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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

8月24日(月)〜8月28日(金)
今週は、「文明開化美女列伝」。明治時代、文明開化の世を騒がせた、
すこぶるつきのイイ女をご紹介して参ります。

8月24日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日登場の美女は「陸奥亮子」。
歴史の陰に、女あり。 英雄、色を好むとの言葉もございますが、 明治維新に活躍した元勲たちの影には、 必ずと言っていいほど、美女が存在したのであります。 幕末の頃、坂本竜馬の同志として行動を共にし、 後に新政府で数々の重要な役割を演じた、 陸奥宗光(むつ・むねみつ)。この方の二番目の夫人、 陸奥亮子など、その典型と言えるでしょう。 明治を代表する美女の一人と呼ばれる陸奥亮子ですが、 生まれは安政三年(1856年)。 没落士族の娘として生まれ、明治の始め頃に、 「小鈴」という名前で、新橋の芸者さんとなります。 「小鈴って子、見たかい?」 「ああ、思わず生ツバ飲みこんじゃったね」…と、 あっという間にその美貌は知れ渡り、売れっ子となります。 しかし身持ちが固いことでも有名、 なんとかあのコを口説きたい…と、政財界のお歴々が 日参したそうですが、どうにもならない。 「ありゃ男嫌いらしいね」と、評判になります。 しかし、そんな小鈴姉さんにも、実は思う人がいた。 それが、若くハンサムな外交官・陸奥宗光でした。
二人が出会った当時、宗光は最初の妻を亡くしたばかり。 恋が燃え上がるのに、時間はかかりませんでした。 二人は、明治五年(1872年)に結婚します。 亮子は、まだ僅か十六歳になったばかりの幼な妻でした。 当時日本に駐在していたイギリスの外交官、 アーネスト・サトウは、亮子について、 「陸奥の二度目の夫人、若くて大変な美人、 涼しい眼と素晴らしい眉」と書き残しています。 明治十一年(1878年)、宗光は反政府運動に加担した罪で、 禁固五年の刑に処せられ、山形の監獄に送られます。 亮子には獄中からたくさんのラヴレターが届きました。 中の一通に書かれた漢詩をご紹介しましょう。 「離合は常理といえども 相思の情に何ぞ極まりあらん 南北ふたつながらに地を異にするも 夫婦この心は同じ」 明治十五年、晴れて出所した宗光は、再び政府に出仕します。 折から、鹿鳴館がオープンしたばかり。
亮子はその美貌と優雅な振舞で、たちまち人気者となりました。 明治二十一年(1888年)には、駐米公使となった宗光に 付き従い、アメリカに渡ります。 そして現地では「ワシントン社交界の華」と謳われ、 各国外交官のゆるぎない信頼を得ることになりました。 美貌はもちろん、人柄、そして巧みな話術が 現地の人々の心を虜にしたとのこと。 あるいは芸者時代に培ったサービス精神が、 ここで大いに発揮されたのかもしれません。 後に宗光は、イギリスとの間で不平等条約の改正に成功、 治外法権の撤廃という大事業を成し遂げますが、 その陰には、美しき夫人、亮子の存在があったのです。

