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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

9月28日(火)〜10月2日(金)
今週は、「焼け跡闇市ストーリー」。 昭和二十年(1945年)の敗戦から数年間、
人々の暮らしと命を支えた「闇市」をめぐる 数々のエピソードをご紹介して参ります。

9月28日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「光は新宿より」。
昭和二十年(1945年)八月十五日。 日本は、連合国の出した「ポツダム宣言」を受諾し、 無条件降伏、ここに長い長い戦いの日々は終わりを告げました。 もう空襲の心配はいらない。ぐっすり眠れる夜が戻ってくる。 東京に暮らす人々にとって、これは、大きな救いでした。 しかし、街の中は、見渡す限りの焼け野原。 食べ物を手に入れるのも大変な苦労。 その上、戦争に負けたとなると、戦場で生き残った男たちや、 大陸に渡っていた一般人が、次々と内地に引き上げてきます。 これから冬に向かえば、燃料も必要になってくる。 いったいどうすればいいのか… 命が助かった喜びの次にやってきたのは、 これからの暮らしに対する、底知れない不安でした。 そんな人々のことを、心から案じていた一人の男がいます。
尾津喜之助(おづ・きのすけ)、当時四十七歳。 戦争中、食べ物など物資が不足していくと、国が全てを管理し、 国民に分配する「配給制度」が始まっていました。 これは、それぞれの家庭に、人数に応じた「切符」を配り、 それと引き換えに品物を渡す制度です。 しかし、絶対的な量が足りない中で行われたため、 制度の網をかいくぐる「闇取引」が後を絶ちませんでした。 「このまま放っておいたら配給の物資はさらに不足する。 闇市ができたら、物価がとんでもなく高騰する。 なんとか、自分たちの手で、適正な値段で、 適正なものが手に入る市場を作らなければ…」 これが、尾津の想いだったのです。
そして、敗戦から僅か三日後の、八月十八日。 主な新聞各紙に、次のような広告が載りました。 「工場ならびに企業家に急告! 出来上がり製品は適正価格で大量引き受けに応ず、 希望者は見本を至急持参あれ 淀橋区角筈新宿マーケット関東尾津組」 その日から、事務所には各地から中小企業の経営者が 続々と訪れるようになりました。 尾津は、持ち込まれたどんなものでも買い入れ、 マーケットに並べる品物を確保します。 また、軍需産業の下請けで、これから何を作ればいいのか、 途方に暮れていた業者には、日用雑貨を作るよう依頼。 そして二日後の八月二十日には、新宿東口の焼け跡に、 ヨシズ張りの「新宿マーケット」が、堂々、オープン。 9月になると、「光は新宿より」と大きく掲げた看板を 百十七個の電球で煌々と照らします。 お隣、大久保駅からもはっきり見えたというその看板は、 敗戦で打ちひしがれる東京の市民にとって、 文字通り、希望の光となったのです。

9月29日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「新宿闇市マップ」。
昭和二十年(1945年)八月二十日。 「光は新宿より」のスローガンのもと、露天商、 尾津喜之助は「新宿マーケット」をオープンします。 国の配給に任せていたら、人々は飢え死にしてしまう。 市民のために、適正な値段で必要な品物を供給し、 しかも女コドモでも安心して歩けるマーケットを開こう… これが尾津の思いでした。 進駐軍の乱暴な兵士たちや、戦勝国の民間人などが 我が物顔に振舞う街は、危険でいっぱいだったのです。 尾津が仕切っていたマーケットは、新宿の東口… 新宿通りの四谷方面へ向かって右側、 現在のツタヤから三越アルコットの手前あたりまで。
このほか新宿には、現在の東口広場前の野原組、 そこから南口・甲州街道にかけての和田マーケット、 そして西口、大ガードから京王線改札あたりまで広がる 民衆市場と、様々な「闇市」がオープンし、 それぞれ戦後の数年間、大変な賑わいを見せました。 「大変だったのは焼け跡の整理だよ。 崩れたビルのコンクリートを、重さ16キロの 大きなハンマーでぶん殴らせたんだ。 おったてるのは、訳なかった。三十二の店舗を たった二時間でヨシズまで張り、一日のうちに 売り場の台から棚まで、全部作っちまったよ」 尾津喜之助の言葉です。 とにかく、あっという間に出来上がるのが闇市の凄さでした。 後に、昭和二十四年、アメ横で大きな火事が出たときのこと。 まだ端っこの方では火が燃え続けているというのに、 最初に燃えた辺りではどんどん材木が運び込まれてくる。 夜明け前には、もう何軒かのバラックが建っていたそうです。
東京に暮らす人々は、闇市や闇物資がなければ、 命をつなぐことができなかった。法律に従って、 配給物資だけに頼っていれば、飢えるしかなかったのです。 実際に、東京地裁の山口良忠(よしただ)判事は、 「法律に携わる者が、法律を破る訳にはいかない」と、 一切の闇米を拒否。配給の食糧だけで暮らしていましたが、 昭和二十二年(1947年)十月に、栄養失調のため、死亡。 体調を壊す前、山口判事は、闇の食料売買で逮捕された人々の 裁判を担当し、「みんな飢えているのだから…」と、 温情溢れる判決を下していたそうです。 それだけに、自分自身を厳しく律する所もあったのでしょう。 終戦後に起きた、やりきれない事件の一つです。

