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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

8月3日(月)〜8月7日(金)
今週は、「東京の高校野球 名選手・名勝負」。
全国高等学校野球選手権大会、夏の甲子園の開幕を控え、かつて東京で活躍した球児たちの
エピソードや、語り継がれる伝説の名勝負をご紹介しています。

8月3日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「小学生がベンチ入り!?」。
伝家の宝刀、フォークボール。日本人メジャーリーガーの先駆けとなった野茂英雄投手や、大魔神・佐々木主浩投手の決め球としておなじみですね。しかし、オールドファンの皆様にとって、フォークボールといえば「杉下茂」…この名前が浮かんでくるのではないでしょうか。大正十四年生まれ、戦後、中日で大活躍した杉下選手ですが、実は神田育ち、チャキチャキの江戸っ子なんです。小学校は錦華小学校で夏目漱石の後輩。ここから一ツ橋高等小学校へ進み、野球部で活躍します。高等小学校というのは、現在の中学一、二年にあたりますが、杉下選手は当時から170センチを超える長身。そのプレーはかなり目立っていたようです。活躍ぶりに目をつけた帝京商業、現在の帝京高校が、「うちに来ないか」と声をかけ、転校することになります。
昭和十四年(1939年)、夏。帝京商業は、第25回全国中等学校優勝野球大会…現在の夏の甲子園、高校野球の東京大会に参加。一年生の杉下選手はベンチには入ったものの、出場せず。帝京商業は準決勝で早稲田実業を9対1、そして決勝で日大三中を9対6で破り、甲子園への切符を勝ち取ったのです。ところが、ここで問題が起きました。決勝を戦った日大三中が、「帝京商業は、選手資格のない高等小学校の生徒をベンチ入りさせていた」と、連盟に訴え出たのです。実は、一橋高等小学校が、帝京商業に、「ウチの選手を引き抜かれては困る」と文句を言ってきた。そこで両校が話し合い、杉下選手は、高等小学校の大会がある一学期の間だけ、もとの学校に戻ることで、カタがつきました。大人の事情など何もわからない杉下少年は、帝京の先生に言われるまま、高等小学校の大会に出場。夏の大会の前に、無事に帝京商業に合流したのですが、どうやら高等小学校の大会に出ていたのを、日大三中の選手が目撃していたようでした。
結局、帝京商業は出場辞退、違反ではないかと訴え出た準優勝の日大三中もまた、資格違反選手がいたことで辞退。最終的には準決勝で帝京に敗れた早稲田実業が、甲子園に十四回目の出場を果たすことになりました。翌年、杉下選手は体を壊して東京大会に出場できず。そして三年生になった昭和十六年(1941年)には、一塁手として活躍し、見事に東京大会で優勝を飾りますが、戦争が激しくなったことで全国大会は中止。結局、杉下選手は甲子園の土を踏むことができませんでした。この年、十二月八日、日本はアメリカとの戦争を始めます。

8月4日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「逃げて行った最後の甲子園」。
テレビ漫画「巨人の星」。主人公、星飛雄馬は、高校時代、甲子園での準決勝戦で手を負傷。決勝ではそのケガを隠しながらマウンドに上がり、血染めのボールを宿命のライバル・花形に向かって投げ、サヨナラホームランを打たれてしまいます。さて、皆様。実際に、甲子園の決勝戦で「血染めのボール」を投げながらも、見事に優勝を遂げた東京出身のピッチャーがいることを、ご存知でしょうか。その人の名は、王貞治。あの「世界のサダハル・オー」でございます。昭和三十二年(1957年)春の甲子園、選抜大会。王選手は新2年生ながらエースとして活躍。2回戦、準々決勝、準決勝と三連続完封の離れ業を見せますが、実際は青息吐息。大会前、そして大会中と、手に出来たマメが立て続けに潰れ、痛みと戦いながらの投球だったのです。中でも準決勝の久留米商業戦では初球から出血して、激痛の中での見事なシャットアウト。後に「かえって力まなかったのがよかったのでは…」と、ご本人が語っていらっしゃいましたが、それでも凄まじい精神力であることは間違いありません。決勝では高知商業を5対3で下し、見事に優勝。紫紺の大優勝旗を、初めて関東の地にもたらしたのです。
王選手は2年生になったばかり。甲子園へのチャンスは、あと4回残されています。どれほど凄まじい記録を残すか、当時の野球ファンはドキドキしながら見守っておりました。ところが。この年の夏は、準々決勝で法政二高に敗退。三年生の春も準々決勝で済々黌に敗れ、いよいよ最後の夏を残すだけとなってしまったのです。美空ひばりさんの「花笠道中」がヒットしていた、昭和三十三年(1958年)の夏。早稲田実業は東京大会に出場し、順調に勝ち進んで、神宮球場で行われた決勝へコマを進めます。対戦相手は、当時の強豪、明治高校でした。かつてない2万という大観衆を集めた大一番は、息詰まる投手戦となり、延長戦に突入します。
12回表、早実は相手の疲れから一挙4点をもぎ取ります。マウンドに向かう王投手の目には、甲子園が見えていました。粘る明治はワンアウト後、ヒットを打ってランナーが出塁。続くバッターはセカンドゴロ、併殺でゲームセット!…と思いきや、焦った二塁手がエラーで一死、一・二塁。動揺した王投手はさらにヒットを打たれ満塁、四球で押し出し。二番手投手の河原田(かわらだ)がリリーフするも、走者一掃の三塁打を浴び同点。再び王がマウンドに戻りますが、もはや敵に傾いた流れはどうしようもありませんでした。四番打者に左中間二塁打を浴び、無常のゲームセット。王投手の高校野球は、神宮球場で幕を閉じました。