8月25日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日登場の美女は「マダム貞奴」。
日本人の女優、第一号として歴史にその名を残す川上貞奴。 生まれたのは明治四年(1871年)。 貞奴、本名・貞は、下町の商家の末娘として生まれましたが、 家が没落。日本橋葭町の置屋、浜田屋の養女となって、 十四歳のとき「奴」を襲名、お座敷に出ます。 この「奴」というのは、葭町でも大変大きな名前で、 ちょっとやそっとの娘ではとても名乗れないもの。 少女・貞が、どれほど将来を嘱望されていたかがわかります。 そんな彼女のバックについたのが、時の首相・伊藤博文。
お貞さん、もう怖いものなしで馬を乗り回したり、 ギャンブルに熱中したり、白昼堂々隅田川で泳いだり。 大変、やんちゃなお姉さんだったというわけです。 そんな彼女が、本気で恋に落ちた相手というのが、 近代演劇の創始者として名高い川上音二郎でした。 明治二十七年(1894年)、貞は芸者をやめて結婚します。 しかし、その後の音二郎はご難続き。 自分たちの劇場を作ろうとして失敗し、 次に政治家を志して選挙に出るものの、見事に落選。 二人にとって試練の時が訪れます。しかし、ここで音二郎は、 さらに凄まじいアイディアを考え付いたのです。 音二郎のアイディアとは、日本演劇初の海外公演。 貞を「貞奴」と改名させて看板女優に仕立て上げ、 さらに一座を組んでアメリカへと渡ったのです。 音二郎のこの賭けは、吉と出ました。 貞奴の妖艶な魅力は、欧米人をも虜にしたのです。 アメリカ公演の大成功に「これはイケるぞ!」と、 ノリにノッた川上音二郎一座は、さらにヨーロッパへと 足を伸ばし、明治三十三年(1900年)のパリ万博に登場。 貞奴はアンドレ・ジッド、ピカソ、ロダン…といった 名だたる芸術家たちを魅了しました。 そして時の大統領が主催する園遊会に招待され、 踊りを披露すると、拍手喝采の嵐、また、嵐。 彼女は「マダム貞奴」という異名で呼ばれるようになります。 そしてゲランが「ヤッコ」という香水を発表したり、 着物風のドレスが「ヤッコドレス」として大流行するなど、 20世紀の曙を迎えようとしていた花の都に、 一大センセーションを巻き起こしたのでありました。
貞奴は参加しておりませんが、音二郎一座のメンバーが、 パリで遺した録音があります。 明治四十四年(1911年)に音二郎が亡くなると、 貞奴も女優からの引退を決意します。 しかし、まだまだ四十代の女ざかり。 この後、貞奴は、福沢諭吉の娘婿、桃介(ももすけ)と 恋に落ち、生涯、添い遂げることになったのです。 二人が暮らした名古屋の家は「二葉御殿」と呼ばれました。 現在は近くに移築・復元され、 「文化のみち・二葉館」として一般公開。 貞奴の生涯を辿る展示を見ることができます。

8月26日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日登場の美女は「桂さんのお鯉さん」。 「桂さんのお鯉さん」。
この女性、安藤照子という立派な名前があるのですが、 それよりは「桂さんのお鯉さん」、 あるいは、ただ単に「お鯉」といったほうが、 通りがよかったんだそうです。 「桂さん」というのは、明治から大正にかけて、 三回、総理大臣を務めた桂太郎のこと。 桂首相には、ちゃんと奥様がいらっしゃいましたが、 この麗しき美女、お鯉さんのほうが、ずっとお好きだった。 首相官邸には、彼女のための部屋がきちんと作られて、 病弱だった奥様に代わって、かいがいしく首相の世話を 焼いていたと申します。明治ならではのエピソードですね。 お鯉さん、本名・安藤照子さんは、 明治十三年(1880年)、東京・四谷の漆問屋に生まれます。
家業が傾いて、夜の世界に身を投じる…という、 お決まりのパターンで、十四歳で新橋の芸者としてデビュー。 そこで「お鯉」という名前をつけられたわけです。 その美貌を歌舞伎役者の市村羽左衛門に見初められ、 結婚しますが、やがて破綻。新橋に舞い戻って 芸者として再びお座敷に出るようになります。 そんな彼女に目をつけたのが、元老の一人、山県有朋。 山県は、可愛がっている首相の桂太郎が、 激務の中、ゆとりのない暮らしを送っているのを憂い、 美しい上にキップのいい「お鯉さん」を引き合わせたのです。 ある日の座敷、桂と初めて顔を合わせたお鯉さん。 「玩具にされるのなら嫌です。芸者だって人間です。生涯のことを考えて下さるのでなければ御免を蒙ります」 こう、タンカを切ったんですね。 首相はそんな彼女をすっかり気に入って、 官邸へと迎え入れることになったのです。 二人の蜜月は、おりしも日露戦争の真っ最中。 日本軍はめでたくロシアを打ち破り、 さて講和条約が結ばれることになったのですが、 実は日本にとっては土俵際、ギリギリの勝利。 賠償金放棄もやむなし、と桂ら政府首脳は考えていました。
しかし、納得できない民衆は続々日比谷公園に集まってきた。 「政府は何を考えてるんだ!」「弱腰すぎるじゃないか!」 ヒートアップした民衆は大臣官邸や新聞社などを襲って、 あちこちで火を放ちます。東京市内には戒厳令が布かれ、 死者十七名を出す大騒ぎとなりました。 これが、世に言う「日比谷焼き打ち事件」。 お鯉さんの住む家も、暴徒に取り囲まれます。 もし危害を加えられるようなら自害しようと、 白装束で懐に剣を偲ばせ、騒ぎが収まるのを待ちました。 大正二年(1913年)、桂は世を去ります。 世間体をはばかり、「月二百円の手当てを出すから、 後はひっそり暮らしてくれ…」という遺族に対して、 「バカにおしでないよ。あたしゃ、誰の指図も受けません」 と、大金を蹴って、再び一人暮らしを始めたお鯉さんは、 後に出家。目黒・羅漢寺の女住職となって、 昭和二十三年に亡くなるまでそこで暮らしました。