9月30日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「闇市名物あれこれ」。
昭和二十年(1945年)八月、 敗戦から一週間も経たないうちにオープンし、 瞬く間に都内の主要な駅前の焼け跡に広がっていった闇市。 実際の闇市がどんなものだったかを知るのに、 絶好の映画があります。黒澤明監督の「酔いどれ天使」。 いま流れている笠置シズ子さんの「ジャングル・ブギ」は、 この映画の挿入歌でした。物語は、闇市を仕切る若きヤクザと、 彼を見守る医者が主人公で、ヤクザを演じたのは、若き日の 三船敏郎、これが初めての主演作となりました。
一方、医者を演じたのは、重厚な演技の志村喬。 登場する闇市は、実は広大なオープンセットなのですが、 映画が製作されたのは昭和二十三年(1948年)ですから、 まだまだそこら中にホンモノの闇市が広がっていた時代。 徹底的にディティールに凝る黒澤監督ですから、 映画の中に広がっているのは、実際の闇市よりも、 もしかしたらリアルな風景なのかもしれません。 無法地帯の闇市を駆け抜けていく、当時二十八歳、 純白のスーツを着こなす三船敏郎のカッコいいこと! イイ男好きの女子の皆様には、たまらない作品かと思われます。 焼け跡、闇市…とくれば、「リンゴの唄」。歌っているのは、 東京大空襲で母親を失った並木路子さん。 この大ヒット曲は、焼け跡に暮らす人々を勇気付けました。 リンゴなどの果物は、闇市でも大人気の商品でしたが、 さて、闇市で売られていた「名物」にはどんなものがあったか。
いの一番に挙げられるのが、「残飯シチュー」です。 特大サイズの鍋に、進駐軍の食堂などから出た残飯を入れ、 それをドロドロになるまで煮込んであるというシロモノ。 もとはアメリカ人の食べ物ですから、けっこう脂っこく、 よく見ると肉の切れ端やコンビーフのかけらも 混じっていたそうです。とはいっても、元は残飯ですから、 やはりツーンという、すえたような香りが鼻を刺し、 タバコの吸殻なども混じっていたそうですから、 あまり衛生的ではなかった。でも、お腹が極限まで減ったとき、 体を温めたいときには絶好の一皿だったとか。 また闇市オリジナルのタバコもよく売れました。 正規品の洋モクは、とてもじゃないが手が届かない。 そこで、投げ捨てられた吸殻をバラして集め、 もう一度紙に巻いて再生して売られていたのですが、 これにもランクがありました。 一番上等なのが「進駐軍用の再生品」。 ラッキーストライクやキャメルなんかを集めたものです。 これに続くのが「自家製のタバコ」で、 一番安いのが「吸殻のブレンド」。こうした再生タバコは 当時、「シケモク」と呼ばれ、流行語となりました。