8月5日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「東京VS東京」。
昭和三十二年(1957年)、王投手を擁した早稲田実業が東京に紫紺の優勝旗をもたらしてから十四年後。昭和四十六年(1971年)の選抜で、戦前からの名門、日大三高が東京勢として十四年ぶりの全国優勝を遂げます。そして、翌昭和四十七年(1972年)。前年の優勝メンバーが6人残った日大三高は、連覇をかけて選抜に出場。そして東京からはもう一校、兄弟校である日大桜丘が、甲子園への切符を手にしていました。さて、日大三高は、全国でも名を知られた古豪です。対する桜丘は同じ日大系列でも昭和三十四年(1959年)創立の新興勢力。三高はいい所まで行くが、桜丘はどうかな…これが大方の高校野球ファンの見立てでした。ところが、桜丘にはとんでもない大物投手が控えていたのです。
ボーイング747、ジャンボジェット。このとてつもない大きさの飛行機が日本にお目見えしたのが昭和四十五年(1970年)。当時、スケールの大きな人物に対して、「ジャンボ」というニックネームをつけるのが流行しまして、もっとも有名な例で言いますとプロゴルフの尾崎将司選手。そして、高校野球では、日大桜丘の仲根正広投手に、この仰々しい呼び名が与えられることになったのです。身長191センチは、もちろん、当時、図抜けた大きさ。上手からの速球の威力は凄まじく、正にジャンボ。甲子園でも対戦相手を翻弄し、松江商業、高知商業、そして東北を、いずれも接戦の末に下しています。一方の三高も戸畑、専大北上、諫早に貫録勝ち、こちらは順当に決勝にコマを進めてきました。史上稀に見る同じ都道府県同士、しかも兄弟校の対決。何も甲子園ではなく神宮でやれば良さそうなものですがそうも参りません。仲根投手は、連投の疲れからヒジの調子が悪く、普段から手の内を知り尽くしている三高ナインは、「もらった!」と試合前から思っていたそうです。
ところが、仲根投手は、普段とは違う、コースを狙う丁寧なピッチングで三高打線を戸惑わせます。なかなかランナーを出せないうち、一方の桜丘は着々と加点。結局5対0という一方的なスコアで、日大桜丘が、大方の予想を覆す見事な初優勝を遂げたのでした。仲根投手はその年、ドラフト1位で近鉄に入団します。しかし腕の故障続きで後に打者に転向し、昭和六十三年(1988年)に引退。平成七年(1995年)、夏の甲子園真っ最中の8月15日、肺がんのため、四十歳の若さでこの世を去っています。