8月27日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日登場の美女は「新橋ぽん太」。
本日ご紹介する「新橋ぽん太」、むろん、本名ではございません。 本名は「鹿嶋ゑつ」。明治十三年(1880年)、品川の色町に 生まれています。父親は、箱屋…と申しますから、 芸者さんの「付き人」のような仕事をしていたんですね。 幼い頃から美しかった娘、ゑつは、新橋へと移り、 ごく自然に芸者への道を歩き始めます。 そこで付けられた名前が「ぽん太」。当時、芸者のブロマイドが 一般に売られて、大変な人気を博したものなんだそうですが、 このぽん太さん、常に売上ナンバーワンを誇っていました。
当時の文学者も、彼女の美しさには度肝を抜かれていた様で、 斎藤茂吉は、次のように随筆を書き残しています。 「私は小遣銭が溜まると此処に来てその英雄の写真を買いあつめた。 そういう英雄豪傑の写真に交つて、ぽんたの写真が 三、四種類あり、洗ひ髪で指を頬のところに当てたのもあれば、 桃割(ももわれ)に結つたのもあり、 口紅の濃く影(うつ)つてゐるのもあつた。 私は世には実に美しい女もゐればゐるものだと思ひ、 それが折りにふれて意識のうへに浮きあがつて来るのであつた」 ぽん太さんは、その美しさを見込まれて、 当時の豪商、紀伊国屋文左衛門の再来といわれた大金持ち、 鹿嶋清兵衛の夫人となったのです。 遊び人として名高かった鹿嶋清兵衛の道楽は、写真。 ぽん太と知り合ったのも、彼女に写真のモデルを 依頼したのがきっかけだったんだそうです。 清兵衛さんがどれくらいの遊び人だったかと申しますと、 ある時は新橋から京都まで列車を借り切って、 数百人の客をのせて道中はずっと飲めや歌えや大騒ぎ。
車中には芸者や少年音楽隊まで乗っておりました。 そして京都の駅から一同大パレードで鴨川まで乗り込み、 ここで大規模な幻灯の催しを行ったとか。 またある時は、日光華厳の瀧の大パノラマ写真を撮影しようと、 特大の暗箱や組み立て式の暗室などを特注、 機材一式を数十人の人夫にかつがせ、いろは坂を上ったとか… とてつもないスケールの遊び人だったんですね。 しかし、こんな日々はいつまでも続きません。 道楽もいい加減にしろ! と、清兵衛さんは勘当され、 ぽん太と二人、小さな写真館の経営を始めます。 ところが、さらに悪いことは重なるもので、清兵衛さん、 フラッシュに使うマグネシウムの事故で重症を負います。 それ以来、ぽん太は、二人の間に生まれた子供たちを 育てながら、長唄や踊りの師匠として暮らしを支え、やがて 「貞女ぽん太」として世間から称えられるようになったのです。 女流作家・長谷川時雨は、彼女の美しさを、 「はたち前には牡丹の濃艶さ、 三十歳には萩、芙蓉のしおらしさとなまめかしさがある」と、 書き残しています。 大正十三年(1924年)、最愛の夫、清兵衛が世を去ると、 ぽん太も後を追うように、翌年、亡くなったのです。

