取れたものが一番とされていました。現在では「江戸前」といえば、まず寿司を思い浮かべます。ところが、江戸の昔は、「江戸前」といえば、まず鰻を指す言葉だった…こんな説もあるほどで、それ以外の、たとえば利根川でとれた鰻などは、「旅うなぎ」として、一段低く見られていたようです。安永三年(1774年)、風来山人こと平賀源内は、その著書「里のおだ巻(さとのおだまき)」の中で、「吉原へ行く、岡場所へ行くも、みなそれぞれの因縁づく。よきもあり、悪いもあり。江戸前鰻と旅鰻ほど、旨味も違わず」と、書いていらっしゃいます。
吉原であろうと、その他の非公認の岡場所であろうと、女性はそんなに変わるものではないけれど、鰻に限って言えば、江戸前と旅鰻では大違い…まあ、こんなニュアンスになりますでしょうか。それでも、江戸の市内で、地方から運ばれた鰻も、ごく普通に食べられていたであろうことがわかります。鰻は、縄張りを持っていますから、ほかの魚と違い、網を打って一度に何百匹も捕れるということはありません。どうしても一匹ずつ、手間をかけて取らなければならない。大都市である江戸の胃袋を満たすためには、「旅鰻」も使わざるを得なかったという面があるようですね。実に美味しそうな鰻の焼ける音が聞こえて参りました。土用の丑の日には少し早いですが、今日のお昼、ちょっとゼイタクしちゃいましょうかねえ。

7月16日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「うなぎを愛した男」。
夏バテには、「うなぎ」。かの大伴家持も、万葉集で、「石麻呂(いしまろ)に 吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻(むなぎ)とり食(め)せ」と、スタミナ食 鰻の効用を説いていらっしゃいます。きっとご本人も、鰻、大好きだったんでしょうねえ。でも、万葉集の時代には、現在の蒲焼はなかったわけで、ま、ご同情申し上げます。苦手な方には申し訳ありませんが、鰻。あれほどの美味でございますから、我々庶民に限らず、古来、数多くの著名人、文化人の皆様方も、鰻を大変、お好みだったようでございます。昭和天皇も、鰻をたいそうお好みだったそうで、中でも年に一、二回、京都から届く茶漬け用の鰻がお気に入り。ごく普通のご飯茶碗に、細く切った鰻を載せて、熱い煎茶を注いで、召し上がられていたそうです。
さて、鰻大好き文化人ということになると、いの一番に名前が挙がるのが、斎藤茂吉。アララギ派を代表する歌人であり、文化勲章受章者、医師としても名高い茂吉ですが、とにかく鰻が好きで好きでたまらない。週に一度は鰻を楽しみ、絶頂期の昭和十六年(1941年)は、年間九十六回を数えたというほどでございます。アララギに掲載する歌を選ぶとき、弟子が沢山訪れて、人数分の鰻を誂えます。すると、奥様が、全部重箱のフタをとって中身を改め、一番大きいものを、茂吉先生のところに持っていく。
しかし先生「本当にこれが一番か。ちゃんと確かめたか」と、もう一度、全部のフタを取って見比べて、自分のものが一番だと確認してようやく落ち着いたとか。また、長男、茂太(しげた)さんの婚約が整い、両家の顔合わせが築地の竹葉亭で行われたときのこと。婚約者の美智子さんが緊張のあまり、箸をつけないでいると、「それ、私に頂戴」と手を伸ばし、取り上げると、パクパクパクとあっという間に平らげてしまった、とか。戦争中、疎開先で講演を頼まれたとき、丁重に断ったのを、謝礼にうなぎが出ると聞いた途端、態度を豹変、「それが本当ならやるっす」と、十五分の約束のところ、四十五分もしゃべった…など、鰻を巡るエピソードには事欠きません。もちろん、鰻を歌った歌もたくさんあります。最後に一つ、ご紹介しましょう。「夕暮れし机の前に一人おりて 鰻を食うは楽しかりけり」

7月17日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「世紀の大発明・うな丼」。
お聞きいただいております落語、「鰻の幇間(たいこ)」。季節は夏の真っ盛り。売れないタイコもちの男が、昔どこかで見た旦那に声をかけ、鰻をゴチソウになろうとして、かえってひどい目に遭わされる…という面白くてやがて哀しいお話でございます。夏場、鰻を食べてスタミナをつけようという発想が一般的になったのは、「土用の丑の日に鰻を食べる」という習慣が定着した、江戸時代の中ごろ。丑の日の言いだしっぺは誰なのか、太田蜀山人説あり、平賀源内説あり、諸説入り乱れておりますが、一つ、面白い話をご紹介しておきましょう。
大正の中ごろといいますから、およそ九十年ほど昔。その時も「土用の丑の日の起こり」について論争がおこった。すると、とある上品な老婦人が名乗り出て、「丑の日の鰻を始めたのは、私の先祖でございます」という。この方の家は、かつて岩本町あたりで「春木屋」という鰻屋さんを営んでいました。あるとき、秋田藩のお殿様から注文が来ましたが、季節は真夏。どうすればいいかと悩みます。そこで、こんな実験を思いつきます。鰻を徹底的に吟味した上、土用の子の日、丑の日、寅の日の三日間蒲焼を作って、それぞれ七日の間、地面の中に埋めてみたのです。すると、子の日、寅の日の蒲焼は傷んでいましたが、丑の日のものは変わらず美味しく食べられた。これは、何かの霊験があるに違いない。ということで、春木屋ではお屋敷には丑の日の蒲焼を納めることになり、評判を聞きつけた客も押し寄せ始める。と、いうお話。実際、当時の資料にも、「丑の日元祖春木屋」との記述があるそうです。
さて、かつて江戸の鰻屋さんでは、蒲焼を売るだけで、ご飯は一緒に出さず、食べたい人は持参する必要がありました。我々からすると信じられない話ですが、「うな丼」は、蒲焼より、ずいぶん遅れて発明されたようです。で、発明した方のお名前もわかっておりまして、現在の人形町あたりに住んでいたお芝居の金主…まあ今で言えば演劇プロデューサーと申しましょうか、大久保今助さんという方がいらっしゃった。この方、大変な鰻好きで、毎日劇場に取り寄せていましたが、どうも食べる時分には冷めてしまっているのが面白くない。暖めた糠に挟んで持ち運ぶ方法もありましたが、これだと糠を取り除くのがとってもメンドクサかった。あれこれ考えた末、「そうだ、アツアツのご飯に挟めばいい」。丼飯の真ん中に鰻を入れてみたら、暖かさが保たれ、しかも味が染み込んで抜群に旨い。よし、コレだ! と、言うことになり、今助が当時、大変な有名人だったことから、江戸中に広まっていった…というわけです。

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