10月1日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「メチルとカストリ」。
闇市では、ありとあらゆるものが売られていました。 もちろん、お酒、アルコールの類も例外ではありません。 ただし、物資は極端に不足していましたから、 マトモな酒には、まず、お目にかかれない。 よく売られていたのが、燃料用のアルコールを 水で薄めた「バクダン」と呼ばれる飲み物。 戦争末期に、飛行機用に作られたアルコールが闇市に出回り、 これが盛んに売られたのですが、 実はこの怪しい飲み物には、メチルアルコール、 メタノールが含まれていることが多かった。 メタノールは人間にとって有毒な物質で、 飲むと気持ちが悪くなって倒れ、ひどい時は失明、 さらには命まで落としてしまう可能性がある恐ろしいモノ。 それでも、お酒を飲みたい、酔っ払いたい人々は、 ロシアンルーレットに挑むように、 バクダンに挑戦することを辞められなかったのです。 終戦後から昭和二十一年にかけ、メチルによる死者は、 およそ二千人に達しました。
この中には俳優の月田一郎(つきた・いちろう)や、 歌手の鬼俊英(おに・としひで)といった有名人も 含まれていたことから、大きな社会問題となったのです。 バクダンに続いて、闇市で人気となったお酒が「カストリ」。 これはドブロクを手っ取り早く蒸留した密造酒で、 昭和二十一年(1946年)の秋ごろに出現しています。 バクダンのような命がけのチャレンジは必要なく、 しかも、しこたま酔っ払える…ということで、 たちまち闇市の酒場で人気を集めるようになりました。
で、この密造酒の名前で呼ばれるようになったのが、 「カストリ雑誌」と呼ばれる大衆雑誌の数々、 これもまた闇市の人気商品でした。 エロ、グロ、ナンセンスを主流にしたこうした雑誌は、 次から次へと創刊と廃刊を繰り返します。 大抵は3号も出れば潰れてしまう、というので、 「三合飲めば潰れる」カストリ酒に引っ掛けて、 この名前で呼ばれるようになったのです。 表紙には半裸、あるいは全裸の扇情的な女性の イラストが描かれ、中身もそれを裏切らない、 どぎつい記事がてんこ盛りでございました。

10月2日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「さらば闇市」。
「光は新宿より」… この美しいキャッチフレーズを引っさげて、 新宿東口に民衆のためのマーケットを開設した露天商、 尾津喜之助は、一躍、時の人となりました。 昭和二十年(1945年)の秋から、翌・二十一年にかけて、 都民の生活は闇物資なしには成り立たない状態が続きます。 東京都庁や警視庁、さらには食料政策の大元締めである 当時の農林省の役人たちも、食料買出しのための欠勤が目立ち、 最終的には「食料調達のための有給休暇」が認められるほど。 警察も露天商たちの自主的な運営を認め、 昭和二十年の十月には「東京露天商協同組合」が設立されます。 初代理事長は、もちろん尾津でした。 尾津は、マスコミの寵児となり、「町の商工大臣」、 現在で言うなら「経済産業大臣」としてもてはやされます。
「尾津喜之助さんは、正に時の人だ。お役人の命令や、 デスクプランでは、どうにも出てこない品物を、 どっと出した芸当など、政府のやり方より、よっぽど 大向こうに受けている」ある雑誌記事の一節です。 昭和二十一年の大晦日になりますと、NHKの特別番組、 「名士かくし芸大会」に。漫画家の田河水泡、 女性代議士の山口シヅエといった面々と共に出演したほどで、 これは現在で言えば、紅白歌合戦の特別審査員… といったところでしょう。 戦後二年、昭和二十二年(1947年)になると、 ある程度物資も出回るようになり、闇市の存在意義も、 少しずつ薄れて参ります。すると、尾津を始めとする、 露天商たちへの風向きも、少しずつ変わり始めます。 復興しつつある盛り場に、見苦しい露天はふさわしくない。
本来、公共の場である道路や、地主のいる焼け跡を、 露天商に特権的に使わせていいものか? 終戦直後、どれだけ彼らのお陰で助かったか、そんなことは すっかり忘れて、マスコミも反対キャンペーンを始めます。 これには連合軍総司令部、GHQの意向も、 強く働いておりました。 「露天商の親分、子分という関係は、日本の民主化にとって 好ましくないものだ」これがGHQの考え方だったんですね。 昭和二十二年の六月には、尾津が不法占拠をめぐる イザコザから逮捕され、その評判は地に落ちてしまいます。 昭和二十四年(1949年)になると、「常設露天市場」の 整理が始まり、それから二年ほどで、ほとんどのマーケットは、 都内の路上から姿を消してしまったのです。 現在、その名残が残るのは、新宿西口の思い出横丁や、 吉祥寺北口のハモニカ横丁など、数えるほどになりました。

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