8月28日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日登場の美女は「松旭斎天勝」。
女奇術師、松旭斎天勝。 名前をご存知の方も、たくさんいらっしゃるでしょう。 明治十七年(1884年)、神田の質屋に生まれた少女、勝。 蝶よ花よ…と、大店のお嬢様として少女時代を送ります。 ところが、父親が競馬に夢中になり、 不忍池の周りを競馬場にしてしまうという計画に巻き込まれ、 その「運動資金」に財産を投げ込んでスッテンテンになる。 もうこれは、自慢の娘、勝を芸者にでもするしかない…と 考えていたところ、彼女の美貌に感心した知り合いが、 さる家の小間使いに…と、推薦してくれたんですね。 その、「さる家」というのが、当時を代表するマジシャン、 松旭斎天一のところだったのです。 天一は、勝の手先が器用なことに感心し、 本格的なマジシャンとして鍛えようと決意、 「天勝」という芸名を与えます。 弟子入りした頃こそ、勝はまだあどけない少女でしたが、 時が経つと共に背も伸び、出るところは出て、 引っ込むところは引っ込んでくる。 ま、こうなると、師匠と弟子の関係から、 男女の関係へと発展していくわけでございます。
名実ともに、一人前の「女」となった天勝。 十六ともなりますと、それは凄まじい人気者となり、 学生たちのアイドル的存在となります。 イタズラ半分に、同じ客を毎晩呼んでみようと、 狙った男にじいっ…と流し目を送ると、翌日も決まって、 同じ場所に座っていたというからハンパではありません。 彼女が劇場に登場すると、大学や予備校の出席率が ガタッと落ちる…そんなこともあったそうです。 ところが或る日、そんな流し目を送った客の一人が、 「頼むから俺と結婚してくれ。これが気持ちだ」と、 自分の小指の先を切り取って突きつけるという事件に発展。 またこの男性というのが、中国の外交官の息子さんという、 とんでもない相手だったので、天勝さんも大恐縮。 それ以来、こういうイタズラからは、一切足を洗いました。 火曜日にご紹介した川上貞奴と同じく、 この松旭斎天勝も、欧米を巡業して大喝采を受けました。
アメリカ巡業中、コインを使うマジックで、枚数を数え、 ワン、トゥ、スリー、フォー、ファイヴ…ときて、 次の「シックス」の「スィ」の音がうまく言えないで、 そのたびに「セッキス」と発音いたします。 うら若い美女がステージの上で「セッキス」を連発する、 こりゃたまらん…というので大ウケ。 ツアーを続ける途中、彼女もようやく発音になれて、 正しく「スィックス」と発音したら、 袖からマネジャーが飛んできて「ノーノー。セッキス」! アメリカでは「ミス・セッキス」「セッキス・ガール」として 凄まじい人気を博したんだそうです。 日本に戻ると、彼女は押しも押されもしない大スター。 師匠の引退後は、イリュージョン、マジックの第一人者… としてだけではなく、時代を代表するスーパースターとして、 昭和九年(1934年)の引退まで、 ショウビジネスの世界に君臨し続けました。

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