8月6日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「六十年ぶりの大旗」。
全国高等学校野球選手権大会、夏の甲子園。東京代表は、大正五年(1916年)、慶應普通部が市岡中学を下して優勝以来、長く深紅の大優勝旗から遠ざかっていました。もっとも慶應普通部の時は、まだ甲子園が完成前で、豊中球場での開催。「夏の甲子園」での東京勢の優勝は、昭和五十一年(1976年)まで、待たなければならなかったのです。おい輝彦さんの歌う「あなただけを」。この曲がヒットしていたころ始まった、第58回の選手権大会。「怪物」と謳われた長崎・海星のサッシー・酒井圭一投手、剛速球を投げ込む星稜の小松辰雄投手、豊見城の赤嶺賢勇投手、崇徳の山崎隆造選手、そして東海大相模には現・巨人軍監督の原辰徳選手。史上稀に見る豊作といわれ、ドラフト候補目白押しの中、決勝に勝ち上がってきたのは、ダークホースと見られていた二つの高校でした。大阪代表、PL学園、そして西東京代表、桜美林。
奇しくも六十年前と同じく、東京・大阪の東西決戦となったのです。桜美林は、それまで選抜に2度、出場経験がありましたが、いずれも初戦敗退。甲子園はまだ0勝のチームでした。しかし、2回戦でまず日大山形を下すと、チームは波に乗り、3回戦で市神港、準々決勝で宇野勝選手のいた銚子商業を下し、準決勝では小松を打ち崩して4対1で見事な勝利。堂々の決勝進出でした。対するPL学園は、この大会こそ、本命とは見られていませんでしたが、決勝進出は二度目。準決勝では長崎海星・酒井に5安打に抑えられながらも延長十一回、3対2と競り勝つ試合巧者でもあり、桜美林はやや不利かと思われていました。一回裏、桜美林が1点を先取しますが、四回表、PLはエラーも絡んで3点を挙げ逆転。中盤は両方とも得点なく、手に汗握る好ゲームとなりました。
このままPLが押し切るかと思われた七回裏、代打の菊地太陽が二塁打を放ち、ここから2点を取って同点。試合は振り出しに戻り、その後両チームとも決め手を欠き、延長戦に突入します。十一回裏。先頭バッターがヒットで出塁、続くバッターは七回に同点のきっかけとなる二塁打を打った、菊地太陽選手。初球はバントのサインでしたが、ボール。そして2球目。サインがヒッティングに変わります。インコースのストレートを強振すると、打球はグングン伸びてレフトのフェンスを直撃、一塁ランナーが一気に三塁を蹴ってホームイン、サヨナラ!六十年ぶりに、深紅の大優勝旗が東京にもたらされました。桜美林のエース、松本投手は明大に進学して活躍し、後に埼玉栄高校、千葉経大付属の監督として甲子園に出場。長男の啓二郎選手は去年、ドラフト1位で横浜ベイスターズに指名され、今年の開幕スタメンに名を連ねました。

8月7日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「アイドル決戦、そして…」。
西武新宿線、武蔵関駅から北へ、早足で歩いておよそ十分。マンションの南側にある児童公園に、小さな石碑があります。「早実グラウンド跡記念碑」この場所に、王貞治を初めとする、かつての名選手たちが汗を流した、早稲田実業のグラウンドがあったのです。今でこそ静かな住宅街になっている武蔵関あたりですが、昭和三十年代、回りは畑ばかり。フェンスがなかったため、王選手の打球は畑を越えて遠くのバス通りまで飛んで行った。あまりの勢いに、打撃練習でファーストやセカンドを守る選手たちは恐れをなしたといいます。当時から打球はほとんど右側に飛んでいたんですね!荒木大輔選手も、この武蔵関グラウンドで鍛えられた一人。調布リトルで世界制覇という輝かしい実績を引っさげ、早実に入学した荒木少年は、めきめき頭角を現します。この年のエースは2年生の芳賀誠投手でしたが、東・東京大会の準々決勝を前にケガでリタイア。そこで一年生・荒木がスクランブル登板することになり、岩倉、帝京、そして二松学舎という強豪を次々に撃破、勇躍、甲子園へと乗り込むことになります。
長淵剛「順子」が大ヒットしていた昭和五十五年(1980年)の夏。端正なマスクの荒木投手は、たちまち大フィーバーを巻き起こします。人気だけでなく、成績も凄まじかった。先輩の芳賀投手に継投した2回戦の東宇治戦以外、1回戦の北陽、3回戦の札幌商、準々決勝の興南、そして準決勝の瀬田工業、すべてに完封勝利。全国制覇へと期待が高まります。決勝の相手は、横浜。主戦投手は2年前、やはり1年生エースとして人気者となり、満を持して甲子園に戻ってきた愛甲猛投手でした。1回表、早実は幸先よく1点を先取しますが、その裏から荒木は打ち込まれ、3回まで5失点。4回からは芳賀投手のリリーフを仰ぐことになりました。
早実は中盤追い上げましたが、結局6対4で横浜が優勝。それでも荒木にはあと4回、甲子園優勝のチャンスがある。誰もがそう思いました。そして早実はその後、春夏合わせ4回、ファンの願い通りに甲子園へと駒を進めました。しかし荒木の成績はこの1年の夏の準優勝が最高。最後のチャンスだった3年の夏は、準々決勝の池田戦で、水野雄仁選手の2本塁打など「山びこ打線」のめった打ちに遭い、14対2で敗れています。池田はこの年、全国制覇。早稲田実業は、およそ四半世紀のち平成十八年(2006年)、駒大苫小牧との激闘の末、ようやく夏の甲子園で優勝します。エースは「ハンカチ王子」斎藤佑樹投手でした。いよいよ明日から今年の選手権大会が始まります。どんなドラマが待っているのか、熱戦を期待したいと思います。

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